自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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・“Railroad Town USA” Strasburg を訪ねて(ペンシルバニア州)
127.
ストラスバーグ鉄道のアメリカンとキャメルバック
《元PRR アメリカン タイプ 4-4-0 ♯1223》
《PRR ♯:1223 :ペンシルバニア州立鉄道博物館所蔵》
《元P & R鉄道 0−4−0 キャメルバック タイプ ♯1187》
アメリカに駐在していた足かけ7年の間に、ペンシルバニア州のストラスバーグへは少なくとも3回は季節を換えて訪問した。そしてやっと探しておいた撮影ポイントに向かったら、お目当ての実ったトウモロコシ畑が全部刈り取られた後だったりして、やっと撮ったのがこの一枚である。
今日は中間駅の Grofps Grove を出発して緩い勾配を力走に掛かるストラスバーグ行きの列車を銀色に輝く とうもろこし畑を前景にランカスターの自然を捕らえたのだった。幸いにも、今日の牽引機関車は4-4-0 アメリカン タイプの車輪配置を持った由緒ある♯1223であった。この蒸気機関車は元PRRのアルツーナにあった自社のJuniata機関車工場で1906年にSerial : 1399 として製造されたクラス D16Sbの「カマ(缶)」であった。このタイプは1895〜1910年の間に400輛も量産されており、時速100マイル以上の高速旅客用として優れた性能を誇っていた。その内の3輛が“PRR コレクション”として、 NORTHUMBERLAND(ペンシルバニア州)の古い扇形庫の中で歴史的機関車群が戦後まで大切に保存されており、その中の♯1223は時々、映画撮影ロケや記念行事に活躍する時期が続いていた。1965年になって、適当な蒸気機関車探しに苦労していたストラスバーグ鉄道に対して応援団を任じていた
PRRのトップは ♯1223を展示と実用走行の許可をストラスバーグ鉄道に与えたのだった。その使用に当っては、昔の動輪径を支線用に少し変更してあるとのことである他は原型をよく留めていると云う。その後の運転は順調で、1979ねんにペンシルバニア州立鉄道博物館に譲渡されたが運転は1990年までつづけられ、現在は博物館の新しい展示ホールで静態展示が見られるようだ。
この“アメリカン” タイプと呼ばれる動輪群の前に一軸の先導台車を設けて急カーブでも安定して走行できる新技術の発明を歴史的遺産として大切にしているのには理由がある。それは、PRRの前身に当たるフィラデルフィアとニューヨークを結ぶ鉄道として1834年に開通した Camden & Amboy Rail Roadがイギリスから蒸気機関車の元祖でもあるロケット号の子孫をを輸入して採用したのであったが、アメリカの状態の良くないレールの上では時々脱線して関係者をこまらせていた。それを打開する方法として初めて考え出されたもので、後に広まって、アメリカ型蒸気機関車の典型的スタイルとなったと云う由緒があるからであろう。
さて、この辺でストラスバーグ鉄道の生い立ちについて発表されている文献を元にして述べて見よう。アメリカで最も成功している保存鉄道であると云われるストラスバーグ鉄道も、その成立には苦難の歴史があると云う。
先ず、おなじみの話題だが、1700年代の中頃からは西部開拓へのひとびとの移動が盛んになり、大西洋岸に開けた港町のある植民地から発展したそれぞれの州では険しいアパラチヤン山脈を越えて中西部へ通ずる経済的ルートの確立を競っていた。北のニューヨーク州はエリー運河の開削で五大湖へのルート確保を目指し、南のメリーランド州では陸軍工兵隊の援助を得て馬車軌道の建設でオハイオ河畔をめざし、当のペンシルバニア州では、運河を主体に、峠部分だけはインクラインと呼ばれるケーブルカーに分割した運河ボートを載せて山越えする方法を採用することになった。これは1834年に完成する「ペンシルバニア メインライン」となるもので、州都の港町フイラデルフィアと内陸のオハイオ河上流のピッバーグの間を結ぶルートであった。その起点のフィラデルフィアと運河の東ターミナルであるSusquehanna River(サスケハンナ河)に面した Columbia との間の80マイルはPhiladelphia & Columbia Railroad (P & C)と云う馬車軌道の建設が1829年に始められ、1834年に開通した。やがて1836年になると、負安全な木製のレールをイギリスから輸入された鉄レールに置き換える一方、馬車に替わって強力な蒸気機関車が登場するに至ってメインライン形が整って来たと云う頃の時代となる。このルートは海岸から運河の起点までは高低差800フィートほどあり、低い丘陵地帯を横断しており、その途中にランカスターの町や、ストラスバーグ鉄道の起点となるハラダイスを経由していたのであった。
