自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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(メールは上の
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にある送付先へドウゾ。)
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・“Railroad Town USA” Strasburg をたずねて(ペンシルバニア州)
123.
Light decapod (十本足)の走るストラスバーグ鉄道
〈0001:〉
〈0003〉
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〈紀行文〉
アメリカとの貿易摩擦回避のためにオートバイやクルマをアメリカ本土で製造することになり、その布石となる工場の建設の使命を帯びて1977年秋からミシガン州デトロイト市郊外に駐在して活動を始めた。その翌年の春ともなるとアメリカでの保存蒸気機関車の動向がおぼろげながら判ってきた。その頃最も成功した保存鉄道として評判の高い STRASBURG (ストラスバーグ)鉄道が晩春には運航を始めるとのことで遠路ペンシルバニア州の東南に遠征した。
先ずデトロイトから大西洋にあるPhiladelphia(フィラデルフィア)へ飛び、レンタカーで2時間ほど内陸の南西にドライブすることになる。この一帯は柔かい緑の田園地帯がひろがり、Pennsylvania Dutch Country(ペンシルバニア ダッチ 郡)とか、Amish Country(アーミッシュ郡)とも呼ばれるLancaster County(ランカスター郡)であった。それは、ドイツからの多くの移民たちにより早くから開かれた肥沃な酪農地帯であり、今も牧場やトウモロコシの畠や七面鳥の牧場などがゆるやかに起伏する丘陵地帯に散在している。それに、この地方には“アーミッシュ”と呼ばれるキリスト教の一派のコロニー(人口 約15,000人)があり、宗教上の理由で近代化を避けた生活を維持しており、黒ずくめの服装の人々の乗る馬車を見かけることも少なくない。彼らが元祖だと云われている最近人気の手芸「パッチワーク」だが、小さな布を継ぎ合わせて模様を創り出す手芸も、模様のある鮮やかに染めた布を使うことを避けた結果、模様のない渋い色だけの無地の小さな布を組合わせると云う生活の知恵から生まれたデザインがルーツだと云う。今では、その手芸のある生活振りを訪ねるツアーも許されているとか。また、郡都のLancaster(ランカスター)を中心とする、この辺りは歴史を保存しているちくでもあり、夏のバカンスを問わずいつも旅人で賑わっている土地柄であった。ランカスターの街道筋にはビジターず センターが開いており種々の案内に事欠かなかった。蛇足だが、このランカスターの町は、ニューヨーク〜フィラデルフィア〜ランカスター〜Harrisburg(ハーリスバーグ・州都)〜Pittsburgh(ピッバーグ)と結ぶ昔のペンシルバニア鉄道の(PRR)の幹線が通っており、毎日AMTRAK(アムトラック:アメリカ旅客輸送公社)の“Pennsylvanian”と名付けられた旅客列車が運航されており、フィラデルフィアから80マイルの旅で行くことも出来るのは楽しい。
このランカスターから僅か数マイルの近くに目指す“RAILROAD
TOWN USA”(アメリカ鉄道の町)を標榜するSTRASBURG(ストラスバーグ)があり、蒸気機関車の走るストラスバーグ鉄道とペンシルバニア州立鉄道博物館などの鉄道歴史遺産や、おもちゃの汽車博物館や鉄道模型の天国、赤い車掌車モーテルなどの多くの鉄道アトラクションが人々を魅了しているのだった。
このストラスバーグの街のメインストリートの741号は両側にオーク(アメリカ樫)の高い並木や古い教会堂のある古い街並を残しており、人口僅か2000人の田舎町だった。右手に製粉工場があり少しゆくとCHOO-CHOO
BARN(シュシュポッポの車庫の意味)という模型鉄道の館がある
踏切を渡ると右手にペンシルバニア州立鉄道博物館,左手がストラスバーグ鉄道のEASTBURG駅とその車輌基地がひかえていた。その周辺は広々とした牧場や畠が広がり,非常に緻密に耕された農業地帯である。この駅の建物はここから20マイルも離れた所に残っていたREADING鉄道のランカスター支線の駅を移築保存したもので、堅いオーク材で作られた建物はビクトリア調の色彩デザインデ1882年の設計を復元しているとのことだった。発車まで時間が取れたので基地を一回りしよう。
駅と木材を敷き詰めたプラットホームの奥の方には、赤練瓦造りの機関個があり、木製の給水タンク塔が見えたが、ターンテーブルと石炭積み込みデッキは見あたらなかった。皮肉なことに、この鉄道の唯一の貨物の顧客であり、しかもこの鉄道の元オーナーであった製粉工場の仕事として石炭をダンプカーから機関車のテンダーにに積み替える作業をやっていたのを見て納得したのだった。
