自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・関西本線を木津川に沿ってたどる」
168.
十一面観音像と
太平記の里
・
関西本線
/
大河原→笠置
−大河原の石橋“恋路橋”を前景にSLがプッシュプルする貨物列車−
〈0001:〉
〈0002:〉
〈0003:大河原の十一面観音磨崖石仏:2012年2月4日撮影〉
写真の典拠:
南山城村 大河原の十一面観音磨崖石仏
http://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/dac970c25038e5d78604fb5c8e991d06
転載に際して厚く御礼申し上げます。
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〈紀行文〉
あの関西本線の「加太越え」の“加太の大カーブ”での撮影には足しげく通っていたのに、伊賀上野から木津川沿いに足を伸ばすチャンスは長らく巡ってこなかった。やがて、ここへもJJ51が入線するとの噂を聞くようになり、あわてて行動を起こした。先ず、柘植から笠加茂との間を往復してから、クルマで沿線へと乗り出したのだったが、消化不良のままで無煙化を迎えてしまった。ここでは沿線風景を数回に分けてご覧に入れたい。
この最初のサイトは大河原駅を発車した下り後補機付き貨物列車が大河原大トンネルに向かって20‰の築堤を登って行くシーンを掲げたのであるが、この「木津川に沿ってたどる」シリーズのプロローグとして、柘植〜加茂間の関西鉄塔の建設の歴史と沿線の風物の紹介を先にさせてもらった。
私のような関東の人間には、“木津川”は大阪湾に注いでいる淀川の支流であること位は知ってはいるものの、その沿線の地理は今ひとつピンとこなかった。それでも断片的ではあるが、月ヶ瀬梅林、太平記と桜トンネルの笠置山、それに南山城の十一面観音巡りの里などが連想された。そこで先ず柘植から加茂までの沿線風景を描いてみよう。
この関西鉄道が東海道線の草津駅から柘植を経て四日市駅まで明治23年(1890年)末に開業して、伊賀盆地や伊勢平野の人々に大阪や東京への鉄道の便をもたらした。その5年後の明治28年(1895)年)12月には柘植から分岐して伊賀上野を経て奈良方面への路線延伸工事が始まった。この柘植から島ヶ原までは比較的平坦地であったが、その先の加茂付近までは木津川の谷間に沿ったり、川を横断するなどの難工事が予想される区間となっていた。また伊賀上野−加茂の区間では、将来の広軌化(軌を間1435o)への変更)への対応のためにドイツ規格を採用して建設が計画されていた。この建設には、あの「加太越え」の難工事を成功させた井上徳治郎技師が技師長として指揮を取ったと云う。
さて、柘植駅から分岐した線路は大カーブを描いて西へ伊賀盆地の北側の標高250mほどの山々の山すそとその左手に鈴鹿山脈の南西端の油日岳(標高694m)を源とし南流して来た柘植川に挟まれて10〜16‰の下り勾配で田園風景の中を快走する。やがて新堂駅を過ぎて河合川を渡ると、柘植川の川幅が広がり明るい水面が見られるようになる。そして佐那具駅の先からは今まで線路に寄り沿って来た柘植川は左へ離れて行き、その先で布引山地の笠取山(標高845m)から意が市東武を流れてきた服部川に合流して、続いて伊賀川(木津川本流の別名)に注いでいる。一方、同様に連れ添ってきた国道25号(大和街道)も左に離れ上野市街へと向かって行った。線路は相変わらず10‰で下り続け、やがて左手前方に上の白が見えて来ると工場や住宅地が現れて伊賀上野駅となる。大和街道に沿った上野市街は駅から2qも離れた柘植川の南側の丘陵上にあった。こんなに駅が遠くなったのは一説によると、上野地市街を経由する場合には建設費がかさむため地元の負担を要望したが、その結論がまとまらなかったとあった。
