自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・南阿蘇を訪ねて 1

068.  阿蘇白川渓谷を渡るミクスト(貨客混合列車)  ・高森線/立野−長陽

〈0001:〉
白川第一橋梁 

〈0002:〉
立て野駅へ向かう混合列車 高森線・第1白

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〈紀行文〉
 昭和44年の末頃だったろうか。「鉄道ファン」誌の臨時増刊 (vol9-103) に「10月改正ダイヤによる蒸気機関車撮影ガイド」が列車ダイヤ表と写真とガイド付きで発刊されたことから、撮ったことのない有名撮影地が明らかになった。それに啓発されて、次第に撮りたいとの意欲が高まると、居ても立ってもおられなくなり、何とか都合を付けて出かけた。その一つが高森線の見上げるばかりの高い白川第一橋梁のアーチを渡るC12の牽く旧型客車2輛と貨車を連結した混合列車(ミクスト)の姿であった。なにしろ、詳細な撮影地ガイドが付いていたので、五万分の一地形図を携えてYS11の福岡行き夜行便に乗り込んだ。到着するや、直ぐにレンタカーを借りて夜明け前の国道3号を南下し熊本で、長崎〜大分を結ぶ九州横断道路の国道57号へと左折した。やがて熊本の市街を抜けると道は黒々とした杉並木の大津街道を通って阿蘇方面へと走り続けた。早暁に静まり返った大津の街を通り抜け登りに掛かった。新しく整備された国道は走りやすく、登り始めて間もなくドライブインを見つけて、早い朝飯2あり付いた。そこで豊肥本線のダイヤを眺めていると、熊本ー肥後大津(ひごおおづ)間に貨物列車のスジが何本もあるのに気がつき、一体何を運んでいるのだろうか?。そこでドライブインの兄さんに尋ねたところ、大津駅の裏手には大蔵省どアルコール醸造工場が操業していて、原料の糖蜜や製品の輸送のダメだろうとのことだった。いずれ、帰りには立ち寄ってみようかなどと思いながら、未だあけやらぬ道を再び登り始めた。この道の右手の崖下には阿蘇山から流れ下って来た白川流れる谷が広がっていた。やっと到着した立野駅で一休みしながら、地図をながめながら地形を頭に入れようと努めたのだが、白河と黒川の合流する阿蘇外輪山の割れ目の真ん中にあたっているだけあって、その地形は複雑怪奇であった。そこで水系だけに注目して眼を細めてみると、“Y”字状に見えた。上野方お阿蘇山に、下のほうを熊本市のある熊本平野とすると立野駅の位置は縦棒の左側中ほどとなる。その先の左側の川は阿蘇カルデラ内からの水を集めた黒川であり、右側が白川本流で南阿蘇谷からの水を集めて流下っているのであった。
ともかく撮影地ガイドに従って朝一番の高森行きの混合劣者を確実に物にしたいと願ったのだった。
そこで駅前から栃木温泉への村道への看板を見つけて進むと、やがて砂利道が断崖をにへばりついて黒川渓谷へ下り続けて行った。眼下の後方には黒川へ白河が合流する地点が眺められた。やがて、黒川沿いの谷底に付いて少し進むと、川幅が狭くらっている所に架けられた全長25mほどの石積みの「メガネ橋」の黒川橋を渡って対岸に出た。
この橋は明治33年(1900年)に阿蘇を超えて大分へ通じている豊後街道から分かれて谷を下り、黒川を渡って、「戸下の七曲がり」の急坂を超えて栃木温泉へ至る道筋に架けられた古い石橋で、長さ 25.3m、幅 4.85m、高さ 16.30m、径間 17.7mと云う大規模なものであって、バス路線も通過していた。
その辺りは黒川の河原が岩のゴロゴロしている広い河原で占められ、その少し先で白川と合流していた。そこの川岸か一段と高まったところに通じている村道を進むと白川に面して戸下温泉 「碧翠楼」の豪華なコンクリート建ての建物が現れた。この先の道路はは断崖を「つづら折り」ではい登って栃木温泉を経て長陽方面に通じる「戸下の七曲り」の難路が通じているようだった。
この温泉は明治15年の頃に創建さてたそうだ。ここからは黒川と白川の合流点の渓谷美と、特に柱状節理と呼ばれる断崖がある一方、ウラジロガシ、ヤブツバキ、タブノ木などの常緑広葉樹が群生する北向山原生林を眺められると云う風光のであって、ここに急掛けの上の方に湧き出している栃木温泉から湯を引いて「碧翠楼」を開いたのだとか。やがて夏目漱石や徳富兄弟、佐藤春夫などの文人たちの投宿する高級宿として知られるようになり、近頃はビリヤードにプールなどをを備えた300人収容の豪華な保養ほてるとなって繁盛していた。
さて、ここで白河渓谷にに架かる第1白河鉄橋を見上げるのには、このホテルの裏側に当たる白河の河原に降りなければならないのだが、ホテルの敷地を横断せずに白河渓谷に入ることは磁力では危険があって困難のようであった。それほど、このホテルは合流点の間近に位置していたのであった。
