自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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102. 「樹氷を装った霧島山冬景色」 ・肥薩線/栗野〜大隅横川


〈0003:「樹氷の栗野岳」bQ177-6(「国鉄時代」第43号掲載の写真〉
肥薩線(吉松−栗野)、昭和44年12月30日撮影。


〈撮影メモ〉:昭和44年12月30撮影。
吉松駅を出て間もなく上り坂となり隅舟トンネル(延長668m)へ向かう築堤に差し掛かった築堤の下から仰ぐようにして広角でのアングルです。
「国鉄時代」の編集長のやましたかんのお話では、
『デフのバイパス弁点検孔にヒンジ付きの蓋があり、デフの周辺に白い縁取りがありますので、梅小路から転属した127号機と思われます。』
とありました。画像データの提供有難うございました。

〈0002:〉
エビノ盆地から鹿児島湾へ (肥薩・

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〈紀行文〉
 ふとした縁で南九州の宮崎県西南部に当たる「えびの盆地」の片隅にある優雅な名前の京町温泉で正月の2日間を過ごしていた。二日目は冬晴れの転向に恵まれたので霧島連山の冬景色を撮ろうと肥薩線に向かった。その昔、肥薩線の大畑ループの先にある大野大築堤まで歩いて撮影行をしたときに、景色は素晴らしいのだがSLを入れた背景となるとアングル探しがとても難しかったことを思い出した。そこで今回は高いところには登らずに「えびの盆地」の内で撮ることにした。
 そこで先ず吉松駅から嘉例川駅までの約25kmの山越えを乗り鉄で往復して沿線の地形を探ってから、クルマを乗り出すことにした。
この吉松駅は標高213mの高台にあって、主な市街は駅から坂を下って川内川(せんだいがわ)た500mほど東にあって、国道268号(水俣-宮崎)が栗野からえびの、小林を経て宮崎に通じている。駅を出ると左手に機関区があり、右手には県道102号(栗野停車場えびの線)が寄り添うようにつうじていた。少し登りになったと思うと隅舟トンネル(延長668m)に入って国見山地の名残の支脈の末端の下を抜ければ水田にかこまれた築堤を軽やかに下って行く。やがて、吉松の辺りから南流してきた川内川が西に向きを変えて有明湾へ向かおうとするところで、肥薩線は川内川橋梁を渡って山野線の起点でもある栗野駅に到着する。
その先は、南下に沿って、国見山地から霧島山脈とお結ぶ鞍部を横断して嘉例川までを往復して撮影ポイントを捜した。
 列車が栗野駅を出ると盆地は次第に狭まくなって、霧島山系から国見山地へ繋がる緩やかな鞍部に当たる王之山を越えて、しばらく下ると、右手からシラス台地を刻んで流れ下る天降川(あもりがわ、昔の金山川)の谷が現れ、やがて大隅横川駅のある街並みに入った。この川は国見岳(標高648m(の南麓を源に東流していたが横川付近で南に向きを変え、新川渓谷を下って、国分平野西部を南流し鹿児島湾(錦江湾)に注いでいる。大隅横川からは少し登って嘉例川トンネル(延長427m)を抜けると嘉例川までは最急25ハーミルの下りが続いている。
この道筋は栗野町から鹿児島県道55号(栗野加治木線)が通じていてロケハンには弁が良く、沿線には多くの明治中期に作られたレンガアーチ橋が見受けられた。
 戻ってから吉松-栗野間にある隅舟トンネルに向かって築堤を登る列車を樹氷を頂いた霧島山系の山々を背景に狙うことにした。まもなく、晴天の青空をバックに午後の陽光を浴びて白く輝く樹氷を装った栗野岳の山頂らしひ峰が視野に入ってきた。
 あの日本百名山に名を連ねているのは「霧島山」であるのだが、「霧島山」と云う固有の山はなく、地元でも個々の山を個々の名で呼んでおり、その主峰であれば韓国岳(からくにだけ、標高1,700m)を指すことになっており、この山は一説に、山頂の眺望が良く、晴れた日には遠く韓の国まで見渡せるほど高かったので韓国岳と名付けられたと云うのだ。今、ここから眺めている山容は霧島連山の西の端にそびえる栗野岳(標高 1,094m)であった。
その山は樹氷に輝いて申し分がないのだが、SLの疾走する背景として納めることのできるアングル探しに時間を費やしてしまった。それでも何とか広角レンズノ威力に頼って、かろうじて撮ったカラースライドが一枚が残っていた。この度は「霧島山を巡る三線 “肥薩・吉都・日豊”のシリーズのいちまいとして選んだ。
