自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・九州の北西部への旅

098. 「明けゆく大村湾」 長崎本線 旧線・ 東園〜大草


〈0001:明けゆく大村湾〉
0001:長崎本線・東園〜大草(旧線

〈0002:31−17−2:冬晴れの大村湾〉
0002:長崎本線・旧線/東園−大草

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〈紀行文〉
 この昭和46年(1971年)の年末年始はは久しぶりに仕事が楽になりそうだったので、家族で長崎見物を兼ねて北九州のSL撮影行を狙っていた。確か、その前年だったろうか、「鉄道ファン」誌の106号(1970年 3月号)に載った「朝の大村湾を行く」と題する編集部撮影のカラー写真が記憶に残っていたことがあったからであろう。毎度のことだがクルマを走らせて、先ず関西本線の加太(かぶと)〜中在家間の大築堤辺りで時を過ごし、翌日は呉線に沿って西進し、宮島と岩国の帯橋を見物してから陸路九州へ向かった。翌朝は唐津線沿線の多久付近を訪ねてから長崎を訪れた。その翌朝に大草まで戻って夜明けの大村湾を狙うことにしたのだった。この場所はSL撮影名所」として名高いところであるので夜明けを狙って見たのであった。国道207号線が線路の上を併走している区間を走って、ポイントを探し回った末に選んで、撮ったのが この一枚である。長崎の訪問を終えて、佐世保へ向かう途中で、昼間の海岸線を再びショットすることもできた。
このあたりは、もっと時間を掛けて念入りに俯瞰(ふかん)撮影のポイントさがしをすれば、より新しいアングルの発掘ができそうな気がしてきた。その後も、数日掛けてジックリ撮る機会を待ってはいたものの、その幸運は訪れなかった。
 いまとなっては、既に、デーダも記憶も失われてしまって列車が何であったかは説明することはできないのは残念至極です。
 この旅は大村湾沿いを走り、西海橋から瀬戸を見下ろしてから、松浦線に沿って貨物列車を追い掛けながら、小倉へ戻り、フェリーで帰途についたのだった。
  その昔、長崎への道としては脇か移動としての長崎街道があり、外国からの人々と文物が、それに政治向きの役割を担った人々の江戸と長崎との往来の便に供されていた。これは瀬戸内航路の終点であった九州北端の小倉から長崎を出来るだけ最短距離で結ぶよう、直線に沿うように整備された距離57里、25宿の街道であった。その経路には遠賀川沿いや佐賀平野の平坦な所もあるが、概して道程は険しく、最大の難所は冷や水(ひやみず)峠があり、最後の難所には日見峠があり、その途中の国境には俵坂峠、三国峠などが控えていると云う険路であった。それはこの街道の前半が、SL D60重連などの活躍した冷や水峠で知られる筑豊本線に沿って居ることからも容易に類推できるだろう。
一方、時代が下がり、半官半民の九州鉄道が創立されて、1889年(明治22年)には早くも博多から筑後川北岸までの九集発の鉄道が開通したのを皮切りに、東には門司港へ、南へは鹿児島へ向けて延伸する一方、途中の鳥栖(とす)で分岐して長崎に向かう路線は1891年(明治24年)には佐賀まで開業に漕ぎ着けた。それから長崎へのルートは軍港と位置づけられた佐世保へのアクセスを図る面が重視されて現在の佐世保線・大村線にあたる早岐駅経由で鳥栖〜長崎間が 1898年(明治31年)に全通したのであった。
この建設の経過を詳しく調べると、1897年の7月10日には鳥栖〜早岐間が開業し、そのすぐ後の7月22日には長与〜長崎間が開業した。このとき、暫定的な連絡機関として開設されたのが、この大村湾を横断する航路「大村湾鉄道連絡船」であった。それは60人乗りの蒸気船10隻ほどを用いたといわれ、長与駅から港までは3kmほどの距離があり、人力車が100台は往来したといわれている。1898年11月27日、早岐〜大村〜長与間の全通により約1年間でその使命を終えたと云う。この写真を撮った所を含めて大村湾沿いの路線は長崎本線の最期に開通した区間なのであった。