伊賀上野を発車すると伊賀鉄道伊賀線が左へカーブして去り、住宅地を抜けた先は北側の伊賀盆地の山すそから流れ下る沢の流を横断しながら西進するが、左手に一瞬だけ伊賀川を見ると間もなく平坦地が現れて、昔の大和街道の通っていた宿場にある島ヶ原駅となる。
ここで、鉄道線路から少し南(左手)に離れて流れ下っている木津川の流れをたどっておこう。この川は中流で名張川と合流するまでの上流は伊賀川と呼ばれる慣わしがあり、その下流も時には笠置川と云うこともあるようで、地元との関わりが強いようである。昔は、淀川・木津川の水運は笠置までは無理をせずに20石積みの船が上ることができたので、伊賀から米・茶・雑穀・種油・薪炭・竹・材木が下り、笠置からは特に塩が年間3万俵入ったほどの隆盛であった。伊賀盆地までの通船は文化12(1815)年に開かれたが、嘉永7(1854)年の伊賀大地震で峡谷の崩壊により川巾が狭隘となり、船の運航は不可能となってしまったとか。
さて、その木津川“本流”の上流である伊賀川は布引山地の東端にある青山高原(標高 756m)に源を発し、上野市街の南を西留して、上の城を右に見て、郊外を北上して伊賀盆地の水を集めた服部川を合流させ、山間の峡谷に向かう。そこは笠置山地と信楽(しがらき)山地との間にある断層谷を岩倉峡と呼ばれる激しい瀬の続く山峡区間を流下る。島ヶ原を過ぎると笠置山地を貫く、断層沿いの横谷が続き、京都府に入る辺りから峡谷を成し、やがて高見山地大和高原()の三峰山(標高1,235m)が水源の名張川を加えると、木津川と名を変えて夢弦峡と呼ばれる区間に入るのだが、今は大河原発電所堰堤の湛水区域となってしまっているが、かつては伊賀ライン下りで賑わっていたと云う。この発電所堰堤下から大河原まで、木津川はくるりと大きく曲折している。この間に落差が4mもある「明神の滝」と云われる本流に懸かる荒瀬が続いていた。ここを抜けると京都府の南山城村の中心部へと入ったらしく、山あいを流れるものの、谷は明るく開け、伸びやかな川面が見られるようになる。この周りは余り高くない山が囲んでいた。
さて再び鉄路に戻ると、島ヶ原駅から先の大河原駅までは伊賀川(やがて木津川となる)の右岸に沿った起伏の地形であって、標高差が61mもあり、25‰の勾配が続き、護岸、擁壁が多く、それに隧道が3カ所もある難所であった。
島ヶ原を発車して再び山間部へと入り、短い島ヶ原駅トンネルを抜けてしばらくすすむと三重県から京都府唯一の村である南山城村に入り、すぐに築堤上にある月ケ瀬口駅に到着した。ここの梅の名所である月ヶ瀬は駅の南方にあって奈良県の村であって少し距離がある。
月ケ瀬口を発車後は山間部を進み、煉瓦積みの短いトンネルを二つ抜けると左へカーブすると地形が一転して開けた山村風景となり、峡谷を抜け出た伊賀川の名は木津川と変わり、その左岸を国道163号線(津−上野−木津−大坂)が南山城村の中心街を通じている。やがて木津川を右岸に渡って鉄道線路の左手に寄り沿うようになり大河原駅前を通っている。この原駅をでた線路は築堤となり上り20‰の坂を大小二つの大河原トンネルへと登って行くが、右手に渓谷が広がり、大きな岩が剥き出しで、ゴロゴロと深い緑陰に沈んでいたり、水かさが増えると沈んでしまう「沈下橋」も石橋がちらりと見えた。このトンネルの名も「大河原大トンネル」、続いて「大河原小トンネル」なのだが、このネーミングは関西本線の前身の関西鉄道の流儀なのだろうか。
左手を流れる木津川の流はあの石橋辺りは快適な流れがあるが、300mも下ると相楽発電所の堰堤の湛水域に入り、ほとんど流でを失ってしまい、いささか悪臭がただよう水面が2qほど続くことになる。
