自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

144.  和田山機関車庫と二つの歴史的城跡 ・播但線 /京口&和田山
(姫路城遠望と竹田城跡からの俯瞰)


〈0001:bQ044-6:夏の和田山機関支区にて、二両のC57と体操〉
0001:播和田山機関車倉庫の前のC5

〈0004:bQ71012、体操とC57、モノクローム〉


〈0005:bQ71016 重連発車(和田山−新井)〉





〈姫路城遠望〉
000に:朝のC11牽引の通勤列車京口駅発

〈竹田城跡からの城下町俯瞰:まるで模型レイアウトのような町を列車が行く〉
0003:〈“今日もまっ晴れ” 鉄道のある風景専科〉さまより借

『今日も まっ晴れ! PhotoGallery』鉄道のある風景写真専科
http://www.h3.dion.ne.jp/~mappare/
・上の中の次のフアイルです。
西日本:梅雨明けの播但線
http://www.h3.dion.ne.jp/~mappare/07.07.23bantan.html
・上の中の一枚です。
ban62:まるで模型レイアウトのような竹田の城下町を列車が行く。
(城からの俯瞰は他にも多数あります。)

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
    瀬戸内の姫路から日本海側の和田山を結んで山陽と山陰の連絡ルートである播但線のC57を撮り始めてから何回目であったろうか。ある年の盛夏の頃、出張先の仕事を終えて、その三重県の鈴鹿市から夜のドライブで鈴鹿峠を越えて京都から丹波口を経て播但線の終点である和田山駅前に早暁の少し前に到着した。お盆休みの最中だったからであろうか、機関区はひっそりと静まり返っていた。駅前にクルマを駐車して、しばし仮眠をむさぼった。低い朝の陽光に照らされて眼を覚ました。再び機関区へ出かけた。快晴の空の下で、C57を前にして、鮮やかな緑十時と安全第一を画いた赤煉瓦(れんが)造りの機関庫のポートレートを撮った。
    今でこそ和田山駅は山陰本線の福知山と豊岡との中間に位置して、山陽の姫路へ向かう播但線との接続点として息づいていた。ここは元々、生野銀山で掘り出された銀鉱産物を瀬戸内の飾磨港「しかまこう)へ輸送するのを目的にし、あわせて瀬戸内の人たちの日本海に面した城崎温泉への湯治客のための交通の便として明治中頃に飾磨(しかま)からの鉄道馬車を建設するために創業した播但鉄道が始まりであった。やがて明治36年(1903年)に山陽鉄道の播但線となってから、明治39年(1906年)に和田山駅が開業したのであった。間もなく山陽鉄道は国有かされてしまった。その国鉄では播但鉄道が目指していた城崎温泉まで、この地方の中心都市である豊岡を経て延伸開業した。さらに、その支線が西の香住まで、東は福知山まで開通すると、豊岡に機関区を設けて開業した。その後、明治45年(1912年)に山陰本線が編成されると、播但線は昔の飾磨港−和田山 間のに短縮された。この時に、播但線を受け持つ機関区として豊岡機関区和田山機関支区が設けられたのだった。
   それは、山に囲まれた和田山駅の広い構内の北側に設けられ、機関庫と給水塔、給炭台、および転車台、引き込み線などが整えられた。ここの主役である蒸気機関車は事大と共に移り替わってはいるが、明治の終わりに完成した切妻屋根の機関庫が使われていて、存在感あふれる煉瓦造りで、大正ロマンを匂わせる二つの煉瓦アーチの入り口のデザインが相変わらず美しい姿を見せていた。そこには二線の引き込み線が納まっていて、車両の下にもぐって点検できるような溝(ピット)が作られていた。私の訪ねた頃は、煙突に鷹取式終演装置と重油タンクを備えた重装備のC57が主力であった。それに、この受け持ち線区には最大勾配が25.0‰の生野越えがあったから前補機が使われていた。そのサミットにある生野トンネルの狭いことから、乗務員の煙害を避けるため優先的に昭和35年(1960年)には 初の国産による量産されたDF50型ディーゼル機関車が、続いて昭和44年(1969年)からはDD54型ディーゼル機関車が補機専用として山陰本線と同時に投入されていた。
   いずれ近いうちに、赤い煉瓦造りの機関車庫は近代化産業遺産として登録されることを祈りながら別れを告げた。