そこで撮影地ガイドに従って最適なホジションへ到達するために、このホテルを横断して裏庭側に流れている白河の河原に降りなければならなかった。そこで意を決して、ホテルのフロントにお願いして白河の河原への通行の許可を乞うたのだった。幸運にもOKを頂くことができた。そして建物内の長い廊下を伝わって裏手に設けられたプールサイドから川原に安全に通らせて頂いた。そして上流の大小の岩がゴロゴロしている廣い川原をあちこち探したのだったが、「新しいアングル」の発見は難しかったので、先ずは三脚を据えて朝の下りミクストの通過を待ち構えた。やがて、立野液発車の時刻が過ぎて、近くのトンネルに入る汽笛が聞こえて来て緊張の一瞬の中を逆向きの牽引のミクストが通過して行った。このショットで、この撮影行の確かな手応えを得たのだった。そして、一休みの後、高森駅から折り返して来る所を立の側から狙ったのが次の作品である。鉄橋に近寄ってみると、鉄橋の前後共にトンネルであって、正面に見えるのが高森方にある戸下トンネルである。この両側の山を覆い尽くしている緑の濃い照葉樹林が北向山原生林と呼ばれる天然記念物に指定されている自然であった。ここは本来草原一色の阿蘇で唯一の原生林であって、標高 300 〜800mの山を「ヤブツバキ・タブノ木・ウラジロガシ・ヤブニッケイ」などが繁茂しているのであった。 さて、ここで第1白河鉄橋に付いての知見を述べておこう。この高森線(今の南阿蘇鉄道)の建設はは九州横断ルート構想の一環として推進されていたからこそ、地形の険しい白河渓谷に架ける第1白河橋梁の建設計画が当時の最新土木技術と巨費を投じて遂行されたのであった。
この鉄橋は起点の立野駅から 1,5kmほど登ったところで、阿蘇盆地からの黒川が南阿蘇を下って来た白河に合流する地点が眺められる位置にあって、周りはうっそうとした北向山原生林となっており、白川が削り上げた火山岩の渓谷の切り立った崖上にあった。 実際に渓谷の谷底に立って見ると、足場一つ組むスペースが無い程に切り立った絶壁で、その険しさと深さに驚嘆させられた。そこで橋の架設工法は国内初の「カンチレバー(張り出し、または“やじろべい”)工法が初めて採用された。ここでは、両岸川の端の半円形の桁は谷の斜面に組まれた足場の上で架設し、中央部は足場を用いずに、両側から釣竿を伸ばすように跳ね出して、“やじろべい”のようにバランスを取りながら伸ばして行って、中央で結合させる方法であった。実際に数センチの誤差で結合できたと伝えられている。この部材は約4万本のリベットで結合されており、鋼製のデリック・クレーンもここで初めて利用された。そして橋の形式は、国鉄で最初の鋼製アーチ橋であり、水面からレール面までの高さ約62mは当時国内随一の高さであった。
ここで橋の諸元を資料から拾って見ると、
開通:昭和3年(1928年)
橋長: 168m
幅員: 単線 
形式: 鋼上路バランスドトラスドアーチ橋
径間(m):30.5+91.4+30.5
製造者:汽車会社
下部工(橋台・橋脚):鉄筋コンクリート
 ところで、この“アーチ”とは円弧状をした構造形式のことで、垂直加重をうまく分散し支える仕組みになっており、これは古くローマ時代から石材や木材を使って応用されてきているものである。また、「バランストアーチ」とは、アーチの一種で、アーチの両側に半円のアーチを張り出したものであって、これは地形上の理由から採用される形式で、
架設工法の都合から云えば、中央部のアーチを伸ばして行く際の“やじろべい”のバランスを取るための片側の「おもり)の役目を果たしてイると云えよう。この橋の
設計者は(鉄道省 大臣官房研究所の高橋末次郎義肢で鉄道省が直轄で架橋工事を行っている。このように第一白川橋梁は残された数少ない戦前の橋梁の中でも鉄道省時代の先駆的な橋でもあって、昭和初期の鉄道技術陣の意気込みが伝わってくる橋だと感じられ、現在土木学会のAランク近代土木遺産として産業遺産登録されているのももっともな話である。
 後日談であるが、昭和28年(1953)の熊本大水害の際には、この第1白河橋梁の一部が水没するほどの大洪水であったから、下流の水害の甚大さは計り知れなかった。そこで白川の洪水調節のために立野ダムが黒川との合流点の直ぐ下流に建設が始められることになり、その手始めとしてのの水没補償対策が始まった。そして、戸下温泉「碧翠楼」の廃業と撤去工事と、谷底を黒川橋を通じていた「戸下七曲がり」の道路付け替え工事としての「阿蘇長陽大橋」の架橋が下流側に平成5年(1970)に完成した。今は立野駅からの道は崖崩れで廃道となり、河原への接近は困難となってしまった。また戸下温泉のあった場所には何の痕跡をも見出すことはできず、ただ「めがね橋の黒川橋」が取り残されているばかりであると云う。しかし、完成した立野ダムは洪水のみの貯水する方式だから、阿蘇蘇長陽大橋から眺められる上流の石橋や第1白河橋梁などの白河渓谷の景観は変わらないであろう。その日の午後からは高森駅から立野駅までの沿線を繁忙したので次のフアイルをどうぞ。

・南阿蘇を訪ねて
172. 幻の九州中部横断鉄道 高森線 (立野-高森)
173. 阿蘇山外輪山を登るキュウロク (豊肥本線(瀬田−立野-赤水)

撮影:1973年
ロードアップ:2010−07


橋名: 立野橋 ルビ: たての 開通年月日: 1928−2−12 橋長(m): 136.8 幅員(m): 単線 形式: 単純プレートガーダー l=18.1+9.1+18.3+9.1+25,8+9.1+18.1 上部工製作 汽車製造 架設 鉄道省 下部工: トレッスル 特記事項: 場所: 国鉄宮地線(高森線・南阿蘇鉄道)立野〜長陽間 熊本県 南阿蘇村(長陽村) 河川名: 出典:  
 
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・南阿蘇を訪ねて
172. 幻の九州中部横断鉄道 高森線 (立野-高森)
173. 阿蘇山外輪山を登るキュウロク (豊肥本線(瀬田−立野-赤水)