自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・関西本線を木津川に沿ってたどる」

170.  「伊賀上野城遠望」   関西本線 伊賀上野→ 佐那具


〈0001:伊賀上野城遠望〉
東堂高虎の築城に成ると言う伊賀上野城が岡の上に見える

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〈紀行文〉
 何度目の“加太(かぶと)越え”であったろうか、早朝に「加太大カーブ」で3本ほど撮ってから、柘植の貨入れ替え風景や機関車車泊所の情景を撮って過ごした。夕暮れが迫って来たので伊賀上野で泊まることにして古い街道に沿った国道25号を西へ、藤堂を経てまで約13kmの下り道を走った。やがて沿っていた柘植川モ国道も関西本線に分かれて南の伊賀上野の町へとむかっていた。この辺からは遠くに伊賀上野城の姿が見えるようになったのに、関西本線は伊賀上野の町の北2qほどの所を東西に走っていた。
よくよく眺めると濃い緑の森林の丘の上には白亜三層の伊賀上野城が端麗な姿が夕陽を浴びるような一にあった。そこで、とっさに上野城の北面が夕陽に輝く姿を関西本線の列車を前景に撮ろうと子幌見た。
そして捕らえたのが、D51牽引の伊賀上野 18:07発の上り客46レであった。
大和街道に沿った上野市街は駅から2qも離れた柘植川の南側の丘陵上にあったのだった。こんなに駅が遠くなったのは一説によると、
関西鉄道が柘植から奈良へ向けて延伸する際には、野地市街を経由させるには遠回りになり建設費がかさむため、その建設費の一部の負担を地元に求めたがまとまらなかったからだと意云われている。ここに泊まるのは、その昔、ホンダ鈴鹿の同僚たちに誘われて
「松坂牛のすきやき」の味を覚えていたからである。
この伊賀上野駅は2面3線の構造で、下り加茂方面ホームの加茂方から名張へ通じている伊賀鉄道が発着している。上野市の中心は伊賀鉄道の上野市駅付近にあるとのことだった。
 さて、この伊賀上野は三重県の北西部にある伊賀盆地のやや北にあり、その盆地の南には名張と云う町がある。この二つの町は共に城下町デあると同時に、盆地を東西に通じている昔ながらの街道や鉄道の幹線が通りていると云う共通点を持っていたのだった。この盆地の地形は北東部を鈴鹿山系、南西部は大和高原、南東部を布引山系、北西を信楽(しがらき)山地に囲まれていて、低地や台地は少なく、丘陵地が多くなっている。この盆地を潤す川としては、布引山地の東端に当たる青山高原(標高 756m)を水源とする本流の伊賀川は、鈴鹿山脈からの柘植(つげ)川を、布引山地からの服部川を合わせて西に流れて、北の信楽山地と南の笠置山地の間の断層谷を渓谷を刻んで流れくだって、大和高原の高見山地からの名張川を合わせて木津川と名を変えて京都府の南端の笠置の山峡を抜けて、淀川から大阪湾に注いでいた。この盆地を東西に通過している古代からの街道としては、北側を通る大和街道(奈良方面では伊賀会堂)で、奈良から木津川に沿って伊賀上野を経て加太(かぶと)越えを抜けて東海道筋とを結んでおり、関西本線が並走しており、現在の国道25号線+国道163号線に相当している。もう一つは盆地の南側を通過している畿内からの参宮道の一つであって、比較的穏やかな道筋なので人気が高かった初瀬(はせ)街道である。奈良県桜井から名張を経て青山峠を越えて伊勢街道の通る松坂へ通じている道で、近鉄大阪線が並走していて、現在の国道165号線がこれに相当している。これに加えて伊賀上野で大和街道から分かれて長野峠を越えて伊勢街道の松坂とを結ぶ伊賀街道があり、この街道は藤堂藩の本城であった津城と支場である上野城を結ぶ藩道として整備をしたことでも知られており、伊賀と伊勢を結ぶ政治経済の幹線であって、現在の国道163号線に相当する。さらに、二つの城下町と、大和街道と初瀬街道とを結んでいる名張街道が通じており、これはまたJR関西本線と近鉄大阪線とを連絡する伊賀鉄道が沿うように走っている。