   駅の待合室で一休みしていると、売店に「天空の城 竹田城」と題された風景写真が飾ってあってその城の絵はがきが売っているのを見付けた。
   実は、わたしはむかし「城郭フアン」のはしくれであったのに、ここに竹田城と云う屈指の山城の存在を全く知らなかったのだった。早速絵はがきをかって、何れ訪れる機会もあるだろうとおもいながら、生野峠へ向かった。この旅を終えてから、手持ちの大類伸博士著「日本城郭史」を調べて、眼から鱗(うろこ)が落ちたのであった。そして思い付いたのは、この播但線の沿線に二つの城痕が存在しており、いずれも沿線から遠望できたから、その城痕の姿をバックに播但線の列車を取ろうとする構想であった。その第一は、云わずと知れた起点の姫路駅からも眺められる世界遺産となった代表的な近世の平山城の「白鷺(しらさぎ)城こと、姫路城」である。その他方は終点の和田山駅の一つ手前の竹田駅の真上にそびえる竹田城であった。やがて、姫路城から始めた。
    今までもクルマで遠路生野峠との間を往復する際には、いつも姫路城を横目に眺めては素通りしてしまっていた。ある時に思わぬ早朝の低い陽光を浴びて、黄金に輝いている姫路城の天守をかいまみたことを思い出していた。そして、新たにズーム式望遠レンズを手に入れたのをチャンスに、朝の陽光に輝く姫路城をバックに蒸機機関車の牽く列車を撮ろうと決めて、ある初夏に二日がかりで挑戦した。先ず、早朝の陽光が天守閣を輝かせているのを狙うことにして、沿線をくまなく走り回って邪魔物の入らないアングルを探しに専念した。朝の通勤時間帯には6本もの蒸気機関車の牽く通勤列車が走っていたから、まことに都合がよかった。
   ここに選んで、お目に掛けた一枚の写真は姫路へ向かう寺前駅発の朝の通勤列車で、C11が6両の客車を牽いて高架化される前の京口駅を発車したところである。この手前の河原は生野峠から流れ下ってきた市川の堤防ではなかろうか。
    そこで付近を走り回って得た知見から、この辺りの風物を点描してみよう。この城下町 姫路を中心とする姫路平野は播州平野の西部に位置していた。その東部を播但線沿いに流れ下る市川、それに中部の野田川や二股川(昔の市川の本流)が、中西部を大津茂川が、西端を姫新線沿いに流れ下る揖保(いぼ)川が、それぞれ南流して播磨灘(はりまなだ)にし注いでいる。この地域は中国山地周辺の沈水海岸であって、市川や揖保川などの多くの河川の運んだ土砂によって埋め立てられて生まれた複合三角州平野である。この平野の中には取り残されたような孤立丘が点在し、例えば姫山、名古山、手柄山、男山などの多くの小山などである、この平野の東寄りに位置する標高45.6mの姫山は周囲を遠く見渡せる場所であって、昔から砦(とりで)や山城が築かれていたのだった。時代が下って、天正8年(1580年)に織田信長の命によって、西国征伐のため播州平野に進撃していた羽柴秀吉は姫路城を西国統治の拠点として定めた。そして、直ちに城の大改修を始めた。その一年後には姫山を中心とした近世城郭に改めると共に、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲んで、さらに3層と伝えられる天守を築いた。それと同時に、城の南部に大規模な城下町を作り、今まで姫路の北を通っていた西国街道(山陽道)を曲げて、城下町を通るように改めさせるなどして、姫路を播磨国の中心地となるように整えた。
    さらに時代が下って、慶長6年(1601)年になって、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により播磨一国支配で姫路城に入った。そして、徳川家康の意向を受けて、豊臣恩顧の大名たちの多い西国を牽制する目的で、直ちに大規模の姫路城築造に着手して、約八年の長い年月を費やして広大な城郭を完成させた。この築城の時期は、関ヶ原の戦いと大坂の役の間に当たっていたから、極めて実戦本位の縄張り(レイアウト)となっていると同時に、その優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」としての輝政の威を示すに充分であった。それは標高 92mの高さに達する大天守と三つの小天守が結ばれた連立式天守閣がそ云われている。そのデザインは千鳥・唐破風(からはふ)の配置の妙と均衡の美しさが白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の外壁と相まって素晴らしいコントラストを見せているのだった。
