自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・九州の北西部への旅

194. 笹原(ささばる)峠のキュウロク・唐津線/厳木−多久


〈0001:31−16−2〉
朝の斜光線が濡れたレールを光らせている

〈0002:笹原(ささばる」とんねる・唐津線/厳木−多久)、79601号〉
伴 達也さま 1971年7月撮

出典:「ふるさとの蒸気機関車」VOL15。
http://www.geocities.jp/tttban2000/SL3730/hometitle.html

〈0003:31−16−6:多久から峠を目指して登って来た貨物列車〉
背景は田んぼの広がる多久の小盆地で佐賀平野に続いている

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〈紀行文〉
 ここでは、昭和46年(1971年)の正月の休みに家族ぐるみで北西九州への撮影行を行った。そして、長崎本線の大村湾沿いや松浦線、唐津線を訪ねた成果を三つのシリーズでお目に掛けたい。
確か、その前年の秋ころだったか、「蒸気機関車撮影地ガイド」と云う鉄道フアン誌増刊号が発汗された。この中で、長崎本線の支線である唐津千では9600型が石炭輸送に活躍してイルことを初めて知った。そこには「厳木(きゅうらぎ)−莇原(あざみばる、現在の多久)の間に峠越えがあって、格好の撮影ポイントとして紹介されていた。この何となく古代めいた地名に興味を引かれた。この難読駅名は、昔、古い楠(くすのき)の大木があったことから、「清らかなる木」が“きょら木”となったとする伝承には「なるほど」と納得させられた。
 この旅もいつものようにクルマで関西本線の沿線を撮ってから呉線に沿って山陽道を経て岩国の勤怠橋を見物してから陸路九州へ向かった。寝静まった博多の市街を走り抜けて、博多湾に沿った国道203号を西へ向かった。やがて丘陵が南から博多湾に突き出した糸島半島の根本を越えると、眼前には夜明けのしじまの中に「虹の松原」の続く唐津湾の砂浜が眺められ、しばらくして唐津城が姿を現した。この道筋は唐津街道と呼ばれる長崎街道の脇街道として江戸時代からの要路であって、国鉄 筑肥線が博多から唐津を経て玄界灘の南西部面した伊万里へ通じている。この唐津街道は唐津から向きを南に変えて小さな笹原(ささばる)峠(標高 102m)を越えて有明湾に沿って佐賀から長崎へ向かっている長崎街道に合流していて、この道は国道202号となっている。思い起こせば、古代には唐津に上陸した朝鮮半島の進んだ文化が、この峠を越える官道を通って当時の中心地であった太宰府(だざいふ)へ運ばれて行った古いルートでもあった。この道筋に沿って敷かれた鉄道が唐津線であって、もっぱら唐津と佐賀とを直結していた。
 まず、この唐津線の活躍する九州北西部の地形を説明しておこう。この九州島は北、中、南の3つの山塊に分けられており、中央構造線である伊万里−松山構造線の北側は北部九州と呼ばれ、地形的には中国地方の続きと考えられ、筑紫山地のなだらかな山地が散在している。その西半分では、北側に玄界灘に面する福岡平野が、南側には有明湾に面した佐賀平野を含む筑紫平野を分ける東西 50km、南北 25kmの菱形をした背振(せぶり)山地があって、その東西を貫く尾根は福岡県と佐賀県の県境を成していて、こぼ全体が豊かな自然のあふれる森林が広がっており、農業も盛んであって、西側斜面にはみかん畑が営まれている風景が見られる。その西側には、唐津から多久へ通じる谷を隔てて玄界灘の北西部に面した東松浦半島の上場(うわば)台地と、それに南へ続く杵島(きしま)丘陵が向かい合っている地形がある。これらの山地は第三紀初期に蓄積した石炭層と、第三紀中後期の火山活動により堆積した玄武岩を主とする地層からなる火山性の地質であって、その南部では石炭層の露頭が見られ、地表に近くに石炭層が存在していたので、江戸時代末期から1970年代に掛けて唐津炭田として多くの炭鉱が栄えた。
この谷の唐津湾と有明湾との分水嶺である笹原峠の唐津湾側では東部の椿山(標高 760m)を源とする厳木川が流れ下り、やがて伊万里方面からの松浦川に合流して唐津湾に注いでいる。一方の南側は西部の八幡岳(標高 764m)に源を発する牛津川(うしずかわ)が多久の小盆地を東流して流れ下って平野に出て、西から流れ下って来る六角川に合流して有明湾に注いでいた。
 