アメリカの鉄道の黎明(れいめい)期の1930年代の初めの頃、アメリカ各地で鉄道が建設されはじめようとしていた。このルートはフィラデルフィアからランカスターを経て、ペンシルバニア州を東西に横断して流れるサスケハンナ河畔のコロンビアに至る鉄道の建設が急ピッチで進められていたのである。ストラスバーグの街はこの鉄道から,4 マイル程離れてしまった.町の人々は早速この鉄道に連絡する馬車軌道をパラダイスまで作ることに決まり,1883年アメリカで初めてのショートラインが誕生した.もちろんレイルは木であった.1851年に鉄のレイルに替り,馬の代りに蒸機が登場した.記録が失われているためどんな機関車が登場したのかは明らかではない。それから下って、1926年にはガソリンエンジンの機関車が入り,貨物と旅客の連絡に忙しかったのである.当時アメリカの地方の交通や街中には,トロリー電車が全盛でランカスターストラスバーグ間にも開通した.しかし自動車と道路の発達により長続きせず,鉄道も赤字を重ねていた.1957年にハリケーンに襲われて道床は流され,大木は線路に倒れ土砂崩れで運転出来なくなってしまった。鉄道の所有者はこの鉄道の終点に穀物製粉場を経営する人であったが、修理をするには余りにも費用が掛るので廃止の申請を当局に出したのであった。受理されればスクラップになるしか他に道はないのであった。
所が、1957年3月19日の地方新聞に、「自分の鉄道を買うのは今がチャンスだ」の大見出しが出て,鉄道ファンや郷土歴史家を沸かせたことが,ストラスバーグ鉄道の第二の誕生の契機となった。
多くの人が応募し、トロリーの保存鉄道のためにレールを外そうとか、遊園地の鉄道にとしようとか、 様々であったが、買値(かいね)はスクラップ値より安かった。
その時、ランカスターの工場経営者である HENRYLONG さんは、この鉄道を昔のまま残して保存したいと考え、地元の人々にキャンペーンを行ない、鉄道の株を買収しようとしたのである。この時は50株で450ドルでしかなかったという。しかし、所有者の不幸があって、遺産として管理されることになってしまった。キャンペーンは尚続けられていたので、当局もその廃止新制の行方を決め兼ねていたのだった。
人々の声が次第に大きくなり、弁護士や鉄道当局の援助もあって、ペンシルバニア鉄道(PRR)の副社長が社長になり、出資グループ24人が副社長となって18,000ドルで買収することになって、スクラップから逃れることが出来たのである。何と1マイルの線路に重役が五人と云うことになったのである。
当時のPRRはニューヨーク〜シカゴ間の大陸横断の幹線がパラダイスを通過しており、州都ハリスバーグまではアメリカで最長の電化区間を誇る大鉄道であった。まもなく、修復作業が始められ,1958年の11月には鉄道用資材を満載した貨車がパラダイスに到着し、早速1926年に購入したガソリン内燃機関車が草に覆われた線路をスリップしながらストラスバーグに運び上げたのである。しかし開業するには、この古い機関車を修理する必要があった。そこで、PRRからエンジン付きのモーターカーを譲り受けた上で、機関車は近くのREADING機関車工場に修理を依頼することができた。また、その工場の脇に放置されていた古い客車を譲り受けることが出来た。1958年12月30日に、近隣の牧場の人々を招いて、整備の終わったガソリン内燃機関車が牽く処女列車の運航となったのだが、とんだ珍事か起きたと云う。踏切のところに来た時にブレーキを掛けた所、招待客は椅子から床にたたきつけられてしまった。椅子が床にボルト止めしてなかったのである。それ以来と云うものは、PRRの専門家から教育を受けて、安全とメンテナンスを第一とする社風が生れたと伝えられている。
そして、初年度の乗客数は 8000人を越える大成功となり、次の1959年の末にはガソリンエンジンの内燃機関車では来訪する旅客を運びきれなくなって来たので、新しい蒸気機関車を探していたのだった。副社長の1人がカナダを旅行した時、オンタリオ州のCNR(カナダ国鉄)のヤードでスクラップを待つ蒸気機関車を見つけ、1960年にこれを譲り受けた。これが♯31の 0-6-0の車軸配置の入れ替え機であって、BLW(ボールドウイン機関車会社):、1908年製の古強者(ふるつわもの)であった。ストラスバーグ鉄道の人々は
READING 機関車工場の人々から運転やメンテナンスを教えてもらう一方、当局もCNRの検査記録を確認した上でて運転OKが出たことから、1960年のサンクスキビングデー(秋の労働感謝の日)に1926年以来再び蒸気機関車が走ったのであった。そして
これにより年間60,000人の乗客が運ばれたのであったのは良かったが、軸重26 トンもあった上に、先導輪がなかったことから、この蒸気機関車の運航によるレールの軌間が広がったり、道床や枕木をきしませてしまったのであった。その頃丁度、PRR鉄道がストライキ中だったので、線路保守の人々の援助をいただいて軌道保守の教育をしてもらい、レールのジョイントの締め直しや、軌間の修正などをすることができたと云うエピソードがある。