   その縄張りは、本丸の東北にある丘裾丘陵の裾((すそ)を基点として、城を囲むように反時計回りに螺旋形(らせんけい)に3重の構えの堀が配され、船場川に外堀の役割を持たせている。現在、外堀はほとんどが埋め立てられてしまっているが、山陽本線と播但線が、かつての外堀の外側を走っていることから、その広さが把握できるし、ちなみに姫路駅は城の中心から約1km南に離れている。また城下町の町割りや外堀の南北線は東に約20度傾いている配置となっている。
   また、この大改修に即して、城下町の東近くを流れる市川を、上流の野里大日河原から東方向に大きく振って河道を付けかえて、城下町から約3kmほど南の飾磨(しかま)で播磨灘に注がせるようにして、大洪水と敵からの城下町の防御を固めている。一方、市川を渡って西に向かって来る西国街道に対しては、東城下町の面の外堀の外に京口門を設けて、場内に西国街道を引き入れた。そして、中堀と外堀の間を南に下り、次に城の南側を通過って備前門から場外の西国街道に結びつけた。その沿道に商業中心の城下町が栄えた。現在も西国街道の痕跡は、播但線の京口駅の高架下をくぐった所で右折、京口駅前を左折し京口公園に出る。その公園から西に進んだ先の所に姫路城外堀が残っており、そこに姫路城の外京口門があった。これは姫路城下への東入口であり、五つの門の一つで、その名の通り、京都へ続いている。姫路から見れば京道(きょうみち)でもある西国街道に結ばれていた。そのため京口と呼ばれたものである。この姫路の街は播州平野を束ねる交通の要所でもあった。それは、現在の国道2号線であって東西に通じている西国街道(山陽道)を起点として、北へは国道312号線に沿って生野峠を越えて山側の海に面した城崎温泉へ通じる但馬街道、それに国道29号線沿いに戸倉峠を超えて鳥取城下に至る若桜(わかさ)往来、国道372号線で中国山地の山中にあるの笹山、亀山を経て京都丹波口に至る播州路と笹山街道などである。
    ところで、姫路城の築かれた姫山の上には高さ 14.85mの石垣の天守台が築かれテオり、その上に高さ 31.5mの五層6階の大天守が建てられているので、天守の高さは海抜で92mにも達していて、姫路市内のどこからも天守を眺めることができた。二枚目に掲げた写真での姫路城の眺めは、京都方面から西へ向かう旅人たちが姫路の京口を目指して歩いて近づいて来る時に眺めた光景を再現している積もりである。ここでは、姫路城の詳細についてはは省くこととして、大天守と、それに従う東小天守、西小天守、乾小天守(いぬいこてんしゅ)の三つの小店主の連結した姫路城の外観は見る角度によって趣を大きく変化させるのが特徴であることをお断りして、ここでは真東からの外観を望遠レンズを通してご覧に入れたことになる。
    次いで、竹田城痕を語るには、この城が見てきた悲劇の歴史から始めたい。
   ここ播但線の無煙化が1年足らずに近づいていた頃になって、やっと竹田城痕を訪ねるチャンスがやってきた。竹田の城下町に入って、先ず竹田駅に立ち寄ってみると、明治末期に播但線が新井から和田山まで延伸開通した時に完成した駅舎であって、の古い城下町にふさわしい風格のたたずまいに眼を見張った。その堂々たる高さの屋根には黒くつやつやと光った瓦葺き屋根が重厚さを見せていて、ドッシリとした木造の建物には磨き込まれた茶色い梁を見せる白い壁、そして柔らかな木の腰壁などが記憶に残っている。そして、駅前から仰ぎ見るような城跡へ至る山道を徒歩で登り始めた。その頂上に着いてみると、先に見た姫路城が国宝で世界遺産となっている現存する豪壮な平山城であるのに対して、こちらの竹田城は累々(るいるい)たる高い石垣群だけが残る山城の城跡であると云う対照的なのに哀れさを感じたのが第一印象であった。
