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・南阿蘇を訪ねて 2

172.  幻の九州中部横断鉄道 高森線 /立野〜高森


〈0001:ありし日の高森線〉
阿蘇南郷谷を行く高森線立野行




















〈0002:トレッスル方式の橋脚に架けられた立野橋梁を行く〉
立野橋梁・高森線/立野付

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〈紀行文〉
 早朝に取りあえず第1白河橋梁を撮ったので、立野駅のスイッチバックは明日のテーマとして、午後からは高森線の沿線を探訪することにした。
 ここで先ず、高森線がさかのぼる白河の地形を理解を深めるために阿蘇カルデラの地形とと風土を素描してみよう。
標高 約500mで南北約25km、東西約18kmの大きな楕円形をした世界一の規模を誇る阿蘇のカルデラ(大凹地)は今から30万年以上前に現在の標高 約800mの外輪山を形つくっていた前阿蘇火山群があり、約27万年前から9万年前までに4回も繰り返した大噴火により地下から大量のマグマを火砕流や火山灰として放出したため、山の中央は陥没し巨大なカルデラが生まれた。そのため、このカルデラの周囲には広大な火砕流台地が広がっており、その内側は急崖に囲まれており、その北壁は高度差300m程度で、その上面は平坦であるのに対して、カルデラ南壁は高度差300〜700mと深い谷と尾根が交互していて、北壁とは対照的な彫りの深い地形を作っている。その時点で大きなカルデラに水が貯まりカルデラ湖が出現したと推定されている。その時に、南北に長いカルデラ内のやや南よりに主峰の高岳など十数座の中央火口丘がほぼ東西方向に並んで活動を続けていた。その西端の外輪山と接する地点、すなわち今の立野付近で、阿蘇山のの溶岩が外輪山の一部から流れ出る事態が起こったことから、この場所を立野火口瀬と呼んでいる。やがて、ここが浸食され開けてカルデラ湖の湖水が排水されカルデラ湖は消滅したとされている。
ところで、立野火口瀬は新旧二角割れ目で出来ている。あの国道57号や立野駅がある台地は外輪山を切ってできた谷の中にできていて、この谷が古い火口瀬である。もうひとつの新しいものは阿蘇谷からの黒川と南郷谷からの白川が合流する戸下から白川の流れに沿って西に延びている立野火口瀬であって、上流側から見て、白川の右側が中央火口丘群の溶岩、左側が先阿蘇火山岩類(阿蘇火山より古い岩石)でできた北向山となっている。これらの二つの割れ目の付近には活断層が認められていることから、その成因に関係しているとされている。
この唯一の外輪山が切れている立野火口瀬を通して、中央火口丘山麓にある草千里からは遠く白川が渓谷を刻んで流れ下り、台地の上では国道7号線と豊肥本線が熊本市に向って下っており、その先には熊本市街や、左手には熊本空港までもがが遠望できるとは驚いた雄大さではないか。
さてこの広大なカルデラの低地を中央火口丘列が南北に二分しているのだが、その北の広く平坦な区域を阿蘇谷、南の盆地を南郷谷と呼ぶのも、この広大な地形を谷と認める阿蘇の人々のスケールの大きさにも驚かされる一方、この「阿蘇」と云う名が北側に付けられているのも常識とはいささか異なっている。一般に表玄関・裏玄関と云う時には、陽当たりが良い南側が表(おもて)であることが普通であるのだが、阿蘇では逆で、表(おもて)は北である。実際に南郷谷は長いこと「裏阿蘇」と呼ばれて取り残されて来ていた。古墳から始まり、神社、寺、病院、役所、国道、鉄道などなどのあらゆる施設や風土が北側にが主役であったのだから無理もない。しかし、流れ下る河川だけが違っていた。それは外輪山の南北にそれの川があり、北には火山灰の泥土で黒かった黒川と、その昔カルデラ湖の湖水が幾分澄んで白くなっていた南の白河があって、南側を流れ下る白川が本留とされ、北側から流れ下るの黒河は支流とされ、合流して熊本平野を潤すのは白河となっていることなのである。