自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「米坂線の思い出」

214.  冬の宇津峠へ挑む  ・米坂線/手ノ子→羽前沼沢 


〈0001:24-12-1:冬の宇津峠を登る〉
 0001:米坂線/手ノ子→沼沢ん

〈0002:24-12-7:冬の宇津峠へ挑む〉
0002:「雪を巻き上げて」・米坂線/手ノ子→羽前沼沢

〈0003:31-7-1:黒煙をまっすぐ上に吹き上げてドラフト音を響かせて登ってきた〉
宇津トンネル直上の山腹からの俯瞰撮影(200mm望遠レンズ

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〈紀行文〉
 米沢盆地にある奥羽本線の米沢駅から日本海岸平野にある羽越本線の坂町駅とを結ぶ約90kmの米坂線は9600型蒸気機関車が活躍する数少ない路線で、私の住む埼玉県からそう遠くなかったので初期の頃から足しげく通っていた。やっと佳作に恵まれたのは最後の冬となる昭和47年の積雪の宇津峠を訪ねた時であった。夜行で米沢に着いて、機関区を偵察してから、夜明けを待って目指す手ノ子駅へ向かった。
米坂を米沢駅を南方に出発して急なカ−ブで奥羽本線と分かれて西に向きを変えると、やがて築堤を登って鉄橋に出た。ここは今は最上川の本流となっている松川が市内を流れ下っている所に架かる長さ180mの7連デッキガーターの松川橋梁を渡ることになる。晴れていれば吾妻連峰の美しい山並みの背景を撮れること受け合いの地点だ。やがてホーム一面だけの南米沢駅を過ぎて大きくカーブし西米沢までほぼ平坦な田園風景の中を進むのだが、ここまで来ると米沢市街を半周したことになる。西米沢駅を出ると会津境の大峠から流れ下ってきた鬼面川(おものがわ)に架かる長さ 169mの鉄橋を越える。そして成島部落を抜け、成島駅までは最急17パーミルの下りが続いている。この辺りでの上り列車の撮影には格好の場所のように思えた。そして、中郡(ちゅうぐん)駅、羽前小松駅を過ぎてしばらく進むと、これから終点新潟県の坂町まで並走する国道113号線が現れ、そして赤湯駅からの長井線が右から近づいて来るとホーム2面4線の今泉駅に着く。この先2kmほどで最上川の大支流である置賜白川(おいたましらかわ)に架けられた長い鉄橋を渡った所が白川信号場で、で直進する長井線に別れを告げて、35kmの速度制限のある大カーブを左に大きく向きを変えて進んで行った。やがて萩生を過ぎて、羽前椿駅からいったん進路を南にとると、しばらくは北越の背後に構える飯豊連峰の雄大な景色に向かって突き進むことになった。そこには二千メートル級の大日岳、飯豊山などの人々の畏敬の念を起こさせる山容が続いていた。やがて米沢盆地が尽きて車窓からは、いずれ白川、そして最上川へと合流する宇津川の蛇行した流れが形成した扇状地には、春の到来を待つ田園が白く広がっていた。その先の遠くには南の飯豊山連峰と北方に続く有数の大朝日岳の山塊との間を結ぶ標高600から700mの稜線があり、その橋渡しとなる鞍部は標高497mの宇津峠のように眺められた。ここは米沢駅から北西に約30km、宇津峠の東の口である「手ノ子」と云う集落の駅に着いたのだった。
 さて、手ノ子駅を出て集落の十字路に出た。直進すれば部落をバイパスする新しい宇津峠への新国道の工事現場へつうじているようであり、左折は県道4号線で白川ダム方面、そして右折する国道113号は昔の越後街道(をほぼなぞるように町を抜け出した。この先は白川の支流である宇津川に沿って登って行くと、標高 497mの峠まで高さ約250mにも達する屏風(びょうぶ)のような急斜面の山に突き当たり、線路は大きな築堤でカーブを描きながら「むじな(狢)沢」の谷間に取り付いて、2.6kmも沿って大きく南に迂回しながら、狭い稲田のちらほらある谷間を高度を稼いで行く。この線路は手ノ子駅から宇津トンネルを経て次の山間にある静かな駅、羽前沼沢駅までは9.2kmの長い区間であり、その中間にある米坂線最高地点、標高363mの宇津トンネルを目指す25〜33パーミルの過酷な急勾配のアプロ ーチが続いているのである。
一方、右折した国道113号線は未だ、峠へのアプローチ部分に過ぎないが、すぐに踏み切りを渡り、登りが始まる。この道筋もやがて「むじな沢」を見下ろしながら峠を目指している。この宇津峠付近を源とする「むじな沢」は流れ下って他の沢と合流し落合川となり、直ぐに宇津川に合流し、さらに流れ下って、飯豊山地からの白川を経て松川と合流して最上川となると云うから、これも最上川の源流の一つであると云えるだろう。
その沢の対岸には、ガツガツと斜面を切り開いて峠の下を貫く予定の新宇津トンネルへ通じる新道が作られつつあった。それにひきかえ、こちら側の国道は明治時代の馬車路であった小国新道を踏襲しているとのことであり、それも江戸時代からの越後街道にも一致しているとのことだった。