このような地理的、歴史的な背景から、伊賀上野は古来より都(あすか:飛鳥・奈良・京都など)に隣接する地域として、また交通の要衝として、さらに江戸時代には藤堂家の城下町としてや、伊勢神宮への参宮者の宿場町として栄えてきており、京・大和文化の影響を受けながらも独自の文化や風土を守り続けて来ている。
 この伊賀上野に関西鉄道が建設された頃の事情に触れておきたい。関西鉄道初の草津〜四日市間が明治24(1891)年に開業し、続いて柘植〜奈良間の路線延長の免許を明治28年に得て、直ちに伊賀上野方面に向かって工事を開始し、明治30(1897)年1月に延長14.65kmが開業した。
柘植から分かれた線路は右に大きくカーブシテ西に向かい、16〜10パーミルの下り勾配で、北側の標高250mくらいの山々と右側の伊賀川に挟まれた間を府中村に佐那具駅を設けた。そこから先で大和街道が上野町へと離れて行くが、路線は山すそを10パーミルほどの緩やかな下りで西進して三田村に上野駅を設けた。この駅は何故か、上野町より約2.0kmも離れた所となった理由は定かではないが、一説には、島ヶ原に向かう路線を上野町地内を経由させる場合には建設費がかさむため、地元の負担を要望したのだったが、負担に対する結論がまとまらなかったとも云う。しかし、この鉄道の開通は伊賀地域に大きな利便性をもたらし、人と農産物・木材なども大きな流通網に入り経済的に大きな恩恵をもたらしたようだ。鉄道が来る前は、草津から荷車・人力車・徒歩が交通手段であったし、道路事情は狭くて悪かったことであろうからである。
 関西鉄道が明治26(1893)年に柘植〜奈良間の敷設申請をしていた頃、それを見越して伊賀鉄道と云う鉄道会社が発起人55人を集めて大坂で創立された。これこそが現在の伊賀上野と名張を結んでいる伊賀鉄道の先祖に当たる鉄道であった。これは伊賀西南部と奈良県東南部とを連絡すると云う壮大な計画であって、その翌年には早くも桜井起点・初榛原(はいばら)・三本松・名張・多気を経て宇治山田・鳥羽港に至る一方、名張より分岐して上野に至る鉄道」の敷設願いが出された。その創業時の最大の関心事は、関西鉄道が上野町を通過せずに、三田村経由となるとの情報から、名張からの分岐線の終点を三田村に設けられた関西鉄道の上野駅まで延長して接続する計画案を早く決議しなければと云うことであったようだ。その後の幾多の苦難を経て、この伊賀鉄道は最終的に解散に追い込まれたのだったが、一部完成した路線や輸入された車輌たちはそれぞれに身の振り方が決まって行ったようだ。その後、1912年(大正元年)になって、上野町の実業家の田中善助さんにより関西本線の上野駅と上野町(現在の伊賀市)の中心地を結ぶため、伊賀電気鉄道の前身である伊賀軌道により上野駅連絡所(現在の伊賀上野駅) - 上野町駅(現在の上野市駅)間が開業した。伊賀上野 - 名張(後の西名張)間が全通したのは1922年であった。
奇しくも、1922年に成立した改正鉄道敷設法の別表の「81.奈良県桜井ヨリ榛原、三重県名張ヲ経テ松阪ニ至ル鉄道、及び名張ヨリ分岐シテ伊賀上野附近ニ至ル鉄道」の後段に該当する路線でもあった。
電化後は、大阪電気軌道を経て参宮急行電鉄の路線となり、近鉄を経て、現在の第2代の伊賀鉄道となっている。
