自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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  ・鉄鉱石鉄道 Lake Superior & Ishpeming RRのsSLたち・♯23
  111. 北辺のマーケット & ヒューロン マウンテン鉄道 (ミシガン州)

〈M&HMの朝の列車、客車の色は森の中の湖の色、椅子の赤が印象的。〉
M&HM鉄道の

〈五大湖の地図〉
五大湖地図(マーケット

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〈紀行文〉
 やがて、帰国の迫った1979年の8月にデトロイトへ出張する機会が巡って来たのを幸いに、頭の隅に残っていた記憶に従って、ミシガン州北辺の鉄鉱石運搬鉄道 LS&I鉄道の在りし日の姿を留める マーケット・アンド・ヒューロン マウンテン鉄道(Marquette & Huron MMountain :m&HM)を訪ねる北辺への長いドライブに出かけた。デトロイトからはフロリダ街道との別名のあるインターステーツ・ハイウェー I-75号を北上することにした。パカンスシーズンの夏の夕暮れの中をモーターボートやバイクなどを積んだ車を牽いたピックアップやキャンピングカーが森と湖の自然豊かな北の大地を目指して北上する流れが続いており、私もその中に混じって4時間余り走った。夏時間のほの明るい夜もとっぷりと暮れて、長い上り坂を不思議に思っていると巨大な吊り橋の灯が見えはじめて、やっとミシガン湖とヒューロン湖の間の狭い水道を渡るのだと気がついた。
 ここで五大湖地方の地理を説明しておこう。この旅のスタートとなった自動車の都 デトロイトの所在するミシガン州のニックネームは「Great Lakes State 五大湖の州 」なのはクルマのcvレートにも書かれていた。この州は湖に囲まれた上下二つの半島(ペニンスラ)に分かれており、先ずデトロイトや州都 ランシングがあるアンダー・ステートで、西は「なす」形をしたミシガン湖、北東はヒューロン湖、東はエリー湖に面している。もう一つは目指すマーケット(marquette,Mich.)の所在するアッパー・ステートで、西をみしがん湖、北をスペリオル湖、南東をヒューロン湖に囲まれた半島で、単に「ペニンスラ」とも呼ばれる北辺の地である。
 この1958年に完成した吊り橋の手前のはマキノウと呼ばれる地点は、16世紀頃から大西洋岸のセントローレンス河を遡って来た探検隊や、インデアンとの交易商人たちの基地であり、フランス軍の砦痕は歴史博物館となり、付近一帯は橋下公園となっていて人々のざわめきが伝わって来ていた。
吊り橋を渡るとハイウエーは終点であった。その先は昔ながらの街道筋を一般国道としているようで、湖岸に沿った道にはモーテルやレストランが散在しているが、間もなく黒々とした先の鋭った針葉樹林の蔭が道の片側を、そして湖面に月明りが映えるという印象的風景がしばらく続いた。やがてそれ程高低差のない半島の横断にとりかかったが、時々森林開発時代に開けた村落の交差点の黄色の点滅信号が淋しい風情を見せて通りすぎてゆく。気がつくと左手に鉄道がより添うように走り、20マイルも直線が続き、さすがに深夜、前後に光のない街道をひた走るのである。午前2時、右手にスペリオル湖が見えたと同時にマーケットに到着.数台の車が仮眠している所に仲間入りしたのであった。
眠りからさめたので、裏手の小高い公園に登ると薄い朝もやの中に広々としたスペリオル湖が拡がり、左手には古風堂々とした巨大な丸太で組み立てられた鉱石桟橋が黒々と湖面に黒い影を落として居たのにはギョットさせられた。これはマーケットの象徴である1931年建造の“SOO
LINE ORE DOCK”であることが後から判った。この丘の上にはマーケット神父の像が遠く北方のスペリオル湖を見つめた姿で建てられていた。この方は1672年から二年もの間、この地に留まってスペリオル湖の地図を完成したことで知られるフランスからのカトリック伝導僧であり、マーケットの創始者としてそんけいされ、1850年にはこの街の名に神父の名を冠することになったのであった。
そこで早速M&HM鉄道の基地へむかうことにして、マーケットの市街の広がる丘をぬけると、ノーザン・ミシガン工業大学の広いキャンパス脇をとおって湖岸の砂浜に出ることが出来た。左手には高煙突を備えた火力発電所の貯炭の山があり、その先には湖面に付きだしたコンクリート製の鉱石桟橋(dock)へ通じる高い築堤が姿を現した。その架橋の下を通り抜けると左手に広い駐車場のある Presque Isle(島)駅のこじんまりした駅舎が現れて、♯23のコンソリデーションが出発を待っていたのであった。この先は岬となっており灯台のある美しい芝生と緑濃い林に囲まれた公園となっており、マリーナもあって、憩いを求める人々の訪れを待っているようであった。
