自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・九州の北西部への旅 3
195.  北松浦半島を巡って ・松浦線 /肥前吉井〜松浦 

〈0003:福井川に架かるコンクリート あーち橋〉
松浦線/肥

この橋の全景をご覧になりたい方は下記にアクセス下さい。
「ふる里の蒸気機関車」Vol27  
http://www.geocities.jp/tttban2000/Room/sight/railway/fukuigawa/yoshii.html

〈0004:bQ30521:江向川橋梁を渡るハチロクの牽く客レ T ・、江向−平戸口〉


〈0001:31-11-1:江向川橋梁を渡るハチロクの牽く客レ U ・江向−平戸口〉
橋桁のの下からは川に面した港街の江向の街並みがひしめ
(この画像はカラースライドをモノクロで撮影しています。カラーは捜索中です。)
〈0002:31−17−1:潜竜付近の田園風景。湧き水の豊かな土地柄である。〉
松浦線

〈0005:bQ30522:志佐川(しさがわ)鉄橋を渡る平戸口へ向かう〉



〈撮影メモ:昭和46年正月.撮影〉
松浦市外に入ると志佐川(しさがわ)の河口に掛けられた鉄橋の上流を国道が通っていた。引き潮の時間帯であろうか、砂利交じりの河原がむき出しとなっていた。やがて松浦駅を出た佐世保行くの旅客列車が鉄橋を渡り始めた。

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〈紀行文〉
 北西九州の旅の2日目は、夜明けの大村湾を背景に撮ってから長崎市内に戻って、グラバー邸付近で朝飯にありついた。午前中を長崎観光に費やして、午後から大村湾沿いを北上して佐世保湾岸へ向かった。この湾は奥が深く800mほどの開口部で外海に面すると云う湾形は軍港として最良のようで今もアメリカ海軍が占有しているほどである。市街を素通りして半島を一周する松浦線に沿って走り始めた。
この松浦線は佐世保を起点に平戸口駅を経て松浦、伊万里、有田駅で佐世保線に接続する93.8kmの長い路線である。そのほぼ中間点りは日本最西端の駅 “平戸口駅”(東経139度35分)があることは良く知られている。ところで、この駅のある位置は九州島から北西に突出している北松浦半島の最西端であった。この半島は北は伊万里湾に面し、西は平戸瀬戸を挟んで平戸島に接しており、南西端は佐世保湾に属している位置にある。その地質である第三紀の堆積岩層には初期に蓄積した石炭層を挟み、第三紀中後期の火山活動により堆積した玄武岩を主とする玄武岩台地からなっており、台地からの緩斜面にはは湧水が多いため、棚田が発達している。また、数多くの炭坑があり北松炭田と呼ばれていた。
この半島を一周する松浦線ができるまでの経過を調べてみた。
先ず佐世保側の佐世保−肥前吉井間となった前身は佐世保軽便鉄道であって、大正9年(1920年)に相浦川沿いの柚木などの炭坑から相浦港へ出荷するための柚木−大野−相浦間に762mm軌間で開業し、翌年には大野(現左石)より分岐して市内の中心の上佐世保まで開通している。その後の昭和6年(1931年)には佐々から臼の浦港までの2,9kmの支線を開通させ、その2年後には1896年(明治29年)に開通していた世知原などの佐々川沿いの炭鉱からの石炭を佐々-世知原間 (11.9km)の九州松浦炭礦専用鉄道(前年に岡本彦馬専用鉄道と改称)を買収している。
昭和11年(1936年)には、この北末炭田で産出する製鉄用コークスの原料となる強粘結炭の輸送を重要視した政府は国有化して松浦線とし、他線に直通が可能なようにするため2系弁軌間 762mmから通常の1067mm軌間への改軌を行って輸送力の増強を図った。
一方の伊万里側では、明治31年(1898年)には九州鉄道が博多から有田を経て佐世保まで全通しており、この年に有田で造られた陶磁器を貿易港である伊万里まで運ぶための伊万里鉄道も開業したが、直ぐに九州鉄道に合併して、その伊万里線となった。その後の明治40年には九州鉄道が国有化されている。それからしばらくして昭和5年(1930年)に路線の延長が始まり、昭和10年には石炭の山地であった松浦を経て平戸口まで、昭和14年には平戸口から潜竜まで延長されたところで、戦争が始まって工事が中断された。しかし、製鉄用石炭の輸送と、佐世保軍港への軍事輸送のため、物資の不足にもかかわらず工事が再会され、鉄骨を使わないコンクリートアーチ橋梁を3ヶ所も架けた難工事の末に終戦直前の昭和19年(1944年)に肥前吉井駅まで開通して、既に国有化されていた佐世保−肥前吉井間の松浦線と接続して、有田−佐世保間が松浦線となったのである。

