自動車塗装の自分史 とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のHP
SL蒸気機関車写真展〜アメリカ & 日本現役

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   LS&I ♯33:鉄鉱石鉄道Lake Superior & Ishpeming RR
 110. ホッキング バレー観光鉄道(HVS)を訪ねて(オハイオ州)


ネルソンビルの♯3


ネルソンビル元 LS&I ♯3


 1978年初からアメリカ中西部のデトロイトに滞在して工場建設のエンジニアリングを進めていた私たちは時々、インターステーツ・ハイウェイ I75号を4時間余りドライブして、隣のオハイオ州のコロンバス近郊にある工場建設現場に出かけていた。その帰途の際に、州境を越えてデトロイトのあるミシガン州に入って直ぐの所に、「ミシガン州ツーリスト案内所」の大きな看板が眼にはいった。そこでは、州のロードマップや数多くの観光地やアトラクションの案内パンフレットをプレゼントしてくれていたのであった。そこで眼に止まったのは、全くの地味な黒刷りのSLの発車風景を表紙にした保存鉄道への案内パンフレットであった。それはミシガン州の最北辺のスペリオル湖に面したアッパー・ペニンスラ(上部半島)と呼ばれる「さいはて」の地で運転しているマーケット・アンド・ヒューロン マウンテン鉄道(Marquette & Huron Mountain RR.)と名乗る新米の保存鉄道だった。さすがに北方の冷涼な地なのであろうか、運転は夏の3ヶ月だけであったが、珍しくも8月中は毎朝、9:30発と云う早朝に「木こり風ブレックファースト」付きのツーリスト列車を運転すると云うのがが売り物であった。それに、これがアメリカ五大湖鉄鉱ベルトでの鉱石輸送鉄道の蒸気機関車時代を再現している保存鉄道であることが私の記憶の片隅に強く印象図けられたようであった。
その年の秋にはデトロイトを引き上げて、コロンバス郊外に拠点を移して活動することになった。この町は州都でもあり、州立大学、シンクタンクのバッテル研究所などがあり大都市圏の人口は170万人を超えると云う大都会であった。早速鉄道模型店を探して近くの鉄道インタレストの所在を尋ねた所、このコロンバスにはオハイオ・レールロード・クラブと云う伝統ある鉄道趣味団体があるとのことであった。そこでは実践の場として、1971年コロンバス市にコロンバス・ホッキングバレー鉄道クラブが結成され、州などの多くの支援を得手チサピーク・アンド・オハイオ(C&o)鉄道の元石炭鉱山への支線と隣のミシガン州北辺の鉄鉱石鉄道である レーク スペリオル・アンド・いしゅぺみんぐ鉄道(Lake Superior & Ishpeming Railroad:LS&I)から ♯33 コンソリデーションを譲り受けて、1972年からはホッキング・バレー・観光鉄道(Hocking valley scenic Railroad)として、ボランティア活動を中心としたツーリスト列車の運転が開始さレているとのことであった。

 そこで晩秋の一日、コロンバスから国道US33号を南下して、オハイオ集南部の低い丘陵地帯の峠を越えると、快適だった四車線のフリーウェーは尽きて、昔ながらの二車線の国道となった道はホッキング河の南流する広い谷間に入り込んで、約50マイルほど走り続けた。やがて使われていない踏切を渡ると目指すネルソンビル(nelsonville,OHIO)の古い赤色の煉瓦鋪装の街に入った。
このホッキング河の名前はインデアンノ言葉で「瓶のかたち」を意味しているようで、ネルソンビルから少し下流は狭い谷となっていることから名付けられたのであろうか、この源流は標高1050フィートの山地で、西南に流下して穏やかな流れに沿ってLancaster, Logan, Nelsonville, Athens and Coolvilleの各都市をはぐくみながら95マイルを南下してU字谷を経てオハイオ河に合流している水量の豊かな大河である。西部開拓の初期にはミシシッピ河を遡って来た人々は大支流のオハイオ河からこの谷に入り込んでオハイオの大平原を目指したトレイル(踏ミあと)であるのだと云う。
この谷の中流地域では厚さが4.5mもある石炭層が発見され、鉄鉱石と豊かな森林資源からの木炭を使った製鉄、粘土による煉瓦、岩塩など鉱工業が盛んになっていた。その中心としてのネルソンビルは一度は石炭王国と云われた繁栄を誇った。今では自然の豊かな森林と河面のあるリクリエーション地域として賑やかさを取り戻しつつある。
時間が早かったので機関庫を伺って見ようと、市街の中程で川岸に向かって右折すると線路があって、その昔は線路の手前には立派な駅舎が、そして側線が数本敷かれていると云う風景がパンフレットの表紙の写真からしのばれるのだが、現実は二本の線路があるだけで、手前の線からはは炭鉱山へ向かう支線が分岐しており、残る一方の線路は南へ向かう本線のようで、近くにホッキング河を渡る黒いガーターが見え隠れしていた。
その支線の途中の森に囲まれた所に機関庫と客車の留置する基地があり、♯33は既に蒸気が上がっていた。そこで立ち働くボランテアーの青年と立ち話していると、ホンダの人なら、軸受けのバビットメタルの熔解と鋳造を手伝ってくれないかと云って来たのだった。「塗装なら専門だからお手伝いしますよ」と答えると残念がっていたのが頭の隅に今でも沈積している。ところで、この♯33んのSLはこの文頭に書いたミシガン州の北辺の保存鉄道M&HM鉄道で活躍する♯23と同僚の元LS&Iのコンソリデーションであることがパンフレットで知ったのだった。ほの機関車の特徴であるテンダーのフロント台車にブースター・エンジンが装備されていたのだったが、当地に来てから取り外したとのことであった。看板に書いてある諸元は下記のようであった。