  ところで、この霧島連山は南東から北西にかけて直線上に、高千穂峰(1,574m・中岳(1,332m)・新燃岳(1,421m)・韓国岳(1,700m)・白鳥山(1,363m)・栗野岳(1,094m)などと連なっており、その延長上の盆地端には鉄道の町 吉松の町があり、その東を南流する川内川沿いには吉松温泉郷が散在していて、栗野岳への登山の拠点となっているようだ。この栗野岳が霧島連山の中でも その名が良く知られている理由が二つある。そのひとつは、この山が「えびの盆地」を誕生させる原因の一つの役目を果たしているからである。それは未だ霧島火山群が活動を始める前の約30万年前に、九州山地の中南部で加久藤火山が大噴火を起こして、膨大な量の火砕流や火山灰を周辺地域にまき散らした。その結果火山部分は大陥没して大カルデラ(凹地)をつくった。それに水がたまり、その後南側に古霧島火山群が活動を始め、その西端の栗野岳の噴出した溶岩流が水の出口を塞いでしまった。それにより大きな古加久藤湖と呼ばれる堰き止め(せきとめ)湖が生まれた。その後約5万年前から再び霧島連山を作る火山活動が起こり、その噴出物が湖を埋め始めたり、最終的には川内川となる湖口部の浸食が進んで湖水が排水されて広人とした盆地が生まれたのだというのである。その二つ目は鉄道にかかわる話題であって、私が訪ねた後の出来事だが、栗野岳の西南斜面の栗野高原に栗野岳リクリエーション村が開かれた。ここには栗野駅から分かれて水俣に通じていた山野線が1988年(昭和63年)に廃線となった際に、廃材となった約7千本の枕利を用いて作った「日本一の枕木階段」がある。それは往復 千段を軽く越える長さで尾根に向かって登っており、桜島が一望できる絶景が迎えてくれていると云う。
 さて栗野駅に戻ってみると、意外に広い貨物ヤードに気がついた。これは昔からの川内川沿いから出荷される貨物需要が元々あったことと、その後の川沿いの鉱物資源(金鉱石、陶土用粘土)や木材などの貨物輸送を経済的に行ないたいとする地元の養成に応えて1921年に山野(やまの)軽便線を開通させて賑わった名残なのであろう。私の訪ねた頃でも、C56牽引の貨物列車が栗野−薩摩大口間に一往復設けられていたのも、沿線にある日本一の産出量をを誇る菱刈金山や、伝統を誇る布計(ふけ)金山などが活動していたからだろうか。残念ながら、当日は正月のため運休であったのだった。
一方、コンクリート造りの駅舎に接する単式ホームの一番線は山野線用であって、肥薩線は島式ホームノ2,3番線であり、跨線橋が設けられていた。鹿児島駅と薩摩大口駅間の直通列車もこのコームから直接発着することのできる構内配線であった。この駅は鹿児島線として1903年(明治36年に吉松駅とと同時に開業しており、ホームには発車の合図を知らせる鐘が当時のままの姿で残っていた。
 また、跨線橋の先からは駅の裏手に広がる丸池公園を訪れられるようになっている。ここは名水百選に選ばれた泉があり霧島の清らかな水が湧きだしているのだった。この湧水を駅の構内の下を通って川内川に排水するための赤レンガ造りの丸池湧水アーチ式暗渠(あんきょ)が現役で使われており、これは近代化産業遺産としてに指定されてい構築物である。この湧水の源は霧島山脈に降った雨が大地に吸収され、軽石・火山礫層に滞留したのち、溶結凝灰岩や固結シラスやシラス層、砂礫、火山灰土をくぐり抜けて、地下150mにある巨大な水がめに溜まった清冽な天然水なのだと云う。その水質は適度なミネラルと炭酸ガスを含み、鉄分をほとんど含まないのが特徴だとか。それで、これらの湧水に ちなんで、栗野町は同様に名水の湧きでる隣町の吉松と合併して“湧水町”となったのであったと云うのだから、その自慢振りは押して知るべきか。
 最後に未だ私は訪れたことのない、山野線の大川ループ線についての知見に触れておきたい。
1921年(大正10年)に開業した川内川沿いを下る山野軽便線は、その年内に金鉱山の操業で栄えていた薩摩布計まで延伸した。その後軽便鉄道法がはいしされたので、山の線となると同時にルートの改良が行われた。一方、水俣川水系をさかのぼって水俣-久木野間が13年後の昭和9年に開通して、山野西線となったので、今までの栗野−薩摩布計は山野東線となった。最後に残った薩摩布計−久木野間は1937年(昭和12年)に、肥薩国境を久木野トンネル(1,236m)で抜けて、水俣川上流の久木野川の谷をくだるために、大川ループ線の難工事を進めて開通した。それで水俣−薩摩大口−栗野間の55.7kmの山野線が全通した。このループ線は直径が約 400mで標高は290mの地点から限界に近い30〜33パーミルの急勾配と急カーブで一気に約40bの標高差を一回転して登っている。この線区は路盤が脆弱な簡易線であるからC56型の軽量のテンダー機関車が薩摩大口機関支区に配置されていたが、このループを通過するには運転に苦労を強いられたことであろう。
 全国には6カ所のるループ線があるが、そのうちの二カ所が肥薩国境にある肥薩線の大畑ループ線とここの大川ループ線であるのは面白い。それにお互いの距離は尾根伝いに僅か15kmしか離れていないのだった。この路線の経路は昔からの人吉−大口−水俣を結ぶ街道筋で、熊本・鹿児島県道15号(人吉水俣線)がつうじていて、球磨川沿いの一勝ちから山を越えて大口へそして布計を経て再び布計峠を越えてて大川ルーブ線を横断して水俣へ下っているから、ループ線跡の探訪には欠かせないこうつうろであると云えよう。

撮影:1948年
アップロード:2009−01.

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・「霧島山系を巡る鉄道風景」シリーズのリンク
025.冬枯れのえびの盆地(JR九州・吉都線)
303. C57「けむりの構図」・日豊本線/国分−南霧島(信)