さて、この先の笠置方面への地形は木津川の右岸には伊賀街道(国道163号線)が山裾をはうように通じていて、そこへ鉄道線路を割り込ませることは難しいと判断した当時の技術者は木津川に大橋梁を架ける営団を下した。これが明治30年(1897年)に完成した全長172.4mの大鉄橋であった。現在の橋梁は大正15(1926)年に耐荷重増強を目指して、中央部が立派な経間 62.4mの下路曲弦ワーレントラス一連に、それに両端が経間 22.2mの上路プレートガーダー(曲線桁)二連に掛け替えられ、合わせて開通当時からの下路平行弦ポニーワーレントラス(ピントラス)二連は特殊な補強が施されたので、外観的には通常のトラス橋とはひと味違う趣があると云われる。一方、橋脚は煉瓦+石積みで、狭軌単線の橋としては余裕を持って築造されていることから、将来の広軌化への対応の証(あかし)として語られることが多いようである。
やがて、木津川は笠置峡谷にさし掛かったようで、右手に国道163号線の笠置トンネルが見える所からは川幅が狭くなり巨岩の間を流れる「笠置の七曲瀬」と呼ばれる荒瀬が続く。その左岸はさほど高くはない山が連なり、その中腹の山肌にへばりつくように線路を通すためには護岸、切り取り、擁壁(ようへき)を連続して築く難工事であった。この木津川流域特有の花崗(かこう)岩質の岩盤がいたるところに露出しており、手で触るとざらざらと表面が崩れて砂となる特徴があったからであろう。そしてしばらくの間木津川沿いを走り、桜や紅葉の名所として有名な笠置山(標高 288m)の北麓を通り、やがて柳生街道を越えた先が1面2線の笠置駅となる。この山中には修験道の行場である笠置寺があり、元弘元年(1331年)に後醍醐天皇の鎌倉幕府を倒幕する計画が発覚した後に挙兵し、篭城して元弘の乱の発端となった歴史で知られる。この開業した駅と対岸の伊賀街道(大和街道)の宿場町であった笠置の集落との交通は急流を横切る渡し船であったが、やがて吊り橋が架けられた。この笠置橋から下流では浅い小さな瀬を下ると岩の多い山峡区間から一転して、砂州の広がる緩やかな流れとなる。やがて木津川が右へ去り、沿線風景が田園地帯から住宅地が現れると加茂駅に到着する。
ここから写真の撮影メモに入りたい。そこで2面3線の大河原駅に降り立って見ると、かっての名古屋と奈良・大阪を最短距離で結ぶルートとして映画を誇っていた往年の幹線振りを象徴するような構内線形が見て取れ、東海道本線側の整備により勢いを失った今日でもその名残が見ることができた。
構内の北側は緑の山が迫っており、そこに半分脚を架けた屋根のない跨線橋から月ヶ瀬口駅方面を眺めると、広かった構内が突然くびれて単線になり、緑の中に消え延びていた。替わって笠置方面を見渡すと、構内に引き込まれる長い貨物側線が見えた。ここでは道路に面した左脇のスペースで貨物の取り扱いが盛大に行われていたのであろうか。確か、大正末の1918年頃に、京都電灯の大河原発電所や、その下流の相楽発電所の建設資材の到着で多忙であったことが知られていた。それに、立派な構内線型にも「きけ」を取らない「とても風格のある駅舎」が現存するのだが、今はさびしい山間の駅と云った風情となっていた。その駅の前は国道163号線が走っており、その向こうには、こんなにも落ち着く幅の広い木津川の流れと低い山並みが横たわり、水遊びにはもってこいの石造りの沈潜橋があった。大河原駅には列車交換のために停車する後補機付きの下り貨物列車が来る予定であったので、木津川に面した二段も高い登り坂の築堤を発信してくる情景を対岸から撮ることにした。やがて現れた本務機は蒸気圧が上がっていたので白煙を吹き上げているのに対して、後補機はダッシュのための習性であろうが、重油の併燃をしているらしく黒煙を盛大に吹き上げると云う対照的な光景が見られた。そのうちにスピードが付いてきたようで、直立していた二本の煙を乱れさせながら目前を通過して行った。