この本流の白川の水源は阿蘇山の根子岳(標高1,433m)に発し、カルデラの南の南郷谷を西へ流ながら、天下の名水で知られる「白水」の湧水群のながれをを加えながら清冽な流となって高森線(南阿蘇鉄道)の南側を併走し、水面からの高さが62mもある第一白川橋梁を架けさせた上で、カルデラの西縁で阿蘇谷の水を集めた黒川を合留させ、豊肥本線のスイッチバックで有名な立野駅付近で阿蘇の外輪山を深い峡谷の急流で突き破って熊本平野の沿岸に水利と洪水をもたらしながら熊本市市街を南北にわけて西留して有明湾に注いで74kmもの長い旅を終わるのである。
この裏阿蘇に交通の便をもたらすきっかけを作ったのが、明治29年の日清戦争直後の頃のことで、軍事産業路線として熊本から阿蘇を経由して延岡を結ぶ九州横断鉄道線の敷設の話が持ち上がった。これが具体化したのは大正10年(1921)に提起された九州中部横断鉄道という国鉄の建設計画であって、延岡から高千穂へ、そして宮崎・熊本県境を抜けて高森、立野を経て熊本に至るルートであった。このような背景から、けわしい九州山地を横断するための難工事が予想されたが、当時の最新の技術を惜しみなく投入して建設が進められることになった。そして、大正12年に着工した高森線は、深い渓谷と険しい山の続く南郷谷付近には珍しいトレッスル形式の立野橋梁や日本初の鋼製アーチ橋である第一白川橋梁などの目を見張る鉄橋を架けて、昭和3年(1928年)に、立野駅から標高差270mも高所にある高森までの17.7kmを開通させた。一方、延岡から高千穂までは昭和47年(1972年)までに、高さ日本一の鉄道橋であった高千穂橋梁などの多くの鉄橋を五ヶ瀬川を渡りながらの高千穂線が開通した。そして、最後に残った高森〜高千穂までは昭和48年(1973年)春に着工し、河内トンネルで県境を抜けて、さらに阿蘇の外輪山を全長6,480mの高森トンネルを貫通させて昭和52年完成を目指していた。ところが、1975年に高森トンネル内2050m地点で水脈を切断してしまい異常出水事故が発生、工事は中断してしまい、そのまま1980年に計画中止されてしまい、九州横断は夢と消えたのであった。
私が高森駅を訪ねたのは着工直後のことであった。その時は、立野駅から、国道57号(長崎-熊本-大分)に戻り、少しのぼってから、分岐する国道325号(久留米−山鹿−大津-立野-高森-高千穂)へ左折した。この道は3年前の昭和45年(1970)に完成した深い黒川渓谷に架けられた阿蘇大橋を渡って南郷谷を横断して高森町へ至っている。そこで、取りあえず昼下がりを過ぎた高森駅構内を尋ねた。構内の突き当たりは何となく騒がしいのに屋反して、ホームの見える駅舎の辺りは眠そうな午後の光の中にあった。ホームには2輛の旧型客車があり、客車を、切り離したC12は悠然と昼休みをむさぼっていた。そこで気がついたのだが、駅のホームが南北に作られており、南側から撮れば後ろにうまく阿蘇山が入りることがわかったが、構内の風情は表現できなかったのであきらめた。その奥の方には新しく用意されたと思われる何本かの側線があり、更に奥まで線路は延びているようであった。多分着工直後の高千穂への延伸工事が既に進められていたのかも知れない。今から考えて見れば、高森線の無煙化は昭和50年(1975年)3月9日だからも2年後に迫っていたのだった。
これも後日談だが、私の訪ねた2年後の昭和50年に、掘削工事中の高森トンネルの入り口から約2km付近で毎分36tと云う異常出水に見舞われて工事は一時中断せざるを得なくなってしまった。この出水は今も止めることが出来ず、当時は高森町の水道水源の枯渇や、農業用水の不足をも来すと云う大事件であったようだ。その後の国鉄の財政困難から九州中部横断線の建設が昭和55年に中止となってしまい、完成した施設は廃棄撤去されてしまった。そこで、高森町は一部完成していたトンネルを旧国鉄から譲り受け、高森湧水トンネル公園として整備して公開し、併せて水資源博物館の役目を果たす関連施設を公開するまでに発展しているとのことだ。
