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・南阿蘇を訪ねて 3
173. 阿蘇山外輪山を登るキュウロク・豊肥本線/瀬田−立野-赤水

〈0001:〉
阿蘇外輪山を登る960

〈0002:〉
立野スイッバックを登る960

〈0003:〉
有暮れの熊本駅こうないにて、96とED7

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〈紀行文〉
 南阿蘇探訪の初日はもっぱら高森線の沿線の撮影に集中して確かな手応えに満足して山を下りて麓の、昔風に云えば豊後街の第1日目の宿場である大津宿、豊肥本線の肥後大津(ひごおおづ)駅の駅前旅館に泊めてもらった。有り難いことに、宿屋の主人が郷土史家らしい雰囲気を持っておられたのを幸に、大津宿とアルコール工場の話を教えてもらったので披露しておこう。
 この大津町は、戦国期に肥後の豪族合志氏の氏族である大津(おおず)氏が東嶽城(今の日吉神社)を築き、城下に集落を作ったのが始まりとされており、16世紀の天正16年(1588)になると加藤清正が肥後の領主として入国して来た。間もなく清正は阿蘇の谷から流れ出て阿蘇の外輪山の麓をゆったりと流れ下る流域を治水し、そこから灌漑により稲田に変えたいと考えるようになった。が視察に来た瀬田付近での白川には、川の流れをさえぎるかのように大きな兜(かぶといわ)岩とよばれる巨石が川の中央にあったのを見て、その岩を生かして石造りの取水堰を築いた上で、白川の水を引いた全長24kmの上井手(うわいで)の潅漑水路の開削を始めた。この事業は彼の没後、ここの領主となった細川氏によって完成に漕ぎ着けた。そして、約1,300町歩に及ぶ一大穀倉地全を潤すと云う成功を収めた。この水路の掘削によって生じた土砂を土盛りした土手の上に集落を集め、街道を通すと云う建設を進めた。これにより、町は穀倉地帯の中のしょうぎょうちとなり、熊本の次の宿場町としても栄えた。それに加えて藩役所である大津手永会所が設けられたこともあって、政治・経済・文化の中心として明治を迎えている。その後、昭和12年(1937)になると、アルコール専売制が施行されたことから、大蔵省直営の発行酵アルコール製造工場を誘致することに成功した。それは昭和13年4月に肥後大津駅に隣接した所に設立され操業が開始された。それに伴う主原料である廃糖蜜の持ち込み、製品の工業容アルコールの出荷は専用線を経て肥後大津駅から発着していたから貨物列車の取り扱いの汽笛の絶えることのない駅であった。その原料の廃糖蜜は南の島々から有明湾に面した三隅港に陸揚げされ、タンク車に積み替えて専用列車で肥後大津駅へ向かった。工場への入れ替え作業も国鉄のキュウロクが忙しそうに担当していた。このアルコール製造工場は長い間い大津町のシンボル的な存在として君臨していたと云うのだった。
 さて、翌朝は、早暁の一番列車に乗り込んで肥後大津から外輪山を越えた所にある赤水駅までの17.6kmの往復の乗り鉄を試みた。薄暗い中を出発した列車は瀬田駅を過ぎると右手に水田の広がる白河の谷間を見下ろすように河岸段丘の崖の上を急勾配で登って行くのだが、途中で割壕川や、比丘尼谷川(びくにたにがわ)が深い谷を刻んで流れ下って白河に合流する箇所を渡る高いプレートガーターの鉄橋で通り過ぎて行った。ここは立野駅までの5.1kmの間に約100mも登ると云う急勾配の連続だ。やがてジョイント音を響かせて島式の立野駅のホームに付いた。次いで出発した列車はいったん阿蘇とは逆向きに外輪山の中腹までおよそ1kmもの逆進でよじ登り、折り返し点で停車、ここから再び向きを変えてさらに登って高度を稼ぎ、長いトンネルを抜けるとやっと線路が平坦になり、朝もやの中の「阿蘇カルデラの大パノラマ」となって標高が465mの赤水駅に着いた。この地は鉄分を含んでいる地質から川水が赤褐色に濁っていたので名付けられたと云う。この阿蘇谷に入れば、右には阿蘇の火山群、左には広い田圃の向こうに長大な崖のようにそびえ立つ北側外輪山を見ることになる。