 最後に城の開設を受け売りしておこう。伊賀上野城は上野盆地の中央辺りある上野台地の北部の標高180mの丘の上にある。その昔、天正9(1581)年に起こった「伊賀の乱」は織田勢が攻め込んで伊賀の地を焦土と化した戦いであった。戦後に伊賀の守護を命じられた家臣の滝川雄利は、その昔、平清盛が建立したと伝えられる平楽寺の伽藍(がらん)が焼け落ちた跡に(とりで)砦を築いた。これが伊賀上野城の始まりである。その後、天正13(1585)年に秀吉の命により大和郡山から伊賀に移ってきた筒井定次により3層の天守を持った城が築かれたが、その詳細は明らかではない。この本丸は現在の本丸の東側に一段高く石垣が組まれた曲輪(くるわ)がある所で、藤堂時代の城代屋敷があった所で、この城の最高地点であり、石碑が建てられている。次いで、慶長16(1611)年に徳川家康の命を受けて、伊予の宇和島から築城の名手とされる藤堂高虎が伊勢国の津城に封じられ、その支城となった上の城の大改修が行われた。それは豊臣討伐に備えて堀を深く、石垣も高くし、南に二ノ丸を構築した。そして天守の位置を西側に移動し、5層天守を建設した。しかし竣工をひかえた慶長17(1612)年に嵐のため天守は倒壊してしまった。しかし大坂の役によって、豊臣氏が滅んだため築城は中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。明治維新後、石垣上の構造物の殆どが取り壊された上、その上、城が小高い丘の上にあったこともあって、利用されずに放置されてしまったので、雑木や草に覆われてしまっていた。明治29(1896)年に伊賀出身の実業家で後に二代伊賀鉄道の創立も手がけることになる田中善助さんにより城周辺の整備が行なわれて公園となった。現在、旧城域一帯が国の史跡に指定されており、日本一と云われてきた藤堂高虎の高さ約30mの石垣や武庫、米倉などが現存している。
 一方、長年にわたって藤堂高虎が構築した天守台の一角に君臨する3層3階の天守は、昭和10(1935)年に3年の歳月を掛けて、地元の衆議院代議士であった川崎克さんが私財を投じて建造した模擬天守閣で、正式には「伊賀文化産業城」と云うのだそうだ。
この三層三重の大天守は高さ23m、面積 276uあり、基台をあわせると33.3mの高さとなる。この木造、瓦葺きの純日本風の建築の外壁には白亜の漆喰塗籠(しっくいぬりこめ)が施されている。それに高さ9.54m、面積81uの2層2階の小天守を伴った複合式天守である。また小天守内には深さ100mの深井戸があると云う。これらは時代考証を経て建てられてはいない模擬天守ではあるが、築84年も経過すると、それなりの貫禄があるように思えた。
さて公園内には、松尾芭蕉の八角堂「俳聖殿」や芭蕉翁記念館があり、また伊賀流忍者博物館もある。公園外の市内には、古来からの都である 京都・奈良や伊勢を結ぶ大和街道・伊賀街道・名張街道が通じている交通の要として、江戸時代には藤堂家の城下町や伊勢神宮への参宮者の宿場町として栄えていた名残を残している街並みの散歩、それに西北にある「伊賀越仇討ち」で知られる「鍵屋ノ辻」があり、また松尾芭蕉翁生家や「蓑虫庵(みのむしあん)などはいずれも見逃せない風物であろう。
 末尾ながら、このHPのアップに当たり、初めは「姫路城遠望の播但線」だと思いこんでいましたが、幸いにも、姫路市在住の「米坂線の蒸気機関車を主宰されている鈴木さまのご示唆をいただき、このようにまとめることができたことを感謝致します。

撮影:1970年頃。

・関西本線を木津川に沿ってたどる」シリーズのリンク
168. 十一面観音像と太平記の里・関西本線/大河原→笠置
−大河原の石橋“恋路橋”を前景にSLがプッシュプルする貨物列車−