自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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107.
残雪の里と白川橋梁
・米坂線/今泉〜手ノ子
〈24-12-11:長い白川橋梁を渡る〉0003:
〈残雪の里 手ノ子〉0001:
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〈紀行文〉
1970年の早春、未だ雪の残る米坂線をクルマで訪れた。いつもの様に夜明けの頃に米坂駅前に到着した。この洋風のたたずまいを魅せる米沢駅の建物のデザインが、今や文化財となっている旧制米沢高等工業学校(現山形大学)の本館(明治43年(1910)完成)を模して建築されているとのことで、実は私の母校である旧制長岡高等工業学校(新潟大学)の建物を思い起こさせたので、米坂へ来ると必ず立ち寄ったのであった。そのためか機関区へ回るチヤンスが少なかったようだった。この駅舎は2002年(平成14年)に「東北の駅百選」に選ばれたようだ。
今回は米沢盆地での鉄道橋、それに宇津トンネルの東口直上の山からの撮影が狙いであったので、あらかじめ下調べを怠らずにやってきた。そこで手始めに米坂線沿線のロケハンを始めることにした。
米沢駅を南方向に出発して急カーブを描いて奥羽本線に別れを告げて西へ向きを変えると、やがて最急16.7パーミルもある築堤を延々と登り始める。その先は、今は最上川の本流となっている昔の松川を守る高い堤防に架けられた長さ 180mのプレートガータ12連の松川橋梁(米沢−南米沢間)を渡ることになる。この橋を前景に南方向の背景には美しい吾妻の山並みがあり、その右奥にわ兜山(かぶとやま、標高 1199m)が眺められる格好のポイントだが、いずれにせよ市街地を流れ下って居るのでビルなどの建物が散在しているのも愛嬌と云うところか。
やがて、ホームが1本だけの小駅だが山形大学の最寄り駅である南米沢駅を過ぎ、築堤を進むとやがて山形大学工学部の裏手を通過する。このキャンパスの西側には掘立川(ほったてがわ)が流れ下っている。この川は上流で松川から分水して作られ、市街地を流れ下り再び松川に合流している。米坂線の掘る立て川橋梁の上流側には、昭和42年に襲った羽越水害を契機に作られた掘立川遊水池が広がり、市街地に囲まれた湿地帯が育まれており、鉄橋の上流側からここを前景に撮るのも季節的な楽しい変化のある情景が期待出来そうに思えた。この先のカーブを過ぎると、地元では「なでら山」と呼ばれる笹野山(標高 660m)を背景に西米沢までほぼ平坦な田園を進んで行く。ここまで来ると米坂線は米沢市の市街地を半周しかけていることになり、米沢盆地を取り巻く連峰の山々から流れ下る河川はそれぞれの方向から幹川である最上川へと流れ込んでいる。ここを半周して横断する米坂線は多くの河川を鉄橋で越えて西へ進んでいたから、それぞれの山々を背景に列車を撮ることのできる格好なホイントを恵んでくれていた。やがて列車交換がある西米沢に着いた。この先には全長 170mのプレートガーター11連ノ鬼面川(おものがわ)鉄橋(西米沢-成島間)を渡って行く。この奇妙な名前の川は奥羽山脈と飯豊山地とを繋ぐ山々の連なる会津と米沢盆地との境にある大峠辺り源を発して多くの田園を潤しながら流れ下って松川(最上川の本流)へ合流するのであった。この先には成島駅までの間に10パーミルを超える下り勾配が続いており、成島駅を発車する登り列車を撮るには都合の良い長井街道(国道287号線)の跨線橋もあるとのことだ。そして、中郡(ちゅうぐん)駅、羽前小松駅を過ぎて、しばらく進むと、これから終点の坂町まで並走する国道113号線が現れ、そして長井線が右手から近づいて来て、ほーむ2面4線の今泉駅に着く。この先からはしばらくは米坂線と長井線の併用区間にはいり、約2kmほどで福島・新潟の県境の飯(いいで)豊連峰・種蒔(たねまき)山(標高 1,791m)を水源に流れ下る置賜白川(おいたましらかわ)の幅広い河原に架かる白川橋梁(今泉−白川信号所)を渡ることになる。この先に白川信号所があって、直進する長井線に別れを告げて、米坂線は35kmの速度制限のある大カーブを左に大きく西に向きを変えてにみ進む。この長い橋梁の上流と下流を一回りして、午後の逆光で川面が光る光景を狙いたいと想いながら今泉駅前で昼やすみとなった。