HVS RR ♯33
元 LS&I RR ♯33、クラス:SC−1
製造: Baldwin Locomotive Company(1916)、43108.
車軸配置:2-8-0
動輪直径:57in
シリッダ:26x30in
ボイラー圧力:185psi
牽引力:60,484  lbs
重量:392,000  lbs
燃料:石炭

 やがて、オープンデッキノ無蓋車と車掌車をつないだ列車の編成を済ました♯33は街の南外れの国道沿いに石炭鉱山への支線を鐘を鳴らしながらゆっくりと仮停車場に向かって発車して行った。そこは濃い森に囲まれた空間がホッキング・バレー観光鉄道の発車地点であった。一時間くらい前になると、売店を兼ねた古めかしい駅舎では切符の発売も始められ、ツーリストの来訪を待っている。終末は午後に発車する三本の列車を待つ人々で次第に賑やかになってきて、♯33もポートレートの役者として人気が高いのも背の高いコンソリデーションだからであろうか。日本の9600型に似ているようにも見えた。
ここを出発すると国道を踏みきりで横断して墓地の脇の勾配を登って緩やかな谷を二度くらい超えると昔の石炭鉱山の広場に到着、しばらく休憩の後、推進で帰途につくと云うものである。
ここには何もないが、豊かな歴史が残っているのみである。ひその不幸な歴史の一つは1884年に発生した炭砿の火災は長い間の消火活動にもかかわらず鎮火出来ず,今も森林に覆われた谷間に淡い青い煙がただよっていると云うのだ。また、良質な炭質のため多くの炭坑が栄えた頃、アメリカの石炭労働組合が最初に成立したことでも有名であったが、この災害やガス爆発などで閉山せざるを得なくなり、この谷も次第に寂れてしまった。自然の他には何もない所で、雑木林に掩われた低い丘陵が続くが、石油の産出が見込まれているようで、採油ポンプの大きな梃子(てこ)が上下している姿が眺められた。
その後、帰国の迫った1982年の初夏に再訪してみると、煉瓦で鋪装された市街路は昔の栄華のほどを偲ばせるままであったが、肝心のHVS RR.はHVS RWY.に替わっており、出発点は昔の駅のあった辺りに新しい小さな駅舎が完成し、走行する区間は炭坑支線から本線上に変更されていたのであった。この出発点の周囲には森が無いのでホッキング河の対岸からは古めかしい市街を背景に発車風景が眺められた。勿論、車輌は昔のままであったので一安心であった。
初夏の一日、まだ運転開始間もないメイラインの旅を楽しんだ。ボランティアを 6年も続けている売店の女性の話では、新ルートの決定が遅れたので、今年は訪問客が少なく寂しい夏であったが、来年は必ず従来のようになるよう頑張りたいなどと話していた。出発すると、昔の石炭積み込みガードの下を通ると、二トラックの鉄橋がホッキング河に架けられており、その先はホッキング技術大学のキャンパスで、校舎やグランド、製材実習工場などの散在する芝生の中をゆっくりと通り抜ける。やがて左手にせまる低い雑木林の中を20分走ると終点である。このあたりは自然リクリエーション地域としての開発が約束されている。そのまま逆推進で元に戻ると云う1時間10分の旅であった。
 1985年には♯33は三五年間の長いお務めに終止符をを打って、オハイオ・セントラル鉄道(OCR)へ譲渡されて、総統に痛んでいる体のリハビリを受けて再起するはずであると云う。
それに替わって、ツーリスト列車は44トンのデーゼル機関車によって運行がつづけらレている。
 さてここでパンフレットに記載されているこの谷の鉄道の歴史をを述べておこう。
先ず、このホッキング谷筋には全長56マイルのホッキング運河がエリー湖岸のクリーブランドからオハイオ河畔のシンシナティを南北に結ぶオハイオ運河の支線として1843年に開通しており、その沿線には南から Athens、Nelsonville、Loagan、Lancasterなどの町を通過しており、岩塩や石炭、木材、家具などの産物の輸送に貢献していた。しかし、下流のNelsonvilleからAthensに至る15マイルの急流区間での時速4マイルと云う低いスピードと、冬の凍結による休止などが岩塩鉱山のオーナーの不満をつのらせていた。それを解決するために Mineral Railroadを1864年に開通させることにせいこうし、更に北方への延伸を目指すことになった。コレに対して州都 コロンバス経済界でも鉄道を