1977年ともなると乗客数は375,000人に達っした。それには蒸気機関車の増備と、中間駅を設けて、同時に 2列車の運転を可能にした成果であった。1970年代に既にアメリカで最も成功している保存鉄道との名が高くなった。それには単に地の利が良いというだけでなく、PRRやReading鉄道などの多方面にわたる援助によって鉄道運営の基本が築かれているからであり、例えば機関車などの車輌のメンテナンスについては東部で活動する保存鉄道の頼りとナルホドの充実振りを示していることからもよく理解できた。さすがは「アメリカの鉄道の都」の面目躍如(めんもくやくじょ)と云うところか。
一方、1832年の創立とすれば、アメリカ最古の公共鉄道として1977年に150年祭を祝ったメリーランド州のボルチモアからオハイオ河畔を目指した ボルチモア アンド オハイオ (B&O)鉄道に続く先駆者の一人と云えるだろう。そして最古のショートライン鉄道であることは間違いないようだ。
全く鉄道に素人の人々が懸命に育てた鉄道が立派に成長したのも、このペンシルバニア州が常に鉄道発展の主導的な役割を大いに果して来た風土に関係あると思われる。
さて、最後に私の訪ねた時点でのストラスバーグ鉄道の蒸気機関車たちについてのべておこう。先のページでは♯90を、このページの先頭では♯1223についてふれたが、これらに混じって主役を務めている♯98は 2-6-0 のMOUGAL(モーガル) タイプの支線用の貨客用としてCNRがカナデアン機関車会社で1910年に製造したものである。
ストラスバーグ鉄道では1972年に当時バーモント州に拠点を置いていた世界最大の蒸気機関車コレクションと称された「スチーム タウン USA」のグリーン マウンテン鉄道から譲り受けたものである。そして、この蒸機は1972年7月にバーモント州のBELLOWS FALLS から遠路自力で回送する途中で、大雨で水没すると云う数奇な運命に見舞われたことでゆうめいである。
最後にホームの外れに誇らしげに展示されている Strasburg ♯ 4 0-4-0 のキャメルバック式蒸気機関車の登場である。この機関車の素性は、
Philadelphia & Reading (P & R)鉄道のclass A4b、♯1187 が本名なのである。製造はBALDWINの前身である
「BURNHAM WILLIAMS CO」の1905年である。
ペンシルバニア州内の製鉄所の構内機関車として使用されていたものを1963年に購入した。現在はペンシルバニア州立鉄道博物館の蒐蔵品(リスト番号 1903)の1つであり、ストラスバーグ鉄道によって貸し出されている形にあるようだ。
現在アメリカに三輛のみ現存するキャメルバック式蒸気機関車の内の一輛であり、唯一の動態保存機であり、最新の運転は5/25/1967であるとなっていた。
これは運転室がボイラ胴の上にあるため見通しが良く、充分なボイラー長や広くて高い、火室を採用することが出来る特徴かあり,燃焼の難しい無煙炭の屑を燃料とすることを目的に開発されたものであって、初期のアメリカに多く見られたタイプである。しかし重量が軽いため客車数が5 〜 7輛と増して来たので、展示されることが多いこの頃である。
キャメルバックの開発の背景などの詳細にについては〈74.DL&W鉄道のキャメルバッ.341(ニュージャージー州)〉を参照して下さい。
ここで取りあげた元PRRのアメリカン タイプ 4-4-0 のの♯1223、そして P & R鉄道の 0−4−0 のキャメルバック タイプ ♯1187 の二2輛については鉄道会社も機関車も共にペンシルバニア州を代表する鉄道史の二大ピークである。それは、PRRは州の威信をかけて大陸横断鉄道として育成した会社で「世界の鉄道の標準」と豪語するれべるの絶頂期を実現したのに対して、P & Rは豊富に産出したペンシルバニア無煙炭の輸送から操業し、自前の機関車工場をもって無尽蔵に捨てられていた屑無煙炭を蒸気機関車の燃料として使うことの出来る広い過湿を持つ方式の機関車を発明し鉄道会へ多大な貢献を致すと同時に、首都であったフィラデルフィアの近郊都市間を結ぶ鉄道としての役割を果たしてきており、ダウンタウンの一角に現存しているレーデング ターミナルの偉容は往時の隆盛を物語っている。
ここに掲げた2輛の蒸気機関車も鉄道史に残る貴重な承認として動態で保存されていることは意義が大きいと思うのである。
撮影:1979年
発表:「れいる」誌・1981年4月号
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「“Railroad Town USA” Strasburg を訪ねて」シリーズのリンク
123.Light Dcapod(十本足)の走るストラスバーグ鉄道
124.ペンシルバニア州立鉄道博物館素描
・「reading 鉄道の機関車」シリーズのリンク
22.アメリカ鉄道150年祭り記念列車発進(アメリカ・デトロイト)
23.リーデング鉄道の“ぶらつき男”・bQ012(アメリカ・B&鉄道博物館)
95.“アメリカン・フリーダム・トレィン”とB&O鉄道博物館(メリーランド州・ボルチモア)
・フィラデルフィア鉄道紀行のシリーズのリンク
125. Reading 鉄道 “Rocket” (フランクリン科学博物館
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