やがてトンネルを抜けて下りに入ったのであろうか、絶気を知らせる本務機からの合図の汽笛と、それへの応答をする後補記の汽笛が続いて川面を伝わって来た。この先の下り勾配を飛ばして行く列車は左カーブを切りながらトラス式の木津川橋梁を渡って笠置駅へ向かって行った。ここを走る奈良庫のD51は、すべて煙突には、烏帽子のような集煙装置を被り、背中のドームの後ろには重油タンクを備えており、その姿は秀麗と云うよりは太平記に出てくる「つわもの」の面構えであったように想われた。撮影を終わってホットしていると、橋のたもとに新しい小さな石碑があって「恋路橋」と刻んであるのを見つけた。
確かに、この橋は川辺の風景にとてもよく溶け込んでいて、良い雰囲気をかもし出していたことは感じてはいたが、まさか、こんな山里に思いもつかぬロマンに満ちたなが付けられていたのにはいささか驚かされた。
この橋は地図では「潜没橋(せんぼつきょう)と記されていたから、川が増水すると流れに隠れるので、「沈み橋」あるいは「石橋」とも地元では呼ばれているとのことだった。その長さは95m、幅3,6mの花崗岩(かこうがん)の石橋で、石積みの橋脚の上流側は流れに対して鋭く突き刺すように尖っており、昭和20年3月に架けられたと云うのだった。この種の橋としては小さいながらも関西での存在感を誇っているとのことである。この橋が架けられるまでは渡し船が北と南大河原の集落を結んでいたとのことである。それと同時に、この橋は南岸に鎮座する恋志谷神社の参道にもなっているのだった。
そこで平成8年に、村のイメージアップの一環として橋の愛称を公募し、ロマンチックな「恋路橋」と名付けられ、小さな石碑が設けられたのだった。
この橋の道幅はそれなりにあるが、橋の縁には本当に何もなく、また川の流れも結構あるため、クルマでの通行には覚悟がいりそうだ。この橋を渡って坂道を上がると南大河原集落に入り、そこには地元の柳生一族の宗冬が1647年に寄進したと云われ縷々石造りの鳥居があり、石段を上がった右に「天満宮」、左にその末社である恋志谷(こいしだに)神社と云う大変ゆかしい名の神社が現れる。この祭神は恋志谷姫大神であり、この神が縁結びの神とされる訳は、南朝の哀史ともいうべき次のような悲恋伝説が伝えられている。
話は鎌倉時代の末期にさかのぼる。元弘元(1331)年、鎌倉幕府を倒そうとする計画が洩れ、建武の中興で有名な第96代の後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山に逃れた。天皇に想いをよせていた姫(寵姫(ちょうき)は伊勢で病気の療養中であったが、急ぎ笠置の行在所(あんざいしょ)に駆けつけた。しかし、姫が笠置に着いた時には、既に天皇は追っ手から逃れるため笠置を発った後であった。その後に隠岐に流された(1332年)ことを知った姫は天皇に会えなかった悲しみと憤りから病が重くなり、自害してしまった。姫はその時、天皇の身を案じて恋焦がれ、さらには病に苦しむような辛いことは自分一人で十分である。苦しむ人々の守り神になろうと言い残された。このことを哀れんだ人々が「ほこら)を建てて、祭ったのが この社であるという。もともとは、病難を除く神であったが、今では恋をかなえてくれる神として信仰を集めているとのことだった。
ところで、この京都府南山城村は「十一面観世音菩薩像巡りの里」として知られており、この神社の近くには大河原の十一面観音磨崖石仏が祭られている。この神社前で右折し、道なりに進と左側斜面に突き出した巨岩は高さ10mに及ぶ大岩であって、その下の岩肌に磨崖仏が祭られている。山から突き出た花崗岩の表面の高さ110cmの舟形光背を彫りこんで、像高95cmの長谷寺形十一面観音を半肉彫りしている。天文3年(1534)の銘があり、室町期の造立である。
ここから“南山城の十一面観世音菩薩像”への