緩やかな登りを主体に、ときおりヘアピンカーブが混じっていた。一方の鉄道は、それらしく坦々と高度を上げていく米坂線とは、旧道は何度も上となり下となり、それでも離れずに登っていた。
最初の写真は、宇津トンネルの東側(手の子側)の最後のカーブを登っているところを山の上から俯瞰(ふかん)撮影を試みたものである。右からやって来た客車列車は灰色の煙をもくもくと吐きながらの力走であった。さすがの撮影名所だけあって雪の土手には7人ほどのカメラマンが待機していたのだった。
二枚目は私も土手に近づいて接近撮影を試みた。
山は吹雪でかすむでおり、左奥から線路の雪を舞い挙げて9600がやって来た。
 さて、ここで宇津峠を含めた米沢と越後(新潟県)との交通の歴史について素描してみよう。
 本州の脊梁である越後山脈から北上する飯豊(いいで)・朝日連峰を横断する最上川水系と荒川水系との分水嶺にあたり、飯豊町の手ノ子から小国町羽前沼沢に抜ける宇津峠には、国道113号とJR米坂線が寄り添うように通っている。この山脈の鞍部の峠の標高は 497mで、飯豊町の最終集落である手ノ子からの比高は約250mであって、数字的にはこれと言って困難ではないはずなのだが、その屏風(びょうぶ)のような急斜面は路を通すには、困難なルートであったから、大きく南に迂回して斜面をつづら折りで登ったり、トンネルを貫いていたのだった。
この宇津峠区間には、平成4年(1967)に完成した新宇津トンネルと、1967年に完成して僅か26年で放棄されてしまった旧宇津トンネル、そして昭和11年(1936)開通の米坂線の宇津トンネルの計3本のトンネルが貫いており、それに地図上には破線で示された路が「宇津峠に通じており、明治の小国新道や江戸時代以前の越後街道の峠道は、消滅寸前だが今もかろうじて残っているのであった。
かつて米沢から越後へ向っている街道を越後街道と呼んでおり、越後側では米沢街道と呼ぶお互いに重要な道筋であった。その始まりは、戦国大名の伊達稙宗(たねむね、独眼竜政宗の曽祖父)の頃であり、山形や米沢を支配する勢力が上洛するに際して政治的関係から日本海経由で往来する必要があったこともあり、その後に越後から羽前南部に移封された上杉氏が米坂に根拠地をおいていたから軍事・経済の点で越後とのルートの開発と、その維持に多くの努力がなされて来た。そして上杉藩により宿駅制度が確立され、羽越の国境のルートが確立した。
それは米沢を出発して小松(川西町)‐松原‐手ノ子(飯豊町)‐沼沢‐白子沢‐市野々‐黒沢‐小国‐足野水‐玉川(小国町)と経て、越後国(新潟県)に至る街道であった。この街道は峠が多く、まとめて十三峠街道と云う別名も付けられていた。
 明治になって山形県の初代県令(知事)となった明治時代の政治家、三島通庸(みちつね)が馬車路として整備したのが小国新道であって、1880(明治13)年6月に宇津峠から着工し、6年後の1886(明治19)年に開通した。当初は、この宇津峠だけは難所のままで、荷馬車は車体と車輪とを分解して運び上げなければならなかったといわれている。また西の弁当沢付近には、岩盤をアーケードのように削った片洞門がいくつか作られると云う難路であった。
  昭和11年に至り、明治の小国新道と並行して国鉄米坂線が全長 1286Mの宇津トンネルを掘削して開通した。それゆえに、それまで細々として人の往来があった峠路もさびれてしまい、何百年におよんで越後街道は衰退した。
そして、自動車交通が自由となるのは、随分遅くて昭和42年(1967)からであった。それは何カ所かの片洞門区間の改修と延長 949mの旧宇津トンネルの貫通を待たねばならなかったからである。この国道113号は「つづら折り」であり、勾配10%、滑りやすい、の三つの警告標識が多く付いており、それに幅の狭い949mと云う長いトンネルを含む険しいルートであったようで、それが短命となった理由であろう。なお、現国道の新宇津トンネルは1992年10月に開通した延長1,335m)の直進ルートであるのに対して、古い街道や明治の小国新道、米坂線や、旧国道は明らかに南迂回ルートだが、これは恐らくトンネル掘削距離を短くするための当時の選択だったと考えられよう。
 さて、米坂線の建設は明治25(1892)年6月21日に公布された鉄道敷設法に、「新潟県下新発田ヨリ山形県下米沢二至ル鉄道」と規定された。具体化するのは1920(大正9)年」になってからのことである。その2年後に着工し、部分延伸開業を繰り返しながら、1936(昭和11年)になってやっと坂町−米沢間が全通すると云う“のんびり然”とした計画の遂行であった。そして自動車の交通が自由になるのも戦後のことであり、どうしてこんなに交通の整備が遅れたのであろうか。それは明治にはいると米沢から福島へ通じる「万世大路」と云う馬車道や、秋田と福島を結んでいる奥羽本線がいちはやく開通しており、一方の米沢から新潟へ通じる交通は、江戸時代にあれほど盛んであった麻織物の原料である「あおそ」の輸送需要が明治中期以降になると次第に衰退したからであろうか。
