自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「米坂線の思い出」

177.  荒川峡を行くキュウロク  ・米坂線/越後片貝−越後金丸


〈0004:24-4-8:宇津峠への前哨戦の間瀬トンネルへ向かう上り列車〉
宇津峠へ登る上りのキュウロク 米坂線・羽前沼沢→手ノ

〈0001:小国盆地を登るキュウロク〉
小国盆地を行くキュウロ

〈0002:荒川峡谷を行く〉
荒川峡を行くキュウロク 米坂線・越後片貝−越後金

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〈紀行文〉 
 1970年(昭和45年)の5月、ゴールデンウイークの連休に帰郷する必要が生じたので、スバル360を駆ってロケハンを兼ねながら米坂線沿線を経て新潟市へ向かった。以前に宇津峠までは撮影に出かけたことがあり、その帰途に坂町まで乗り鉄をしたことがあった。そこには深い峡谷に架かる多くの鉄橋がある線だとの印象が強く残っていた。
その時に私の走った米坂線に沿った道路は昔の越後街道(米坂街道)を明治になってから近代的な馬車道に改革した「小国新道」と呼ばれた県道のルートを踏襲して、次いで二級国道を経て一般国道113号線(新潟市−山形市)へと格上げされたばかりであった。その道は狭いところでは1.5車線の幅しかない“酷道”であって、大半が昔ながらの砂利道であった。そして、宇津峠の狭くて長い 949mもある宇津トンネルを抜けて、西へ向かって下り始めた。その途中で見つけた撮影ポイントでやって来た上り列車を捕らえた。見えているトンネルは宇津トンネルの西側にある短い間瀬トンネルの西出口で、やって来た列車がちょうど、その手前にある上杉鉄橋を渡っている所であった。トンネルの先の遠い山の低い稜線は明るい空模様でに包まれているようだった。
 この宇津峠の先は北からの朝日山系と南からの飯豊山系の高い山々により馬蹄型状に囲まれた小国盆地へ出た。ここの渓谷や河岸段丘はブナ、ミズナラの広葉樹に覆われており、今ではブナと雪の白さから小国盆地一帯を「白い森」と呼んでいるようだった。その盆地を南西向かって横切っているのは美しい自然に恵まれた大朝日岳(標高 1870m)を源とする荒川で、飯豊山地からの横川、玉川などの支流を合流したのち、県境の直ぐ先にある飯豊連峰の前衛である蛇崩山(じゃくずれやま、標高 530m)の屏風(びょうぶ)のように切り立った山肌にはばまれて西に向きを変えて、赤芝峡・荒川峡を経て、大石川などを合流し越後平野の北端部で日本海へ注いでいた。
この小国町から県境を目の前にした荒川本流に堰堤 高さ30mの赤芝ダムが設けられていて、この上下流は赤芝峡と呼ばれる峡谷でブナ・カエデ・ミズナラといった原生林が広がり、紅葉で知られるところであった。このダムは小国町に立地するコバレントマテリアル(元・東芝セラミックス)の発電目的で1954(昭和29年)に建設された物で満々と水をたたえている水面が続いている。
国道113号は小国盆地の最西の玉川口で荒川を渡り左岸に移り、県境を越えて金丸の集落にはいる。この背後には蛇崩山の切り立った斜面が荒川におちていて、小国新道は崖の中腹を水面下から約40m以上も高いところの崖を削って道を通していた。米坂線は金丸の先で第2荒川ー橋梁で右岸へ移ると、八っ口と云う集落が山の中に点在している所を約 1,5kmほど進むと再び第1荒川橋梁で左岸へ戻って来ていた。この奇妙な「八ツ口」の名は、古くから良質の砂鉄が産出しており、砂鉄掘りの穴が随所に開いていたことに由来していると関川村史が述べているように戦国時代以前の街道が通っていたとの記録もあるようだ。この辺りまでくると、最近建設されたばかりの岩船ダムの作り出した無名のダム湖が広がり、川とは思えない広い水面を見せていた。
私の走る国道は大きな岩の屋根の下を潜るように進んで日本海側の斜面に面した谷に出会った所で思いがけない雪渓の残雪に行く手をはばまれた。それでもなんとか通過することができたが、通ってきた小国盆地は緑にあふれていたのに、日本海側は初春の気配が残っていたのには驚かされた。いかにこの荒川が切り分けている飯豊山地と朝日山地の前山が小国盆地を日本海岸の厳しい気候から守っているかが察しられた。この辺りが最高地点であろうか。第1荒川橋梁を俯瞰(ふかん)できる場所を探して米坂行きの列車を待ち構えたのだった。この全長 124mのアンダートラスの鉄橋の全長は124mで、スパン 46.8mの上路単純ワーレントラスが2連と、スパンがそれぞれ 16m、12.8mの上路プレートガーが2連の構成であった。この米坂線の全通が1933年(昭和8年)であり、その28年後に下流約50mの所に高さ30mの堰堤を持つ岩舟ダムが設けられたので、水面すれすれのアンダートラスの姿が見られるようになったのである。
ここから北方に遠望できた白銀の残雪を戴いた山々は標高 823.7mの無名峰に続く山地のようであった。
この時に私が通った国道は現在、激しい山崩れによって廃道となってしまっており、1972年(昭和47年)に開通した新しいルートはほぼ米坂線に沿っており、二つの跨線橋と荒川を渡る二つの橋、金丸大橋、八っ口大橋によってダム湖サイドを何の苦もなく通過しているようだ。