 さて、ここからは平戸口へ向かって沿線の素描を試みよう。ほとんど国道と線路は並走していたので楽な旅であった。
佐世保市街を外れて左石駅を過ぎると、南北の山に挟まれた山間を西へと進んだ。線路の南側には国道が走り、並行して相浦川が流れる。
川の向こう側には、山の斜面が迫って見える。
その中ほどにある中里駅を過ぎるあたりから進行方向に円錐形の愛宕山(標高259m)が真正面に現れ、左側は干拓で出来たらしい水田が広がっていた。線路はこの付近から、左にカーブし、この山の南を回って北上する。やがて、列車は左にカーブし国道204号線のガードをくぐり相浦川を渡る。そしてトンネルを抜けると、相浦港の景色が姿を見せた。この港は昭和30年代まで相浦川流域の柚木などの炭坑からの石炭の積み出し港として賑わっており、最盛期には年60万トンを移出したと云う。石炭が山と積まれていた岸壁には広い空き地がむなしく広がりさびしかった。海に面した高台にある駅のホームからは、目前に多くの側線があって僅かのセキが留置されていた。駅を出て街のメインストリートを跨ぐ鉄橋を渡って、峠をゆっくりと北上し始めた。右手には鉄路に寄り添うように国道が走り、左手の山が切れるとは海沿いに九州電力相浦発電所の高煙突がそびえていた。やがて真申(まさる)から列車は海に面した平野部を走る。左手の海は佐々浦であり、干拓されてできた水田が大規模にひろがっている。やがて左から臼ノ浦港までの支線の築堤が近づいてくると、間もなく島ホームと面1線のホームの佐々駅に付いた。この構内には6線の扇形庫や給水塔と給炭台、ターンテーブルなどが残っていたものの、かっては18量も所属していたC11も1年前に早岐機関区に戻ってしまっていた。
この駅の脇をを流れるのが長崎県で最長と云う21kmの長さの佐々川で、この川の流域には多くの炭坑がひしめいて活動していたのは昔話になってしまった。
列車は佐々川に沿って進み、神田(こうだ)、肥前吉井、潜竜(せんりゅ)と川の蛇行に合わせて鉄路は右に左にカーブして半島の奥深く入って行く。
この松浦線は、ほとんどが海岸沿いを通っているのだが、相浦から北西へは江戸時代に平戸藩が行った湾の干拓による塩田や水田を造成したことから海から離れてしまったり、また半島の山奥まで回り込んでしまっているのは松浦線の前身の一部が、佐々川(さざがわ)流域に散在する炭坑からの石炭輸送を目的に佐国−世知原間に建設した九州松浦炭坑鉄道が佐々川上流の終点の世知原まで至っていたからであり、その後に伊万里線が延長して来て、この途中の肥前吉井駅で接続することになったのであるから、松浦線は随分山の中を走っているのだと云うことになったのであった。そして肥前吉井から先は世知原線として支線となったのである。
この辺りでは国道は左手に走っており、世知原線の線路はこの駅をでたところにあった。そして吉井を出ると佐々川を渡り、その本流は東の方に去ってしまった。今、やがて見えたのは支流の福井川である。列車が左カーブを切って川を渡ったのは三連あーち橋梁であった。そして間もなく潜竜駅に付いたのであった。
 実は、松浦線が全通する直前に最後に残っていたのは肥前吉井−二潜竜間の僅か2.3kmの区間であったが、ここは驚くような特異な地形が存在して鉄道の建設を難工事を強いていたのであった。
その主役を務めるのが佐々川(さざがわ)であって、北松浦半島中央部の国見山西麓・栗木峠(標高 776m)を水源とし、北西へ流れ、流路は佐々谷と呼ばれ、断層に沿って緩やかな弧を描き、それに多くの支流が合流する。そして世知原(せちばる)の盆地に入り西へ流れる。中流の吉井付近では右岸から福井川が合流し、その後は次第に南西へ流れを変えて佐々町入ると右岸には小高い丘陵地が広がるが、左岸は右岸よりも比較的なだらかで水田が広がる。やがて佐々浦に注いでいる。
さて、支流の福井川は吉井町直谷と江迎町田ノ元の境で西向きから南向きへほぼ直角に曲がって佐々川へ合流している。また、この地点のすぐ西隣を流れる江迎川も、南向きから西向きへほぼ直角に曲がっている。福井川と江迎川の間は谷になっていて、この谷に沿って松浦線や国道204号が通っている。これは河川争奪による地形である。かつて福井川は江迎川の本流だったが、断層の活動により田ノ元より下流が上昇した。そこへ佐々川の侵食が進んで江迎川との分水界を破り、福井川は佐々川に合流するようになったとの説明がされている。
吉井町から国道204号線をクルマで江迎町方面へ走ると、
けっこうな登りとなり、この町の境付近には大きな断層があることが判る位である。佐世保鉄道の時代にはこの高低差のある断層帯に鉄道を通すことは技術的に困難とされていたようだったのだが、国鉄では伊万里線の延長工事を敢えて実施した。