既に駅まえには十数台のクルマが来ており、連結された食堂車?の中では名物の“LAMBER JACK BREAKFIRST(木こり風朝食)の最中の様子が伺えた。そこで、朝食付の切符を購入、早速仲間に入れてもらう。鋳鉄製の旧式な石炭焚きのレンジの鉄板の上ではパンケーキ、スクランブルエッグ、カントリー ソーセージが良い香りを放っている。ボランティアであろうか、女子大生がウエイトレス、ミルクに大きなコーヒーカップと云う粗野な朝食の最中に、気笛一声、ガタンと出発となった。
隣は現役の鉄鉱石輸送のレーク スペリオル・アンド・いしゅぺみんぐ鉄道(Lake Superior & Ishpeming Railroad:LS&I)の入れ替えヤードがひっそりとしており、そこへ通じる踏切を渡ると、森林の中に走り込んで行くのであった。市内のガソリンスタンドで入手した地図を見ても線路に平行する道路は全くなく、泥まみれの林道らしき踏切が三ヶ所あっただけで、全く自然の原野に戻ってしまった地域である。昔はヒューロン山の斜面一杯を覆い尽くしていたの原始林を伐採して、木炭製造の原料として運び出すための証がこの路線なのであろう。
約7.2マイルを40分くらいで走ると、“Hallow lake"と呼ばれる終点についた。むかしの森林伐採キャンプの湖岸であったようだった。乗客たちは湖の渚まで降りて、何一つ無い自然の湖畔で深呼吸をするやら、大声を出してみたりするだけである。
乗客たちは15分位休憩の後、再び列車に乗り込むとはっしゃ、少し先の側線にて機関車のつけ替えを見たのち駅に戻るのであった。
所で、このM&HM鉄道は鉄鉱石輸送のLS&I鉄道を引退した人達の発起によって蒸機機関車で牽引するツーリスト列車(Tourist-train)を走らせて往時のLS&I鉄道の蒸気時代を復元しようとする構想が打出され、地元の各方面の協力と大勢のボランテア メンバーーを得て1962年12月1日に創立に漕ぎ着けた。そして、路線は森林開発用の支線で、マーケットからスペリオル湖岸の小さな港町であるビッグ ベイ(Big Bay, Mich.)までの27マイルと、引退した蒸機機関車7輌と客車などを譲り受けて活動を始めたのであった。
そこで親会社とも云うべきLS&I鉄道の話題に入るには、どうしても鉄鉱石の発見からの150年にわたる歴史を語らねばなるまい。
 後にアメリカ最大のスペリオル鉄鋼床となる鉄鉱石の発見は1844年9月19日のことで、マーケット西方15マイルの低い山間での出来事であった。それは連邦政府の委託で当地の地理調査隊を率いていた WA.Burtの持っていた磁針が狂ったことから、地表近くに大きな鉄鉱石の存在が判ったのだと伝えられている。このニュースが伝わると、次の年には早くもミシガン州のジャクソンから企業家がやってきて、インデアンに案内してもらって鉄鉱石発見地に到達した。彼らは当時の製鉄法であった木炭製鉄を始めるために近くの豊かな原始林を伐採して木炭を製造する一方、近くの河の流れを利用した水車動力によるフィゴを動かして製鉄炉を運転することに成功した。作られた銑鉄はハンマーで打たれ鉄条に作られ、ロバの背に、そして小船を乗り継いで遠く南の都会に出荷されて行った。このような旧式な製法にもかかわらず、鉄の品質の優れていることの名声が高くなって来たので、次第に溶鉱炉の規模と数が増えて発展した。
そして1850年頃になると鉄鋼採掘、森林伐採と木炭製造、木炭製鉄、その輸送などの経済活動に従事する人々の暮らす街が次第に形作られて、1862年には「いしゅぺみんぐ(Ishpeming)」と云う奇妙な名前のコミュニテイがマーケットの西12マイルのあたりにできあがった。この地名は鉄道のLS&Iにも登場しており、これはインデアンたちの言葉で「高い土地」を意味していたのであった。それは、この町からさらに800フィートも高くて、大岩頭を頂いたMadji-Gesick (shining mountain:輝く山)と呼ばれる山が眺められ、ここはスペリオル湖とミシガン湖との分水嶺であったのだった。
しかし、この地は余りに遠い北辺のため、利益を生むことは難しかった上に、出荷した鉄の代金を得るにも時間と危険がともなうことなどの苦労が続けられた。やがて、東部では石炭コークスを用いる近代製鉄が芽生えるような時代を迎えようとしていた。それで、マーケットは鉄鉄条の出荷の他に鉄鉱石の積み出し港としての発展が始まった。そして、この地の鉄鉱石の品質が高く、しかも大量に埋蔵されていることに注目した企業家たちは政府の資金を得て、スペリオル湖からエリ湖に至る水運の確保に乗り出した。それは、この航路の途中を妨げているのがスペリオル湖面とヒューロン湖面の間の207ィートの平均標高差であって、そこをつなぐセント・マリー河は滝と急流であったからである。そこでこの部分に二つの閘門を持った運河を建設しようとしたのであった。このSaint Mary’s Falls Canal が完成して、1855年の夏、三本マストの帆船が132トンの鉄鉱石を積んで南へエリー湖岸のクリーブランドの製鉄所に向った。
この結果,砿石が直接全国の製鉄所に届けられるようになり,スペリオル鉄の名は世界中に知られるようになった。