さて、高森駅を出ると、南北方向に向いていたのが300mも走るとすぐに90度右カーブして立野駅へと西に向かって進むので、右側に阿蘇山本体、左側に、外輪山の南側部分が見えることになる。その外輪山のすぐ内側を白川が流れており、南に向かって緩やかな傾斜地に棚田が作られていた。阿蘇の天然のわき水、阿蘇白水の水源地が車窓から見えるようになると、山は、烏帽子岳である。ところで、阿蘇山というのは、阿蘇の山々の総称で、具体的には、東側から根子岳、
高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳の阿蘇五岳が並んでいると云う。白銀の残る山を入れて撮ったところ杉林に列車が吸い込まれてしまっておめにかけられないので、反対側の南を半逆光で撮った駄作を載せておいた。それは国道が高い所を走っており、南に傾斜した広い牧草地の遠く先に集落があるのか、線路も通っているらしく白煙が踊っていた。 長陽駅を過ぎると、16.38パーミルの勾配で下って行く。その間に、トンネルが2つあり、その間に第1白河きょうりょうがあり、橋の上からは阿蘇カルデラの南部を流れてきた白川は、この少し上流で、北部を流れてきた黒川と合流し、外輪山の低い部分を通って深い谷を作りながら熊本平野へと流れている。
トンネルから1kmほど下ると水力発電所の導水管のある立野火口瀬の白川本流の谷を跨いでいる高さ34mのトレッスル橋の立野橋梁を渡って、複雑な地形を約500m走れば終点の立野駅である。
このトレッスル橋と云う形式は最も古いもので、筋交いが入っていて頑丈そうに見えるだけあって、アメリカでは豊富にあった丸太を使って大規模な橋梁が広くて高い谷を渡っていたが、やがて更迭に取り替えられた。明治の初めにアメリカから輸入されて作られたのが有名な山陰本線の餘部てっきょうである。この立野橋梁は九州で唯一のトレッスル橋で、全て国産で架けられている。
・高森線の立野橋梁の諸元:
開通年:昭和3年(1928年)
橋長x幅員:136.8mX単線
形式: 上路プレートガーダー
径間数x支間:合計10支間の無いわけは、
6×9.1m,3×18.3m,1×25.8m
最大支間25.73m
鋼トレッスル橋脚(鋼鉄製の骨組み構造)3基
下部工/橋台、橋脚:コンクリートブロック積
高さ:30m
設計者:鉄道省大臣官房研究所
施工者:鉄道省(直轄施工)

橋脚は、厳しい斜面を抱き込むように立てられており、トレッスル橋脚は3基で、残りの橋脚はコンクリート製で、起伏が激しいために谷の深い部分だけに鋼脚を採用している。このトレッスル橋の採用の理由は、架橋地点の地形が悪く、材料の搬入が容易なことが挙げられており、他に架橋地点の、立野火口瀬は強風の通り道であることから、抵抗の少ない形式が採用されたと伝えられている。
橋の諸元については、土木学会の歴史的鋼橋のG4-004 立野橋梁などの一部を引用させて頂きましたことを感謝致します。
〈http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/G4-004.htm〉

・南阿蘇を訪ねて
68. 阿蘇白川渓谷を渡るミクスト(貨客混合列車) (高森線)
173. 阿蘇山外輪山を登るキュウロク (豊肥本線(瀬田−立野-赤水)

撮影:昭和48年
ロードアップ:2010−07.

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・南阿蘇を訪ねて
068. 阿蘇白川渓谷を渡るミクスト(貨客混合列車) (高森線)
173. 阿蘇山外輪山を登るキュウロク (豊肥本線(瀬田−立野-赤水)