明治時代に入ると、唐津周辺の松浦川・厳木川などの流域に埋蔵する唐津炭田の炭鉱が続々と開発され、その一部は海軍が直営する炭山となり、艦船用の燃料として重用されるようになり、河川の水運によって唐津港に運ばれて出荷されて行った。一方、峠の南側の多久でも豊富な石炭層が存在していて炭坑の開発が進んでいたが、の地域を流れる牛津川の水量は渇水期には水運には水量が不足気味で、石炭の有明湾岸の港への積み出しに苦慮するようになって来ていたようだった。
そこで地元では石炭の唐津港への鉄道輸送をめざして明治27年(1894年)に唐津−牛津間に鉄道を敷設する免許申請を行い、唐津興業鉄道を創立した。そして明治31年には山本−妙見(現西唐津)-大島(貨物駅)間を開業、続いて厳木までかいつうした。そして明治32年末には笹原トンネルを貫いて厳木−莇原(あざみばる、現在の多久)間を開通させて、唐津港までが全通した。やがて社名は唐津鉄道を経て九州鉄道へ合併、その後国有化されて唐津線となったのである。
この唐津線では西唐津機関区に所属する10両の古豪 9600型蒸気機関車が稼働しており、半数以上が門鉄デフを装着していたのは関東の私には珍しかった。その運用には、1往復の客車運用を含めてや重連運用などもあり臨時貨物を含めて多くの撮影可能時間帯の列車が行き交っていた。
 ここで撮った写真に沿って沿線の素描を試みた。
列車は松浦川に沿って谷を南下していく。山元、相知(おうち)、岩屋などと駅間隔が長い駅を通り過ぎて、両側に山が迫り、山の手前に水田や畑が開かれている。この唐津市西南部に当たる水田地域は日本の稲作発祥の地であるそうで、今から2400年〜3000年前、中国、朝鮮半島を経て日本に渡ってきた稲作技術を持った集団が住み着いて、水田を作り、稲を育てて来たと云うのであった。峠に向かうほど耕地に適した土地は減り、住む人は減っていく。
そして線路の周りも険しくなり、列車はどんどん坂道を上って、厳木(きゅうらぎ)に付く。ここから笹原トンネル手前のサミットまでが22.2‰(1/44勾配)の急勾配となっていた。手前に水田を控えた高い築堤を、朝6時過ぎに西唐津を出た唯一の佐賀行きの客722レが7輛の客車を牽いて白煙をなびかせて登って来た。朝の陽光が逆光となって築堤の下の用水路の水面とカーブしたレールを光らせていたのは印象的であった。
 続いてサミットからは18.2‰(1/55勾配)となり、笹原トンネルを抜けて、長い勾配を下って多久駅に向かっている。この
建設当時の唐津興業鉄道にとって最大の難所であった笹原峠越えはトンネルを設けることにした。特に多久付近からの石炭の出荷が将来増大することを見越して複線規格でトンネルを建設したのであった。今も複線断面のまま東側に寄せた単線が敷かれていると云う珍しい存在である。
この唐津線の複線断面レンガトンネルでは、は側壁が素堀の部分も多いが、坑門は立派なレンガアーチの小口層で築かれていると云う。私はトンネル出口を撮ったフイルムが未だ見つからないので、
「笹原トンネル 79601号機関車」(1972年7月24日撮影)
を伴 達也(ともたつや)さまの「ふるさとの蒸気機関車」VOL15 からの転載をさせて頂いた。この場を借りて感謝申し上げます。
http://www.geocities.jp/tttban2000/SL3730/hometitle.html
なお、このような形態のトンネルは、九州の筑豊で石炭輸送で名を馳せた国鉄 田川線(現・平成筑豊鉄道)の第1、第2石坂トンネルで現役の姿を見ることができることを付記しておこう。明治の九州での鉄道建設にははドイツの技術が導入されていたから、おそらく唐津興業鉄道の作ったトンネルもその影響をうけているものと推察しているのだが、いかがであろうか。
 三枚目の写真は多久駅を出た貨物列車が笹原峠の長い勾配へさしかかった。正月のためであろう、運炭列車は運休であった。この多久の小盆地には明治砿業佐賀鉱山や、三菱砿業 古賀山鉱山などの大規模鉱山が稼働しており、昭和33年(1958年)には一人あたりの採炭量は全国トップにまで躍り出ており、何れも年産60万トンを産出していると云う健闘振りであった。
撮影:昭和46年

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・九州の北西部への旅
098.  「明けゆく大村湾」 長崎本線 旧線 )/ 東園〜大草
195. 北松浦半島を巡って・松浦線/肥前吉井〜松浦