 こで、最後に宇津峠を越えた古い街道について触れておこう。私が訪れた昭和40年代には現在旧道となっている国道113号がげんえきであったが、現在はサミットにある宇津トンネルだけは廃道となり閉鎖されてしまっている。しかし手ノ子側からも、羽前沼沢からも旧宇津トンネルまでは通行可能であり、新しく開通した新宇津トンネルノ前後から旧道へアプローチすることも可能のようだ。例えば、新宇津トンネル東入り口の約600m手前の新落合橋から一旦右側に降りた後、橋の下をくぐって左側に向かえば旧国道113号線に出ることが出来る。
 そして「むじな沢」を渡り、100mほど進むと、山肌の一画を切り開いた社がある。これは、「宇津大明神」といわれ、かつてはこれから目指す峠の近く稜線上に祭られていたのだが、峠を通っていた旧国道が旧宇津トンネルへと改良されると云う改良工事に合わせて、集落の人々の総意で峠から現在の場所に遷座したものであると云う。この社殿内は狭いながらも飾りたてられていた。石段の下の旧国道は路側帯が無い分だけ少々窮屈であり、 キツい勾配だが、直線的なカーブを幾つか経てひたすら登って行く。路肩の崩れに対して、最低限の管理は為されている。閉鎖された旧宇津トンネルの手前でクルマを捨てて、少し戻って左側の山中へと向かうことになる。これから先の古い街道は明治の三島通庸の作った小国新道を復活した旧街道に加えて江戸時代の古道を繋いで歴史散歩が出来るように整備が進んでいるようだ。
ところで、冬ともなれば雪雲はこの急峻な峠を越える際、たっぷりと雪を落としていくのだから、峠は「ワス」こと雪崩の巣でもあって、江戸時代にはこのおかげで、旅人はしばしば足止めを食らったと伝わっている。また稜線の鞍部の近くには既に麓の落合の近くに遷された(宇津大明神)社の平地があり、旅の安全を祈願しただろう馬頭観音碑、宇津大明神碑、道普請(みちぶしん)記念碑などが立ち並んでおり、永らく埋もれていたらしく余り風化していないのが奇妙な感を与えている。
この最後に見える「街道普請祈念碑」が祭られていることに注目してみたい。この宇津峠自体も、勾配が急で馬が登れなかったり、雪崩がひどかったことなどから、多大の犠牲を払って数回のルート変更がおこなわれ、何回も改修工事が行われている。
それまでして街道の維持に勢力をつくしたのは、当時から米沢を忠臣とする置賜(おいたま)地方の名産として換金作物の主役であった「あおそ)の越後への出荷と云う重要な役割を担っていたからであった。この「」あおそ)は越後の小千谷(おじや)にはこばれ、これを用いて高級な麻織物生産を行っていた。「あおそ」と呼ばれる繊維が採れる多年草の「からむし」は春に焼き畑をして、夏刈り取ると繊維を取り出して、秋には荷送りしなければならない。越後の小千谷(おじや)に着けば、それを糸に紡ぎ、冬閑期に機織をするという季節性の強い仕事であった。それ故に冬将軍の来る前の輸送力の確保はこの地方に取って重要な事態であったのだろう。
 終わりに、この十三峠街道を旅した著名人の残した記録も多いが、その中にあって、目を奪われる紀行文がある。それは世界中を駆け巡り、各地の美しい風景を紹介したイギリス人のイザベラ・バード(1831-1904)の著した『日本奥地紀行』と題する紀行文である。
彼女は明治維新からまだ10年ほどしかたっていない西南戦争の年の翌1878年7月に日光、会津から新潟県の米坂街道で山形県に入って、この宇津峠を越え、東北を北上して北海道のアイヌの人々を訪ねている。そして宇津峠の頂上から置賜(おいたま)の盆地を眺めて、目にした農村の風景が夏の日差しを浴びて神々しく映ったのだろうか、その感動を次のように紀行文に残している。
『私は、日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろすことができて、嬉しかった。米沢平野は、実り豊に微笑みする大地であり、「アジアのアルカディア(桃源郷)である」』と賞賛して、英国から世界へ、その美しさを伝えているのである。彼女が米坂線を旅したらどのような紀行文を残したであろうかなどと夢想している。
撮影:昭和47年
アップロード:2010年10月。

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・「米坂線の思い出」シリーズのリンク
107. 残雪の里と白川橋梁 (米坂線・今泉〜手ノ子)
177. 荒川峡を行くキュウロク (米坂線・越後片貝−越後金丸)