その断層間にある福井川には福井側橋梁が架けられた。これは吉井町から松浦市に通じる県道40号線をまたぐコンクリート製の橋梁 (福井川橋梁)であった。これは昭和14年(1939年)に完成した3連アーチ式橋梁である。橋梁の長さは79m(うちアーチ部67.06m)、アーチ半径は10m、道路からの高さ20mであり、ゆるくカーブしているようだ。この戦時中の時代の鉄材節約に答えて、無鉄筋コンクリートとし、替わりに竹を利用した竹筋コンクリート橋説が地元で伝承されていると云う。2006年(平成18年)2月には工学院大学に依頼して橋梁内部の調査を行ったが、竹筋使用については確認ができなかったが、使用された可能性は残されていると云う。別の調査の結果では、コンクリートの強度も高く、劣化もさほど無かったようで、この橋の設計について橋脚部の開口部(スパンドレル)のデザイン、平面軸線に曲率もつけてあるなど、非常に高い水準であったことが判っている。
この福井川橋梁から約1km南の佐々川に架かる吉井川橋梁は橋の長さは45.88m、アーチの内径は10mのものが4つ連続しており、1944年(昭和19年)に完成したものである。これに加えて昭和14年(1939年)に完成した吉田橋梁はアーチ部全長 58m、アーチ半径5m×5連もある。
その後、206年に、これらの三橋梁は国登録有形文化財に指定されている。
 私は、この訪問時にはコンクリートアーチ橋の写真を取り逃がしてしまっていたので、後日撮りに再訪したときには既に時は遅く、1972年(昭和47年)3月に蒸気機関車8620形とC11形は姿を消してしまっていたのは残念であった。
 そして潜竜を出てからは、鉄道と国道とのからみあいが左手の江迎川を見ながら続いた。やがて江向湾ににそそぐことになるのだろう。高岩を過ぎてこの辺りの中心である江迎鹿町(えむかえしかまち)に着いた。ここの駅は「江迎」であった。この駅を発車した列車は次第に高くなる築堤を上がり、江向川をカーブと勾配のついた第1江向橋梁で渡っって、25‰の急勾配の難所に差し掛かり、盛大な煙を吐いて田代峠を目指す。そのまま国道を見下ろしながら長さ 1.370mもある田代トンネルに突入した。
ここで、写真として掲げた第1江向川(えむかえがわ)橋梁について述べておこう。これは昭和14年(1949年)の伊万里線の平戸口−潜竜間の開通と共に完成しており、江迎駅と松浦線線最長となる田代トンネル(延長1,370m)の間の江向川の河口部と云う地形上の条件に加えて、江迎川の船舶航行を妨げないことが求められたため、全国でも例の少ない半径400mのカーブと江向方への25‰の下り勾配を備えた特徴的な橋梁であった。その架橋の場所が江迎川河口に近く土質が軟弱であったため、コンクリート製橋脚9本を設け、その上に10連の上路プレートガータ桁(5x22.3m+4x12.9m+25.4m)を架けた長さ 193.35mの橋梁であった。これは「長崎県の近代化遺産」として平成10年に指定を受けていると云うのだった。
 この田代トンネルを抜けると、全く聞き覚えのない“田平(たびら)町”に入ったのであった。線路はひたすら平戸瀬戸と呼ばれる海峡の海に沿って右へカーブを切りはじめて、北西から東向きに変わるまでカーブは続いた。そして「平戸口」の駅が見えてきた。歴史の島、平戸島へのターミナル駅である。駅舎をでた左側に「日本最西端の駅」を示す石碑がたっている。駅前より坂道を下り国道204号線に出ると、右は松浦方面、左が平戸方面であった。この先は左に国道、そして玄界灘、右手は山林である。やがて鉄路は海岸線を離れ峠道のようなところをゆっくり走って長崎県の一番北のあたりを抜けようとしていた。やがて左を走っていた国道と交叉し、志佐川(しさがわ)を渡ると松浦駅のホームが見えてきた。駅舎は山側にあり、国道204号線が駅の南側を通っていた。この松浦では既に炭鉱の賑わいは去ってしまっていたが、鎌倉期から室町期にかけてこの地方に割拠した豪族集団の等量である松浦(まつら)党の居城・梶谷(かじや)城あとが玄界灘を見下ろしていたのみだった。
この旅の終わりは、焼き物の街有田でひと休みしてから、武雄の嬉野温泉で温泉豆腐を味わうことにしたのだった。


撮影:昭和46年

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・九州の北西部への旅の関連リンク

194. 笹原(ささばる)峠のキュウロク・唐津線/厳しい木−多久)

098.  「明けゆく大村湾」 長崎本線 旧線 )/ 東園〜大草