HOCKING 谷に遡って敷設して効率の悪い運河に替わって産物のオハイオ中央部への輸送を目指して競合することになった。そして両者は合併して Columbus & Hocking Valley Railroad(C&HV)が1867年に創立され、Columbusからネルソンビル、炭坑への支線の建設をすすめた。順次延伸して、1869年に鉄道はネルソンビルからコロンバスに到達した。全長75.28マイルのコロンバス〜Athens間が開通したのは1870年のことであった。続いて炭坑への支線であるLoganからStraitsvilleまでは1870年末に、nelsonvilleからのMonday Creek支線は1880年には開通し、本格的炭坑開発が進められた。
更にコロンバス以北と五大湖に面したトレド方面へのルート延伸を進めていた。
これとは別に、オハイオ東部からローガンでホッキング谷を横断してシンシナティに至る ウエストバージニア・アンド・オハイオ鉄道(WV&O)が建設された。そして
最終的には1899年になって、これらの鉄道を吸収してホッキング・バレー鉄道(Hocking Valley Railway:HV)が成立した。コレによりホッキング谷の石炭に加えてウエストバージニア炭の五大湖方面への輸送のメインラインが出来上がり、最盛期には2−10−2のサンタフェ型やマレー式の大型蒸気機関車が大活躍していたのである。
そして、1910年頃からC&OとHVとの関係は密接となって来て、1914年にはC&Oの支配下に入った。コレによりC&O鉄道のケンタッキー炭輸送のメインラインはコロンバスからHVのルートに乗って五大湖へと直通することになった。1930年になるとC&OがHVを吸収合併し、コロンバス以南はHocking divisionとなった。その頃からアテネ支線は衰退が始まり、そして1972年にはローガン以南の路線は全て廃線となってしまった。
1972年に、コロンバスにあったオハイオ鉄道クラグの活動拠点としてホッキング バレー観光鉄道(hocking Valley scenic Railroad):HVS RR)が発足したのである。
このホッキング渓谷の石炭が最も活況を呈していたのは1920年代と云われ、hocking Valley RWY.の時代であった。しかしC&Oとの合併が進むにつれて、オハイオ州内で石炭輸送に使用されていたHV(ホッキング・バレー)鉄道の♯140、142、144の3輛がミシガン州のペニンスラにある鉄鉱石輸送のLS&I鉄道へ売却されて、それぞれが♯36〜38として大活躍することになった。このSLは1910年代のBLW(ボールドウイン)製の2−10−2のサンタフェ型の車軸配置で、牽引力74.435lbsを発揮した大型機で、LS&Iのデーゼル化けとなった1950年待て稼働し、1958年にスクラップとなってしまった。
それから30年後の1972年になって、今度は逆にLS&Iで役目を終えて保存中であった、テンダー・ブースターを装備したSC-1クラスの ♯33が、その昔HVのメインらいんを使用してツツーリスト列車を運行しようとして設立されたHVSRRへ譲渡されることになり、それからの安定した活躍振りは眼を見はらせるものがある。このような奇縁の裏にはどんな因縁があるのかと興味を抱いたのであった。
それには先ず、鉄鉱石を運搬するLS&I鉄道はオハイオ州のクリーブランドに本社を置くクリーブランド−クリフ社の子会社であったことが挙げられ、一方ではHVの成立にさいしてはクリーブランド経済界からの出資が功を奏したと云う事実も良く知られている。それに加えて、HVS RRの開設の原動力となったオハイオ・レイルロード・クラブを支援していた有力メンバーの中にはコロンバス財界の面々もさんかしていたことは、同じじオハイオ経済界のメンバー同志としての交流も何らかの縁をもたらしているのではと。このような数々の事柄が♯33の活躍の裏に潜んでいるのではと推量しているのであった。
それにしてもHVの走るホッキング バレーのルートを併走している国道うS33とシャープ33がゴロあわせとなっているのにも驚かされた。
そして再起した ♯33はテンダー・ブースターは外されてしまったが、美しく磨き上げられて35年間と云う長い期間を無事に走り続けたというのである。
ここで次のページでは、帰国直前に急遽、元 LS&IのSLたちを尋ねる旅をしたのでこうこくしたい。それはLS&I鉄道の廃線となったルートと車輌をつかって、しかもLS&Iを引退したベテランたちの手で運行されているツーリスト鉄道のM&HM鉄道への訪問記だからである。
撮影:1978年
発表:(レイル」誌 1982(昭和57)年春の号

・「鉄鉱石鉄道 Lake Superior & Ishpeming RRのSLをたずねて」キリーズのリンク
111.LS&I ♯23:マーケット & ヒューロン マウンテン鉄道・(ミシガン州)
112.LS&I ♯35:装備されたテンダー・ブースター(ミシガン州)