その頃は専ら鉱石は鉱山から港の桟橋へはロバ軌道や双頭式のフェアリー蒸機機関車を使った軽便軌道が活躍していたが、船への積荷に1週間も要するような有様であった。しかし、1857年になると湖面に突出した高い鉱石桟橋を作り、貨車から落下させた鉱石が桟橋の脇のポケットの中に貯蔵させて、着岸した船に落下させて積み込むと云う発明により、輸送のスピードアップがなされた。
一方、陸続きのミネソタ州ののダルースから鉄道が到着したのは1880年代の終りの頃で、SOO LINE(スー鉄道)などがスペリオル湖岸を横断するようになり、鉱石の運送は、これらの鉄道により一手に行われるようになった。
1891年頃になると、数多くあった砿山は大部分CLEAVLAND-CLIFF鉄砿会社に支配されるようになり、砿石の運搬も自分で行なうような計画によって、レーク スペリオル・アンド・いしゅぺみんぐ鉄道(Lake Superior & Ishpeming Railway:LS&I)が創立され20マイルの線路を開通した。当時、未だ森林資源も豊富であって木炭製鉄用の木炭の製造もマーケットの大きな産業の一つであり、東部からの 鉄鉱石の輸送と森林開発のための M&MS(MarQUETTE &Munsing southern)が1901年に作られた。
1912年にはアッパー ハーバーにコンクリート製の巨大な桟橋が LS & I によって作られ、私の訪ねた1979年も稼動中であり、これまでに積み出した鉱石は400百万トンに達すると云う。
所で、最盛期のLS&Iの活動の姿は、先ず重連DLの牽引した100輌の鉱石ホッパー列車が鉱山から低い丘陵を越えてスペリオル湖岸のヤードにに到着する。直ちに注文に応じた貨車の仕分けの入れ替え作業が行われる。全長約1マイル弱に及ぶのヤードから高さ75フィートの桟橋へのアプローチは1.5%勾配の築堤と600フィートの鉄橋で構成されているのであった。
1924年両鉄道は合併して、LS & I RR になり,砿石桟橋の近くに扇型機関庫とメンテナンス工場が新設された。LS&Iは東の湖岸沿いにも森林開発用の支線を建設し、運材列車の他、旅客列車をビッグ ベイと云う小さな街との間に走らせていた。これが私の乗ったM&HM鉄道がツーリスト列車を運行しているルートなのであった。
LS&IのSLについての詳細はは次ページをどうぞ。
 さて、M&HMの列車の今日の運転が終わったので、マーケット散歩に出かけた。先ず鉱石石桟橋に登ろうと許可を求めたが,休日で責任者がおらず断られてしまった。仕方がなく雑草の茂る築堤をよじ登って、桟橋の上が見える所
まで近づくと、丁度ペレットホッパーを40輛ほど押し上げて来るデ
ィーゼル重連に出遭った。登り切ったホッパー車はペレットをー斉に桟橋の中に設けられたポケットに落下させる作業を始めた。その頃は折悪しく製鉄所が操短中とあって、ヤードも閑散としていた。秋も深くなると、ホッパーの中のペレットが凍りついて落下しにくくなるのを防ぐために蒸気が吹き込まれるので白ケムリがが湖面から吹き上げる風にあおられている情景が見られ、そのうちにスペリオル湖の結氷期の季節を迎え、ペレットは山元に貯蔵されて冬眠に入ることになると云う。
う.マーケットから僅かな距離なので,国道
そして国道41号に戻り、鉄鉱山で生れた双子都市のIshpeming(イシュペミン
グ)とNegaunee の町を訪ねて、鉄鉱石発見モニュメント、鉱山博物館を回るのも一案である。この付近は三つの鉄道線が入り乱れて走っているので、ペレット工場を背景に大型ディーゼル機を撮ることもできるが、線路の復雑さには泣かされる。
一方、帰途の途中にはマーケット市内で歴史博物館や今は使済みとなったSOO鉱石桟橋を望める丘に立寄るのも良いだろう。また国道沿いには、かの有名な1885年創立のミシガン州立マーケット刑務所(Marquette Branch Prison)の大きな売店が開いており、売店があり、精緻な細工を施した皮製品の直売をしていた。この刑務所はスペリオル湖畔に建てられており、この北方の遠隔の地で、厳重なMarquetteへ送られることは、“the Siberia of Michigan!”(ミシガンのシヘリヤ)と呼ばれて恐れられたというのだった。マルで網走刑務所を彷彿(ほうふつ)させる話ではないか。当然、森林伐採の重労働を強いられたのであろうか.
また、アッパー・ベニンス
ラの東端のセント・マリー運河のSOO LOCK を通過する鉱石運搬船を見るのも旅のフィナーレとしてふさわしい。
撮影:1979
発表:「レイル」誌 1982(昭和57)年春の号

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・「鉄鉱石鉄道 Lake Superior & Ishpeming RRのSLをたずねて」キリーズのリンク
110.LS&I ♯33:ホッキング バレー観光鉄道を訪ねて(オハイオ州)
112.LS&I ♯35:装備されたテンダー・ブースター(ミシガン州)