自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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303. C57「けむりの構図」・日豊本線/国分−南霧島(信)
〈0003:31-28-6:やっと姿を現したC57上り貨物列車〉
〈0002:31-29-3:冬の午後の斜光線を浴びて動輪がギラリ〉
〈0004:入選作品 「けむりの構図」:山陽新幹線博多開通記念SL写真展〉
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〈紀行文〉
SL写真撮影の際に求められる種々の条件を数え挙げると切りがない話だが、それらは いずれも失敗した時の情景が思い出されて、つい「グチ」が口を突いてでてしまうのが「オチ」である。だが、その中でも風のもたらす影響は甚大で、しかも予測が外れることも少なくなかった。そんな経験の中で、ただ一度だけ風が演出してくれたシーンがあったので、これを「けむりの構図」と題してまとめて、ここにお目に掛けた。そのような光景は発表された例が見当たらなかったのであろうか、全国的なSL写真展で特選の一枚に選ばれたことがそれを証明しているようだった。
その撮影の場所を見付けたのは、日南線の大堂津での鉄橋辺りと、志布志駅のスナップを午前中で切り上げて、日豊本線の南端に近い鹿児島県の国分(今の隼人)から宮崎県との県境を目指して、霧島山連山の山すそを越えようとしている所であった。そこは五万分の一の地勢図を眺めて見付けたロケーションであって、北永野田を頂点にして、上り列車は国分から25‰の急勾配が続く「霧島越え」を登る沿線にあった。確か、国分から狭い山道を数kmほど登った辺りで、国分駅と南霧島信号場との間にある松永トンネルに入る手前ではなかろうか。ここの線路はシラス台地が高さ数十mもの断崖を作っている所で、その中腹を削り取って段状にして路盤とした上に敷かれていた。そこを
列車は崖にへばりつくかのように急坂をトンネルに向かってはい登って行くのだった。15時過ぎになって、やがて、冬の昼下がりの柔らかな陽光を浴びながら、西鹿児島発の上り貨の1592レがC57に牽かれてゆっくりと登って来るらしく、力強いドラフトの音が谷間にこだまし始めた。この時は、桜島の浮かんでいる錦江湾(鹿児島湾)から吹き挙げて来る潮風に押されて、竜のように崖をハイ昇ったC57の吹き上げる煙の見せた構図の面白さには息をのんだ。それにしても、わずかな貨車を引いて登って来るC57の吐き出す猛烈な煙のすごいことは、いかにこの勾配が彼女にとって厳しいことかを表していたようだった。
この場所は、列車に乗って見ると次のようなところであることが判った。
『国分を過ぎ、長く続く勾配をあえぎあえぎ登りながら長いトンネルを抜け、
ぱっと視界が開けるのがこの場所でした。平地をはるか下に望む車窓は見事なもの
でした。』
ところで、このC57は旅客用SLであって、直径 1,750mmの大動輪を備えていて、全長に比べてボイラ胴が細く見えたことから、脚の長く整ったスマートな容姿の女性に例えられたのが“貴婦人”のニックネームであった。その頃には、本州の幹線を疾走していた貴婦人も、南国にに余生を送る所を得て貨物列車にも活躍していたのだった。その後に、SLが引退して数十年も経た今日、山口線や磐越西線などのSL動態保存活動において、このC57こと、貴婦人が多くの人々にもてはやされているのも その美しさからであろう。
次に、この切り立った断崖の「シラス台地」について少し触れておこう。今日も遠くに桜島を浮かせている錦江湾の最奥地点には、直径約20kmもの大カルデラを作った古火山が存在していて、2〜3万年前に大噴火を起こした。この時に噴出した膨大な量の火砕流(かさいりゅう)が堆積して生まれたのが「シラス台地」であることが判って来ている。この堆積物は九州南部の平地を中心に分布しており、その厚さは数十mを越えるほど厚く、白色の火山灰や軽石を多量に含む白色の砂質の堆積物から成り立っているので、粘土分が少ないことから崩れやすい性質を持っていた。そのために、シラス台地の縁の部分は急な崖を作ることが多いのが地形の特徴となっている。この撮影地点から、それほど遠くない元の国分市入戸(いと)に存在するシラス崖をちょうさして、「入戸火砕流(いとかさいりゅう)」が発見されたことが有名であり、また鹿児島空港のある十三塚原台地も大きな平らなシラス台地なのだそうだ。未だ私は見ていないのだが、おそらく私が撮ったシラス崖の上の平らな台地からは、広々とした茶畑が拡がり、霧島連山が遠望できることであろう。
さて、ここで日豊本線の建設の歴史を述べてみたい。日豊本線の前身である宮崎線の建設には今の肥薩線の生い立ちから始めなければならない。
先ず、明治25年(1892年)に国が建設すべき鉄道路線を定めるために公布された鉄道敷設法には、後に鹿児島本線となる「熊本県下熊本ヨリ八代ヲ經テ鹿児島県下鹿児島ニ至ル鐵道」が1期線として規定され、同時に後の日豊本線となる「福岡県下小倉ヨリ大分県下大分、宮崎県下宮崎ヲ經テ鹿児島県下鹿児島ニ至ル鐵道」も予定線として規定されていた。そして、明治42年(1909年)には八代から球磨川(くまがわ)沿いに人吉に出て、肥薩国境の九州山地を「矢岳越え」で抜けて吉松を経て鹿児島に至る鹿児島線が全通している。これに先だつ6年前の部分開通に伴って吉松駅がひと足早く開業していた。
一方、鹿児島−宮崎は予定線となった翌年に行われた全国鉄道線路調査の際に、宮崎線としての鹿児島方の起点は開通した鹿児島線のいずれかからとされて、ルートの比較が行われている。
@吉松−高岡−宮崎の大淀川ルート
A吉松−都城−田野−宮崎の旧ルート
B国分−都城−田の−宮崎の最短の現ルート
の3ルートが比較検討され@の大淀川ルートに決まった。その後に、ようやく明治43年(1910年)になって宮崎線が念願の第一期線へと格上げされた。続いて翌年の実地測量に入る際には、突如としてルートがAの田野・都城経由に変更された。それには昔から開けていた田野の人々の請願が功を奏したもののようだ。その後、大正2年(1913年)に宮崎線が都城まで開通し、続いて宮崎、さらに延岡へと延伸し、遂に大正12年(1923年)に小倉〜吉松間がつながって日豊本線が全通した。その4年後の昭和2年(1927年)になって、八代から有明湾岸に沿って鹿児島へ至る川内線(せんだいせん)が開通して、こちらが鹿児島本線となった。そこで今までの「矢岳越え」のルートのうち、吉松−鹿児島間は日豊本線に編入され小倉−鹿児島がつながった。こうなってしまうと、都城−鹿児島間のルートとしての吉松経由はいかにも遠回りだったから、大昔の明治中頃に検討されていた都城と国分間を霧島山の東端を越える霧島越えの最短ルートが再び“国都線”として浮上することになった。この宮崎/鹿児島の両県境に当たる「霧島越え」の財部−北永野田−国分には最急勾配25.0パーミルの急勾配と多くのトンネルが設けられて、深い森の山中を走っている感がある。そして昭和7年(1932年)にこのショートカット線が開通すると、吉松−都城の間は吉都線と云うローカル線となり、一報の吉松〜国分は八代−吉松の「矢岳越え」の肥薩線に編入されている。
撮影:1968年
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・霧島山系を巡る鉄道
025.冬枯れのえびの盆地(JR九州・吉都線)
102.「樹氷を装った霧島山の冬景色」(肥薩線・栗野〜大隅横川)