駅で数ショットヲ試みてから、白川の東側の堤防に沿って広い冬枯れの河原を流れる水面の光りそうな位置を探した。下流に架かる道路橋の橋桁の下に隠れて、逆光に輝く水面を前景に登り貨物列車の通過を待つことにした。ここに三脚を建てて、コニカプレスに望遠レンズを付けて持久戦となった。残念ながら飯豊山地の山々は吹雪のようで山容をは姿を見せなかった。
この鉄橋は大正3年(1914)ニ長井軽便線として開通し、その12年後からは米坂線も併用しているもので、全長約320mの上路プレートガーター桁の構成は、スパン 19.15mガ12連、スパン 12.9mが3+3連と云う長大なことからも、ここを流れる白川の洪水時の水量の多さが想像される。昭和56年に中流に白川ダムが建設されて洪水もなくなり、広い河原にも随分樹木が茂り始めて、開けた遠望が難しくなりつつあるようだ。今日は冬のために水量が少なく川面の光るのに心配したが、意外に早く確信のできるョットを得たので足早に手ノ子駅前に向かった。
やがて萩生を過ぎて、羽前椿駅からいったん進路を南にとると、しばらくは北越の背後に構える飯豊連峰の雄大な景色に向かって突き進んでいるはずなのだが。
やがて米沢盆地は尽きて車窓からは、いずれ白川、そして最上川へと合流する
宇津川の蛇行した流れが形成した扇状地には、春の到来を待つ田園が白く広がっていた。その先の遠くには南の飯豊山連峰と北方に続く大朝日岳との鞍部にあたる標高497mの宇津峠らしき辺りをかいま見ることが出来た。ここは米沢から北西に約30km、宇津峠の東の口である手ノ子駅であった。この時には部落をバイパスする新しい宇津峠への国道工事が始まっており、車窓の左手に山を切り開いた新道が見て取れた。そして直ぐに迷わず小さな駅前旅館に泊めてもらった。この週末はSL撮影の連中で宿は直ぐに満員となり、やがて相部屋の客には浦和の志水青年が顔を見せた。その後も彼とは因縁が深く、1975年の4月には、夜の旭川駅で再会して撮影を共にするということになる最初の出会いであった。
翌朝はひざしがあったので直ぐ出かけた。部落の交差点を右折する国道113号は昔の越後米沢街道をほぼなぞるように町を抜け出した。直ぐに踏み切りを渡ったところで、デフに「ツララ切り」が装備されているキューロクが牽引する旅客列車を捉えた。朝の光が雪に照り映えて客車のガラス窓を光らせた。残雪の残り具合から春の来るのも間近いようだ。
再びクルマを走らせる。国道は時折、ヘアーピン
カーブを織り交ぜながら峠の麓ニ設けられた昔の馬の交換所であった落合に近づくと国道はバイパスして峠前の穏やかな田園風景を見せて行く。一方、鉄道らしく坦々と高度を上げていく米坂線と国道は何度も上となり下となり、それでも離れずに寄り添って進む。やがて線路を外れて山腹に取り付いて線路より30mも高所を貫いた宇津とンネル延長 949m)に向かって登り詰めて行くのだが、国道から見下ろすと右脇には、米坂線の長いロックシェードがあり、その先は間もなく宇津トンネル入り口になっている様子が俯瞰されるのだった。そこで落ち合まで戻ってクルマを駐車して山へ登ることにした。志水さんの後に続いて長駆雪中行軍を行い、トンネル入り口の上方の崖の崖に登って、300ミリ望遠を使った俯瞰撮影を試みた。天候は次第に下り坂になりつつあった。この時の成果は別のサイトにアップしてあります。
この旅の終わりに今泉駅で夕暮れの旅客列車の交換の雰囲気に浸っていた。その時のスナップのスライドが見つかったので、おまけにお見せしたい。
〈去りゆく長井線の列車を見送る、赤いランプの終列車のイメージそっくり〉
注記:橋梁の諸元データについては
下記を引用したことを付記して、感謝を表します。
「JSCE 橋梁史年表」
〈http://library.jsce.or.jp/cgi-hbr/namazu.cgi〉
撮影:1972年
アップロード:2010−10.追加■> ■107. 残雪の里と白川河橋梁 (米
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★C第二大川橋
1934年
KS12荷重
上部工 横河橋梁
桑★
白川橋
橋長:
単純プレートガーダー
石川島造船所・横河橋梁製 下部工: 特記事項: 1931年より国鉄米坂線と共用 場所: 長今泉〜時庭間
@鬼面川橋(
おものがわ)
橋長:
プレートガーダー
6x18+5x9
西米沢〜中郡間
A松川橋
橋長:
プレートガーダー
米沢〜南米沢間
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・「米坂線の思い出」シリーズのリンク
214. 冬の宇津峠へ挑む (米坂線・手ノ子-羽前沼沢)
177. 荒川峡を行くキュウロク (米坂線・越後片貝−越後金丸)