自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・播但線アラカルト 3
251.  生野峠のC57三重連 ・播但線 /新井→生野 間

〈0001:25-8-4:さよなら三重連 1 、熱狂のお立ち台にて〉
0001:播但線・新井→生野 

〈0002:さよなら三重連・(最終日):昭和47年9月30日撮影〉
播但線・新井→生野:「にほ」(稲束の丸住)の散在する秋の田んぼを前景に

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〈紀行文〉
 播但線の生野峠を登るC57のドラフト音を収録すべく通っている内に、この線では回想の機関車を前付けした三重連が何かの偶然で撮影したとの話を聞いたことがあった。そこで和田山機関支区を訪れた際に、その様子を伺ってはっきりした。通常であれば、姫路〜和田山間の旅客列車と貨物列車にはC57が、姫路〜寺前間の通勤列車にはC11が牽引していた。それに生野峠を挟む最大25‰の急勾配区間には、JJ54による前補機の運用がされていた。ところが、このDD54に何らかの不都合(故障や臨時増発など)が生じた場合にはC57が代役を務めていた。それに加えて回送などの運用があった場合には、それが前つけされるため重連や三重連が見られることがあると云うのだった。
電文に寄れば、播但線をを経由して大阪と山陰を結ぶ冬の臨時列車は昔から運転されていたようであった。特に昭和46〜7年(1971年〜72年)の1〜2月には、スキー臨時列車(「但馬銀嶺号」の7212レが大阪駅から山陽本線、播但線経由で長谷駅まで運転された。その牽引機を長谷駅やヒメジ駅と和田山駅との間を回送するため、重連や三重連が何度か運転されるのが判ってきた。その三重連の詳細は、土曜(休前日)の和田山から姫路行きの636レ列車であって、その力行する区間は和田山から生野の峠へ登る区間であったから、好撮影ポイントの多い生野−長谷 間は絶気となってしまうのが残念であった。
そんなことから、私は正月休みに山陰や九州へ出かける際には、日程を調整して播但線の三重連を狙ったことがあったが、なかなか幸運にはめぐまれないうちに、サヨナラの日が来てしまった。
やがて時が過ぎて、鉄道100年、播但鉄道からなら70年を迎えた昭和47年(1972年)10月のダイヤ改正から播但線は無煙化されることになった。それは前日の9月30日限りで長年活躍した蒸気機関車が播但線から引退することであった。これを記念して、定期の普通旅客列車一往復が、C57型蒸気機関車が前に3両ついて牽引する三重連として、9月24日と30日に運転されることになった。その列車は午前11時過ぎに和田山駅を発車する上り普通636列車を牽引して姫路に向かい、夕刻の17時半頃に姫路駅を発車する下り 633列車で和田山に戻るダイヤが組まれていた。さよなら運転が三重連となると云うニュースを聞いても別に違和感はなかったことを覚えている。それは既に生野峠で三重連を二度ほと撮るチャンスに恵まれていたからでもあった。
今まで私は敢えて「さよなら運転のイベント」を撮りに行くのは避けていたのだったのに、何故か今回は妙にやる気が高まってきた。誰の配慮だったのであろうか、その記念列車にはヘッドマークを付けることを行わず、また牽引する機関車には集煙装置の装備されていないカマが選ばれる途の前評判であった。
実際に豊岡機関区所属の
C5795+C57113+C57156
が出場したのであった。一方の客車の編成は、ぶどう色の旧型客車と、 近代化改造済みのアルミサッシの狭い窓が並んだ青色の客車との混成で、機関車の次位には半室荷物車が連結されており、当時としては普通列車の平均的なスタイルであった。そして九月24日の撮影では、新井駅から峠に向かう途中に西側に迫っていた山が切れていて円山川の支流が流れ下ってくる大きな谷が開いいていた。播但線の線路は急勾配を維持したままの築堤で谷を横断していた。その長い築堤の中間には、その支流と谷奥の集落へ通じる道路を跨ぐ短い鉄橋が架かっていて、格好のアクセントとなっていた。わたしは前からこのポイントで撮ったことがあり、充分に三重連の長さでも斜め左側から撮ることが可能なので迷わずに駆けつけた。国道の近くにクルマを駐めて、鉄橋をくぐって左側の山の高見に登って三脚を据えた。通過時間が迫って来るに従って次々と集まって来たカメラマンの群れによって撮影ポイントはたちまち満員となってしまった。