その後時代が下って1907年の国有化を経て、有明湾沿いの短絡ルートとして肥前山口〜諫早(有明線)が1934年に開通して長崎本線となり、今までのルートは佐世保線と大村線として独立した。それから更に1972年には諫早〜長崎間にも短絡線がトンネルを通関させて開通したことから、喜津〜浦上間は長崎本線・長与経由の旧線)として存続している。
新線との分岐点の喜々津は長崎街道の宿場でもあり、ここを出発するとレンガ作りのトンルヲ出ると海岸に沿うようになり、元信号場として作られた東園に至り、昔ながらの部落から離れていることから静かなたたずまいを見せており、背後に海があるため非常に景色は美しくなっている。そして大きなカーブを描いて大草に至っている約7キロの大村湾に臨んだルートは風光明媚な長与経由旧線として楽しまれている。鉄道線路の上方はみかん畑の段々畑がの中を国道207号が併走しており、道の両側には桜の波火もあり、畑には菜の花畑が早春にはめを楽しませると云う。
さて、大草を出ると海から離れて、松頭峠を目指してぐんぐんと登り始める。そして25パーミルの勾配を維持しつつ松塔トンネルを抜けてスイッチバックで知られる本川内駅のに近づいた。そして、列車はスイッチバックの廃線の魅力の一つである“シーサス クロシング”を渡って引き上げ線に入っていった。やがて引き上げ線から方向転換した列車はホームに入って行く。このスイッチバック駅ではシーサス クロシングを中心に発着線と引き上げ線が1本ずつ配線されていて、非常にシンプルな形状であった。それ故に、上下の旅客列車が交換のために、同時に発着することが不可能だったから、どちらか一報は通過となっていのであった。その後平成14年の3月9日に勾配上の新ホームに切り替えられて、スイッチバックは消えてしまって鉄道名所が一つ無くなった。
所で、この「シーサス・クロッシング」の原語は“scissors crossing”と辞書に出ているが、誤った読み方がそのまま日本語に定着した鉄道用語のひとつであり、その和名は「両渡り付交差」となるのであろうか、従って「両渡り線(ダブルクロス(オーバー)付き交差ということになろうか。 やがて峠を降ると長与駅であり、このあたりの土地一帯は形が大きく、甘味が強いみかんの特産地であり、最近建て替えられた長与駅はみかんを輪切りにしたデザインが目を見張らせると云う。
所で最期に、大村湾の素描を試みたい。喜々津〜東園〜大草の間は大村湾に面している。この辺の海は、湖のように穏やかで、青ではなくエメラルドグリーンの海面が広がっている。おだやかな波が海岸に打ち寄せるさまが琴の音色のようだとして、古来よりこの海を指して「琴の海(ことのうみ)」という別名があるようだ。ところで、
大村湾は南北約26km、東西約11km、面積約321km2の海域で、西側を西彼杵半島、南側を琴の尾岳山麓、東側を多良岳山麓に囲まれ、さらに湾口をハウステンボスのある針尾島が塞いでいる。佐世保湾との繋がりは針尾島西岸の針尾瀬戸と東岸の早岐瀬戸だけで、極めて閉鎖的な海域である。
針尾瀬戸の最も狭い所は対岸まで180m、早岐瀬戸のそれは10mほどしかない。2つの瀬戸は外海の潮汐の影響を大きく受けて速い潮流が発生し、針尾瀬戸では複雑な海底地形もあって大規模な渦潮が発生するので、3月末には西海橋たもとの公園は潮見で賑わう。佐世保湾の最大の干満差が3mほどあるのに対し、大村湾のそれは1mそこそこである。
激しい自然の営みを垣間見ることができる湾口部とは打って変わって、湾奥部は湖のように穏やかな海面が広がる。平均水深は15mにすぎない。長崎県西岸を北上する暖流の影響が小さいため、冬の海水温は外海より大幅に低い10℃ほどまで下がる。動植物も豊富だが「すなめり」と呼ばれる外海には出ないいるかの群れがひときわ有名だとか。

撮影:1971年
発表:田辺幸男写真展「蒸気機関車のある風景(日本縦断)」

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・九州の北西部への旅の関連リンク

194. 笹原(ささばる)峠のキュウロク・唐津線/厳木−多久

195. 北松浦半島を巡って・松浦線/肥前吉井〜松浦