肥後大津へ戻る時間になると、すっかり空が明るくなったので、立野火口瀬の谷間の光景を一望できそうに思えてきた。やがてトンネルを抜けて長さ83mの黒川橋梁を渡って、黒川渓谷の北側の高台を33パーミルの急勾配で下り続け、眼下左に立野駅が見える辺りでは60mほど高い位置をさらに1kmほど下ると折り返し点に停車となる。この奥に見えるトンネルは、未成線のようにも見えるが、列車の編成が長すぎて、入りきれなかったためのトンネルと言われている。次いで方向を変えて逆向きで下って立野駅の見事な「シーサスポイント」(渡り線付きき交差)を通って島式ホームに突っ込んだ。立野駅を出ると阿蘇外輪山を滑るように下り、左下に阿蘇から流れ下る白川の谷が次第に広がって来るのが高い断崖の上から見下ろしながら下って行った。そして乗り鉄を終えて肥後大津駅で下車、クルマで豊後街道(大津街道)にある加藤清正が整備した杉並木と豊肥本線が並走していると云う武蔵塚駅の付近まで行って、三角発肥後大津行きの貨物列車を出迎えた。この駅の近くには領主の細川氏を指南していた剣豪の宮本武蔵の墓が豊前街道が見える場所に遺言通りに祭られていると云う。なるほど、国道57号(今は県道337号)と豊肥線をはさむように杉が並んでいるが、意外にも樹齢400年という割には小ぶりに見えて、巨木のイメージにはほど遠かったのは杉の枝おろしなどはせずに自然のままであるからだろうか。この街道は九州を東西に通じて熊本から京・大阪を結ぶ最短ルートとして作られ、政治や経済の面で重要な役割を果たしてきており、江戸時代になると細川公の参勤交代の道中路ともなっていた。熊本城下の札の辻を発した街道には、次の大津宿までの15kmの間には杉並木が植えられた。これららは旅人の弁や景観のためばかりではなく、緊急時の熊本城の修築用材として、また東からの外敵侵攻に対する防御柵を作るための溶材としての準備であったと伝えられている。
 さて、杉並木を入れてシルエット風に撮ってから、立野駅へ向かった。
 山麓の大津町から阿蘇を眺めると、その外輪山が一箇所切れている所があり、ここは立の火口瀬と呼ばれる谷間であって、その狭い隙間の高い所を国道57号線と豊肥本線が通じており、そこから崖下の谷底には黒川と川白河が合流して流れ下っていると云うのである。ここは、太古のむかし、初代の天皇であるで神武天皇から命を受けて阿蘇に来た孫の健磐龍命(たけいわたつのみこと:阿蘇大明神)が、外輪山の上から目の前に広がるカルデラ湖を眺め、その広大さに感心して、水をなくして稲田や畑を造ろう、と考え、水はけ口を作るために外輪山の一部を蹴破ったので、湖水が一気に西の方に流れ出したとの伝説の地であった。ちなみに、その健磐龍命が山を蹴破った際、力が余って尻もちをつき、「立てぬ」と叫ばれたのが転化して、その場所は「立野」の地名となったと云うのだ。
肥後大津駅を出てすぐに上り始め、田畑や茶畑が時折現れる以外は林の中を列車は進んで行き、瀬田からは本格的な急勾配に突入する。
そこで、立野駅に着く少し手前で列車の窓からは崖の下に白河の流れがいちぼうされ、しかも国道は線路より一段と高い所を並行して登っている所を見つけた。ここから旧購買を登って来るキュウロクの姿を谷底を蛇行して流れ下る白川の景観を背景に狙ってみた。果たして撮っている国道57号線の下を登って来る豊肥本線、その数十メートルの断崖の下を広い谷底を流下している白河との高さ関係が感じられたであろうか。このプレートガーターの橋梁が渡っている谷は割壕川なのか、または、比丘尼谷川だったのかは失念してしまっていた。
更に登って、立野スイッチバックを発進して赤水方面にダッシュする列車をサイドから狙った。おそらく山に登って大パノラマ風にスイッバックの全景を撮るポイントを捜し当てることはできるのだろうが、今回はそこまでの意欲は高まってはいなかった。