    ここから悲劇の歴史に入ろう。この竹田城は但馬守護大名の山名宗全が室町時代中期の永享3年(1431年)頃に、播磨や丹波との戦略上の拠点として家臣の太田垣光景に命じて円山川に臨ンだ虎伏山の山頂に13年の年月をかけて土塁(どるい)で砦(とりで)を築いたのが始まりとされている。その最中に近くの峠で山名氏が豊かな生野銀山を開いた。やがて太田垣氏の代々が城主として在城して、生野銀山の奪取を狙う敵から防衛に当たった。時代が移り、天正5年(1577年)織田信長の命により羽柴秀吉が但馬を攻め取った。この功績により弟の秀長が竹田城主となった。やがて、天正13年(1585年)に秀吉輩下となった赤松広秀が朝来郡 2万2千石の竹田城主に封じられた。そして小さな砦を13年もの歳月を費やして大規模な堅固な石垣積の城郭に改築した。やがて慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、赤松氏は西軍に加担して敗退、東軍に降伏した。命じられて亀井氏を助けて鳥取城を攻めたが、城下に火を放ち延焼させたと云う理由で徳川家康から詰問を受けた。亀井氏は責任を広秀にかぶせたために、赤松氏は切腹、お家断絶して滅びた。すぐに竹田城は廃城となってしまった。この城の築造工事のための苦役に駆り出された村々の百姓たちが皆夜逃げしてしまい、豊かだった稲田には樹木木が生えたほどの疲弊ぶりであったとの話が残っている。一方、この城と関わりの深い生野銀山は信長→秀吉→家康と支配者が移り換わって、江戸時代には竹田城の主な役割も終わを告げたのであろう。
    この竹田城の構造は、けわしい地形の山上に築かれた曲輪(くるわ)はすべて石垣で囲まれた梯子郭(はしごくるわ)式山城であって、“最後の近世の山城”として知られている。その城の築かれた虎伏山の標高は353.7mであり、麓の城下町にある竹田駅の標高は99.1mであるから、その標高差は何と 256mであって、徒歩で急な石段の坂を登るには約25分かかった。この石垣群は周囲にある山々などから遠望できたし、竹田駅近くの街道を旅する人々は仰き見るほどの高さであって、見る者に威圧をあたえたのであった。そして、谷底平野をゆったりと流れ下る円山川の竹田城跡の周辺では、秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に、川面からの朝霧が発生し、雲海に包まれた竹田城跡の姿は幻想的で、まさに「天空に浮かぶ城」を思わせることから、『天空の城』との異名が付けられている。
   この城域の規模は、南北400m、東西100mであり、天守台をほぼ中央に、本丸、二の丸、三の丸を頂上に、南尾根上に南二の丸が、その先に南千畳が、東北にある大手門を守備する北千畳、西部に花屋敷などの曲輪(くるわ)が空を舞う鳥の姿をイメージさせる「縄張り(レイアウト)」されている。山頂から三方に広がる尾根上に豪壮な穴太積みの石垣(安土城・姫路城と同じ形式)が自然石を巧みに配置して積んでおり、それは近江穴太衆(おうみあのうしゅう)と呼ばれる石工集団の手によるとされている。ここの本丸石垣は天守台南側の石垣で、高さは10.6mもある。ここで使われた花崗岩(かこうがん)の石材は、この山頂と近くの山からの採石であり、その最大のものは5tと推測されている。現在は国の史跡、日本100名城に選定されている。
    さて、私の撮った写真には、ここでお目に掛けられるほどの作品が見あたらないので、城跡の写真は他のサイトにお任せするとして、城跡からの城下町と播但線の列車を俯瞰(ふかん)した一枚だけを掲げた。これは
   相互リンクの延長うえとして借用させていただいた。ここに感謝の意を表します。
   〈竹田城跡からの俯瞰作品の典拠のリンク〉
    『今日も まっ晴れ! PhotoGallery』鉄道のある風景写真専科    
   http://www.h3.dion.ne.jp/~mappare/
   ・上の中の次のフアイルです。
    西日本:梅雨明けの播但線    
   http://www.h3.dion.ne.jp/~mappare/07.07.23bantan.html
   ・上の中の一枚です。
   ban62:まるで模型レイアウトのような竹田の城下町を列車が行く。
   (城からの俯瞰は他にも多数あります。)

    撮影:1973年(昭和48年)

・播但線アラカルトのシリーズのリンク
252. 生野峠を登るC57重連・播但線/長谷−生野−新井 
251. 生野峠のC57三重連・播但線/新井→生野 間