蛇足をお許し頂きたい。私の写真のスタートは「野の石仏」撮りからであった。この関西本線が通じている三・奈良・京都の三府県の境に接している京都府の南山城の一帯は古仏が多く居ます場所として知られており、なかでも十一面観音仏の優れた仏像が目立つ所であることは知っていた。実は、2013年の7がつのOB会で友人の笠井さまから、『京都の南山城で素晴らしい「十一面観音像」を拝観して深い感動を覚えたとのことで、その心象風景をコメントしてもらった。〈光の当たり方で、昼と夜(慈悲と怒り・恐れ)との2面性を見せていただき感動した……点。〉』
そう云えば私にも林の木の葉を通してこぼれる陽光に照らされた石仏のお姿か同様の感動を覚えたことが何度もあったのを思い出した。
そこで、このテーマをより判っていただくための情報と写真をリンクしましたので、ご覧頂ければ幸です。
この仏の居られる寺は寿宝寺(じゅほうじ)と云い、古くは文武天皇慶雲元年(704)の創建と伝えられ、度重なる木津川の大洪水に見舞われたため、現在の小高い地(最寄りは近鉄京都線三山木駅)に所在している。ここの 本尊の「十一面千手観音立像」は等身大の素木造りで平安後期に造られたものである。この“千手”とは、菩薩救済の手のおよぶ範囲が広大で、その方便が無限であることを表わしている。千手観音は通常42本の手を持って千手と呼ぶ場合が多いが、ここでは実際に千の手を持ち千の眼によって人々を救ってくれる仏であって、日本に三体だけ存在している貴重な仏像であった。次の「十一面」であるが、頭(ひたい)の周りに飾られた十一の面には五種類の表情がある。その中央髪の上の仏面は如来で頭を丸く盛り上げ,大乗を習い行ずるものに対して最終最上の仏道を説く、その正面の手前三面は慈悲面でやさしく善良な衆生を見て大慈悲を生じ楽を与え、その右横の三面は忿怒面でこわい顔をし悪い衆生を見ては一慈悲を生じ苦を抜く、左横の三面は狗牙上出面で口元に上向きの牙を出し浄業者を見て希有の讃を発し仏道を勧進する、真後ろの一面は大悪笑面で大きな口を開けて笑い善悪雑穢の衆生を見て快笑し悪を改め道に向かわせる。このお姿は、人間の災厄に際して十一面観音が大きい力を示して下さる事を現している。
観音の本質は慈悲であり、悪い衆生には怒りの相を,良い衆生にはほめてやり、いやしい衆生には己のみにくさを覚えさせ、善に向かわせねばならない。つまり、その時と場所に応じて使い分けをする人間こそ良い人間であると言っている(「定本 仏像心のかたち」日本放送出版協会刊)。頭上の十一面のうち一番後ろの大悪笑面は,他の三面に対して一面なのは、人間をあざ笑うことはしてはならないと言う意味であろう。
この観音さまはその昔、藁葺屋根の本堂にまつられておられ、その屋根から差し込む月明かりで拝むのが最も優しい姿なのだとの伝えがあると聞いた。今の蛍光灯の青白い明かりは当時の月明かりと似ていたのかもしれない。世の中を救おうと広げる千本の手、瞳の大きさが分かるくらいに閉じられた眼、柔らかな状態の膨らみ。その畏れに身震いがした。今度は明かりを消し扉を開いて外の光だけでその姿を拝見させていただいた。そこで浮かび上がったのは、さっきとはまるで別人のような姿だった。あの優しい表情が厳しく感じた表情に一変したのである。穏やかながら、口元の朱が際立ち目元は力強い。(写真は下記からご覧下さい。)
・引用した参考文献:(ここに写真もあります。)
【仏像ワンダーランド】: 寿宝寺 明かりに照らされた千手観音【京都】
http://butsuzoworld.blogspot.jp/2011/09/blog-post.htm
撮影:1970年
アップ:2009−08−31
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・「関西本線を木津川に沿ってたどる」シリーズのリンク
170. 「伊賀上野城遠望」 (関西本線・伊賀上野→佐那具)