ここで瀬田駅から赤水駅に至る線路がたどる急勾配を考察してみよう。先ず標高 177mの瀬田駅を出て標高 277mの立野駅までの高低差 約100mを距離 5.1kmで登って行く。そして「渡り線付き交差のある島式ホームの立野駅に到着する。
この立野駅から標高 465mの赤水駅までトンネルを含めた直線距離は約6kmとされ、その間の高低差は188mであることから平均勾配は約32パーミルなのであるガ、
立野駅の北側には阿蘇外輪山の台地がそびえており、平均して徐々に勾配を稼いでいくということは困難であった。特に最も急勾配である区間は立野駅から約2kmのくかんであって、ここの勾配は70パーミルに達してしまうのであった。そこで、立野駅から逆方向に山腹を約1kmほど高低差30mほど登った地点に折り返し点を設けた。実際に、ここの標高は 306mであって、ここで向きを変えて赤水へ向かうことになる。この折り返し点から1kmほど登った地点では立野駅が眼下に見えるのだが、ここからの高低差は優に60mは登っていることになる。穂のような往復2kmの距離を稼いだことにより、この区間は最急勾配を33.3パーミルに抑えることに成功している。立野駅のZ字型の通り抜けの出来ないスイッチバックは勾配緩和を目的に作られたことは明らかである。
 さて、豊肥本線は西海岸を縦貫する鹿児島本線の熊本から、世界有数の規模を誇る阿蘇カルデラの中を横切って九州中部を横断し、東海岸を南北に貫く日豊本線の大分に至る路線で、久大本線とともに九州横断鉄道の役目を果たしている。
このような九州中部を貫く鉄道が計画されたのは、明治20(1887)年とかなり早く、明治25(1892)年6月21日に公布された鉄道敷設法の予定線に「熊本県下熊本ヨリ大分県大分ニ至ル鉄道」として定められていた。しかし、阿蘇を貫くことで難工事が予想され、調査によりこの区間の路線建設は後回しにされることとなった。しかし、民間の中で鉄道建設の機運が高まり、熊本・大分両側でそれぞれ鉄道会社が設立されたが、日清戦争後の経済不況の影響を受け資金難で解散。実際に路線の建設が始まったのは、より少ない金額で建設することができる軽便鉄道法が公布(明治43(1910)年)された後のことだった。
 大分県出身の元田肇が鉄道も担当する逓信大臣につくと、建設は加速した。同鉄道は鉄道敷設法によらない軽便鉄道として建設することになり、大正7年3月23日、鉄道敷設法予定線から削除した。明治43年(1910)の帝国議会で「豊肥線速成の建議案」が可決された。そして熊本-宮地間の宮地軽便線が大正元年(1912)に着港し、熊本-肥後大津間ガで大正3年(1914)に、大正5年(1916)に立野まで、そして大正7年(1918)に宮地まで開通した。
大分側も犬飼線として大正14年(1925)までに大分−玉来(たまらい)間がかいつうしていた。
大正11(1922)宮地軽便線が宮地線となった。そして、九州中部横断鉄道の熊本側が宮地線の支線として立野-高森間が昭和3年 (1928)にひとまず開通した。同じ都市に、未開通区間であった玉来-宮地間が坂上トンネル(全長 2282M)を貫通させ、大分-熊本間が全通して豊肥本線となった。そして立野-高森間の宮地線支線が高森線として分離されたが、昭和61年(1986)には南阿蘇鉄道へと転換されている。
この線区の無煙化は昭和49ねんであったが、昭和63(1988)年〜平成17(2005)まで臨時快速列車「SLあそBOY」号を8620型SLがアメリカ風客車を牽引する形で、宮地-熊本間に運行されて好評を博していたのも記憶に残っている。

・南阿蘇を訪ねて
68. 阿蘇白川渓谷を渡るミクスト(貨客混合列車) (高森線)
172. 幻の九州中部横断鉄道 高森線 (立野-高森)

撮影:昭和48年
ロードアップ:2010−07.

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・南阿蘇を訪ねて
068. 阿蘇白川渓谷を渡るミクスト(貨客混合列車) (高森線)
172. 幻の九州中部横断鉄道 高森線 (立野-高森)