そして、眼科にはカメラマンたちの頭で埋め尽くされてしまうほどの盛況となって、何度もアングルを変更させられた。案の定(あんのぎょう)、肝心の撮影チャンスが到来した時には、人々が立ち上がって興奮状態となり、怒号が飛び交うという修羅場しゅらば)となってしまった。私はかろうじて手持ちのモノクロを詰めたプレスカメラで撮ったショットだけが生き残っていた。これが二枚目の写真である。先頭のカマのフロントには陽が当たっていた。悪いことは重なるもので、帰りの国道筋は福崎の街並みを通過するところで秋祭りの御輿(みこし)が出ていて、国道の大渋滞に巻き込まれてしまい散々であった。
そんな失敗にもこりずに、再び気を取り直して、30日の「さよなら」のイベントに挑戦した。今度は新井駅から勾配区間に入ってまもない地点の付近を探し回った。そして、出来るだけ道路から離れた場所で、カメラマンの集まりそうもなさそうな稲刈りの終わった「田んぼ」の「どまんなか」に三脚を据えた。幸運にも、前景にカメラマンの姿はなく、替わりに但馬地方特有な秋の風物詩とも云うべき稲束の乾燥風景が前景として捉えることができた。
この辺りの沿線風景は、三重連の起点である和田山駅からは、しばらくは広々とした谷底平野の「田んぼ地帯」を左手に見ながら進むが、やがて右手を仰ぐようにそびえる山の頂上に残る石垣の竹田城痕が見えてくると竹田城駅となる。次いで青倉駅を過ぎると両側の山々が次第に迫ってきて谷は狭くなって来た。そして、和田山から約15kmも走った所で新井駅となる。この辺りから西側の山すそに沿いながら急カーブと急勾配の続く生野峠への上り坂となって、西側の山肌の中腹をはうように進んで次第に高度を稼いで行く。
この辺りは生野峠に連なる中国山脈からの水を集めた円山川の上流部に位置していて、豊かで清らかな灌漑用水が恵んでくれる銘柄米で知られる「但馬米」の水田地帯であり、上流でも狭い谷を細長い「田んぼ」や、場所によっては棚田を耕して斜面をはい登っていた。
この円山川は流れ下って、やがて幅が4kmもある豊岡盆地に入ると穏やかに蛇行してゆったりとした流となり、柳の繁茂する川岸を見せながら日本化へ向かって北流して行く。この盆地は「こうのとり」の保護繁殖地として知られており、流域には(ヨシ原」や河畔林、それに収穫の終わった水田などに恵まれていて、冬の野鳥の楽園でもあった。
ところで、さよなら3重連の走ったのが9月末であったから、田圃は既に稲刈りが終わっていて、昔と変わらぬ伝統的な稲干し作業が行われており、そ稲束を野積みした「にほ」が切り株の頭だけがのこっている「田んぼ」の中に散在していた。これは穂を中心にして円形に積み上げた「丸野積み」した稲束の塊なのであった。この昭和47年頃は未だ、稲刈りと脱穀を一挙に行うコンバインが導入されておらず、伝統的な稲作の手順で、秋から雪の降る初冬の頃まで野外に野積しておくと、自然に稲束を乾燥させることができ、自然の恵みを一杯に享受した「稲もみ」が作られていたのであった。
民俗学の云うことには、関東や北陸で良く見かけるはざを使う天日干しは比較的新しい方法なのであり、古くは刈り取った稲束を円錐形に積み上げたニ、丸い野積が稲の乾燥方法であった。何れにせよ稲の自然乾燥の方法は野積みも含めて、地域の風土や歴史的な条件を背景にして色々なやり方が見られて、写真の前景としては魅力的であった。それと同時に、田の神を祭るり際して、稲穂の付いたままの稲を供えしたのを「ニホ」と呼んだことから、穂のついたままの稲束を積んだものも「にほ」と呼んようになったとする説が有力だとか。
この丸山河の谷筋で見た「にほ」の丸野積みは、土地の乾きがあまり良くないところで使われるようで、刈り始め,または最後の株を高刈りにして、その上に刈取った稲の根本を載せ、通気を良くして、わらや籾の乾燥を促しているのであった。このような風景は確か、南九州の吉都線沿線でも見かけたことを想い出した。
その後、SLが消えてまもなく稲作にも近代化が押し寄せて来て、こんな風物詩も消え去ってしまったことであろう。

撮影:1972年、1月と9月

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・播但線アラカルトのリンク
252. 生野峠を登るC57重連・播但線/長谷−生野−新井 
144. 和田山機関車庫と二つの歴史的城跡・播但線/京口&和田山
(姫路城遠望と竹田城跡からの俯瞰)