しかし、余りにも近代的な道路橋が古めかしい鉄道橋と並行して架けられたことから、列車を撮ろうとするカメラマンたちを当惑させているのではなかろうか。事実、私の写真の第一荒川橋梁の手前には目立つ赤色塗装を施した下路ランガー桁橋である「八っ口大橋」が架けられているようであった。この先は岩舟ダム、越後片貝駅と荒川峡を下り関川のの温泉郷を抜けると越後平野の出迎えを受けることになる。
 さて、ここで米坂線のルートのルーツでもある小国を経由して山形南部と新潟下越とを結んでいた越後(米沢)街道、それを近代化した鬼の三島県令の「小国新道」を経て国道113号へと進化していった背景について知見を述べておこう。
  越後街道は
米沢と越後(新発田)を結ぶ出稼ぎと物産の道であった。今から約490年前の大永年間に戦国大名であった伊達氏が羽越国境の大里(おうり)峠を開いたことに始まると云われている。その頃も荒川沿いはの赤芝峡や荒川峡の難所があって道を付けることができず、内陸部を十三もの峠を切り開いて街道を通したので十三峠街道とも呼ばれた。そのとうげとは下関(本宿)―「鷹巣峠」―「榎峠」―沼―「大里峠」―玉川―「萱ノ峠」―足水―「朴木峠」―小国―「高鼻峠」―「貝淵峠」―黒沢―「黒沢峠」―市野々―「桜峠」―白子沢―「才ノ頭峠」―沼沢―「大久保峠」―「宇津峠」―手ノ子―松原―「諏訪峠」―小松であったと云う。この道が出来る前は新潟県関川村八ツ口から越戸集落に登り、更に小国へ向かっていたというからさらに険しかった物と思われる。この街道は伊達政宗が1590年小田原参陣のために通ったことで知られており、また明治の初期に、イイギリスの女流旅行家である イザベラ バードさんが、この十三峠を通り、当時の様子を「日本奥地紀行」に記録したので世界にしられているのであった。
明治担って初代の山形県令(知事)になった三島通庸さんは地域の発展の基礎は交通路の整備であるとして積極的に街道の近代化政策を進めていたが、何故か米沢から新潟へ抜ける街道の整備は後回しになっていた。それは山形県にとって江戸時代からの物流の経路は最上川による船運により酒田港を経由して日本海航路による大阪との交通が6日で開通していたし、明治に入ると馬車道の笹谷/関山街道が仙台に通じ、寒風沢港経由して東京都の間を4日で船便が通っていたからであった。それに米川からは福島へ通じる万世大路や会津へ抜ける大峠でののトンネル掘削の成功により馬車道が開通していたからでもあろう。
一方の米沢街道はと云えば、人間の力で運べる程度の物産(「あおそ」小地谷への搬送)などだけであったし、また小国への物資は人足によるもので充足していたからでもあった。それに、三島県令の道路建設で威力を発揮した手法である資金や労働力の強要、道路用地の寄進の強制など、それに繊細な調査と大胆な発想の道路計画であったが、この米沢街道の沿線の貧困さのために資金が集まらなかったり、さらに深い渓谷が道路開削の予算を肥大させたことで威力を発揮できなかった。それに加えて、国道ならぬ主要地方道(県道)では国からの資金の呼び込みもままにならなかったようだ。それでも明治24年から5年を掛けて馬車道の建設は進められた。それには改良するには険しすぎる現県道となっていた十三峠街道に代えて荒川に沿った「小国新道」と云う新ルートを採用した。特に荒川が飯豊と朝日山地の前衛の山々を刻んで流れ下る赤芝・荒川峡に沿う経路の約1,3kmの開削は難工事であったようだ。ここの辺りは標高は約100mと高くはないのだが、荒川は、蛇崩山(標高 530m)からストンと直角に落ちており、この上を見上げれば殆ど垂直の壁が山頂まで続いていると云う険しさであった。やがて頭上に岩塊が現れ、左側には切り立った谷があるため、道幅を得るには岩山を削らなければならなかった。しかし、巨岩塊を全て取り除くのは困難であるため、必要最小限の通行範囲を刳り抜き
道幅を確保すると云う頭上に大きく岩が被さる片洞門と呼ばれる難所が生まれた。このような深山幽谷の地に、渓谷の岸壁を削ってできた道は明治の時代から改良を重ねながら昭和40年代まで県道として、次いで1953年(昭和28年)には:二級国道 113号新潟山形線となり、1965年(昭和40年)には一般国道113号と格上げされて利用されて来た。やがてこの最大の難所の山崩れ災害をさけるため、米坂線と同じルートをたどる新しい経路変更の工事が始まり1972年(昭和47年)には八っ口大橋などが竣工して現在の姿に生まれ変わっている。
そういえば米坂線の全通も昭和8年の事で随分遅かったのに負けずに“酷道”の改良も1970年代に入ってからと云う遅さであったことは地形の険しさが代表する地政学的な理由に負う物であろうか。それ故に、この由緒ある小国新道から俯瞰した最も新しいローカル線?である米坂線の第一荒川橋梁を渡る列車の姿は今となっては“遅れた同士“の過去のシーンとして貴重な記録とも云えるかも知れない。

 撮影:1970年(昭和45年)
ロードアップ:2010−04.

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・「米坂線の思い出」シリーズのリンク
214. 冬の宇津峠へ挑む (米坂線・手ノ子-羽前沼沢)
107. 残雪の里と白川橋梁 (米坂線・今泉〜手ノ子)