既に列車がホームに入り、本日の牽引を担当する♯90の“DECAPOD(でかぽっと)”が逆向きに展望車の前に連結して出発準備に余念がなかった。所で、このムード溢れるセヒア色の写真は、「レイル」誌の編集をしていた大先輩の故 黒岩保美さんが大変喜んでくれて、セヒア色刷りにしてフロント ページにつかってくれたもので、展望車のドアーの楕円形の窓は丸で阪急の古典電車を思い出させるムードであった。
それにしても、どうしたことか、ストラスバーグ駅からPRR幹線との接続点で終点でもあるパラダイス駅行きは逆向き運転のようで、どうも線路の勾配の関係からであることが判ったのは乗ってからであった。
ともかく、ここで小鉄道には似合わないほどの強力機 ♯90の来歴を披露しておこう。
この♯90は軸配置 2-10-0 の強力な貨物機で、コロラド州でびーと(砂糖大根)輸送鉄道である Geat Western
(gw)鉄道で活躍していた。そしてDL化した後も大切に保管されてきたが、1968年に長い交渉の末にやっとのことでストラスバーグ鉄道へ譲渡された。この蒸機は世界一次大戦中にドイツと戦う帝政ロシアを援助するために、アメリカの蒸機製造会社は多くの 2-10-0の軸配置の“russian DECAPOD”(DECAPODはいかなどの10本足を持つ者の意味)を作って送り出した。それは、軽軸重の車ではあるが長大列車を牽くことの出来ることを目的にした設計であった。その後、1924年頃にアメリカ国内でも、このような蒸機の要求かあり、BALDWIN社か“LIGHT DECAPOD”として22輛作ったものの第二番目に当るのがGW ♯90なのであった。そして、コロラドで使用されている時に低カロリーのワイオミング炭を使用するため煙室を延長してあることもあいまって、直径56吋の動輪と、212,000ポンドの自重の生み出す性能は STRASBURG鉄道の最強機となっているのであった。このストラスバーグの♯90の同僚がもう一輛現存しており、それはイリノイ鉄道博物館(シカゴ北方のユニオン市)で夏のシーズンに火が入り走っているのは嬉しい。(♯1630、BL W1918年製)
さて、駅へ戻って、いかめしい出札口で切符を買ってから、お待ちかねの“PAR ADISE(楽園)行き”の黄色に塗った木造客車に乗りこんだ。
ストラスバーグの標高480フィートを出発して、僅か10フイート登ってからは下り一方で約88フィート低い終点のパラダイスに到着と云う片勾配の路線だったのであった。走行写真は往路がねらい目のことを頭に入れて地形を眺めた。
右手に赤色の車掌車を使ったモーテルとレストラン,TOY-TRAIN博物館が見えたが、ここは、年一回鉄道コレクションの競売会が催されるとのことだった。
左手は谷をへだてて牧場が拡がり、サイロのある農家か散在し,左手には七面鳥牧場を見ながら切り通しを軽快に下り cherry-hill(桜ヶ丘)を通り過ぎ、やがて左手は小高い丘
となり、ピクニック場も設けられているた唯一の交換駅 Grofps Grove である。夏の多客期には頻繁運転のため、この駅での列車交換が見られる。ストラスブバーグへ戻る列車は出発すると駅外れの踏切を助手の先導で渡るのだが、右手の高い丘には、このランカスター郡で最も古い墓地が広がっていて合図の警笛が遠くの丘にこだましてはね返ってくる。
このあたりの地形が最も険しくカーブと15パーミルの勾配ではをレールをきしませながら深い林を抜ければ終点は近い。
やがて右手に清らかな流れの河辺をかすめてレモンプレイス ジャンクションと呼ばれるパラダイスに到着する。
ここは CONRAIL (
Consolidated railroad :CR、:連合鉄道)のフィラデルフィア〜ピッツバーグを結ぶ幹線ルートが通っており、この路線こそ昔の「世界の鉄道の標準」と豪語したPRRのニューヨーク〜シカゴの大陸横断ルートであり、ニューヨーク〜ハーリスバーグ間(256 マイル、
412 km)はアメリカ最長の電化区間を誇っていた路線である。このCR(コンレール鉄道)は東部の破産鉄道、PC(ペン セントラル)、エリー ラッカワナ、リーハイバレーなどを糾合して連邦の資金援助の下で再建した大鉄道網であって、シカゴ以東の14州に20983マイルに及ぶ貨物輸送の鉄道会社であり、往時のPRRとNYC(ニューヨーク セントラル)が合併して出来たPC(ペン セントラル)もこの傘下に加わっているのだった。従って、AMTRAKの旅客列車はCRの路線を借りて旅客列車を運行させているのであった。
この終点 パラダイスで停車中に、側線を通って蒸気機関車の付け替えをしている時に、余程の幸運に恵まれれば電化された幹線を走るAMTRAKのELの牽く旅客やCRの貨物列車を見ることができよう。暫時の休憩ののちに、登り勾配の続く帰路につく。
南側は低く傾斜している牧場やトウモロコシ畠が続いているから立ち入るには許可してもらう必要があり、他人の敷地内への立ち入りはとても厳しい土地柄であることは、日本人の常識を越えているとのことだった。比較的列車回数が多いのでまずロケハンに精を出すことに尽きるだろう。その成果は次のページをご覧あれ。
撮影:1979年
発表:「れいる」誌・1981年4月号
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・「“Railroad Town USA”
Strasburg を訪ねて(ペンシルバニア州)」シリーズのリンク
127.ストラスバーグ鉄道の「アメリカん」と「キャメルバック」
124.ペンシルバニア州立鉄道博物館素描