自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

067.  朝のの近距離列車が出発を待つ CASS駅頭 風景


〈0001:〉
Cass Scenic Railroad・CASS駅頭の

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文
 午前10時頃になると近距離列車と山頂行きの列車は駅前に並んで雰囲気を出していた。この1978年頃は近距離列車が2本と山頂行きが1本の運行であったので、山頂行きに乗れば一日がつぶれてしまうので、さいしょなので、近距離列車で中間駅のWHITERKER高原でで一日を過ごすことにした。山頂への訪問の旅は次回となり、その秋に実行できたが、撮影を主とした三度目の訪問はチャンスが訪れぬうちに帰国となってしまったのだった。何しろアメリカでのSL撮影の機会は多く有りすぎるのである。
 ここではCass Scenic Railroadの成立までのCassの歴史をご紹介したい。
 このGreenbrier valleyの山々は19世紀の始めには未だ人の足を踏み入れないアメリカつが、バージニア松、ホワイトぱいん、アメリカ杉などの針葉樹の繁茂した処女林に覆れていたと云う。1850年代にはこのアレベニー山地にもバージニア・セントラル鉄道の建設が始まっていたし、続いて東部からオハイオ河岸への鉄道建設が意欲的にC&O(チサピーク・アンド・オハイオ)鉄道の手で進められ、そして豊富な森林資源を基としたパルプ工業が起こった。
そしてこの谷筋への森林や石炭の資源を求めた鉄道建設計画もほぼ同じ頃から企てられており、幹線からの分岐点や川筋へのルートの選定、それに他州の企業人の参入などの紆余曲折が続いていたが、COVINTONでパルプ工場を経営するWP&P(Western Virginia Pulup & Paper )
社が子の谷筋に伐採と製材の事業を企てていることが知られて夜明けが訪れた。やがて1897年末にC&OはGRR(Greenbrier Railroad)を創設して鉄道の延伸を進めることになった。
1899年になると製材所のサイトロケーションが決まり、谷筋の山々の買収が始まった。長い間鉄路の到着を待ち望んでいた谷の人々の期待通りに1900年のクリスマスには整地の最中の製材所のLeatherbark Creekの入口の辺りまで開通した。
1901年にWVP&Pはバージニア杉材会社(West Virginia Spruce Lumber Company)を設立し、この副社長のJoseph K Cass氏は、この木材工業事業の拠点として、製材所と川をはさんだ地に伐採や製材に従事する人々の住む会社の町 CASSを建設した。そこは間もなく人口2000人を超える材木の町となり、ウエスト トバージニア最大の木材工業の拠点となるのである。
一方では、伐採地へ向かう森林鉄道は既に工事が一個人の事業ですすめられていたが、1902年には付近の河や山の名を付けた“GREENBRIER,CHEAT & ELK RAILROAD”が創立された。これこそが今に残るCSRRの路線である。
鉄路の建設は順調に進んで、1901年には山頂の鞍部に到達すると、多くの人々がやってきて、山に向かって2つのキャンプ、最後にチート川の上流にもキャんプが設けられて、パルプ用丸太の出荷は増えて来た。そしてパルプ材を積んだ列車が発車した。
やまで働く人々は土曜日にはCassで家族のもとで休養し、翌日曜日の午後にキャンプに戻ると云う生活が続いていたが、家族達も山で一緒に住むのが好ましいとの希望に会社も同意して、尾根近くに化住宅地を作ることになった。そうして鉄道が山を越える辺に直ぐSPRUCEと云う町が出来上がった。ここからは当初殆どが樹皮などのパルプや製紙に不用な部分が付いたままの丸太で出荷する量が急増していった。そのような不要部分を取り除く作業の出来る職人を雇ったことから、その大きな出費をともなってしまい、1904年には、この町から1.5マイル足らずの近くに皮剥製材所と住居を新しく設け、同時に物資供給会社の店や本社の事務所なども移転させて、この新しい町をspruceとなずけて、古い町はOld Spruceと呼ばれることになった。ここは標高3,853フィートで東部で最も高所の町の一つとなり、しかも霜が降りる月が1年を通じて最も暖かい月であると云う東部で最も寒冷な町であった。そのため冬は蒸気で暖めた池のなかに丸太を投入して置いた程であったと云う。そして必要物資から墓に葬むる遺体までも全てが列車の世話になっていた。この町には40室或ホテルから、郵便局、診療所、学校(350
人)、商店、靴屋、鍛冶屋などなどが住み着いており、1906年には人工は急造した。1913年にはCassからSpruceへのGreenbrier, Cheat & Elk鉄道と西の方から伸びて来たCheat & Elk Valley鉄道とSpruceから
35マイルElk Riverに沿って南へ下がったoBergoo の町へ、又北へ65マイルをCheat Riveに沿った線路も開通して重要な鉄道のジャンクション点となった。
そして麓の製材所が稼働し始めて、初の木材の出荷は1902年の1月であった。この大規模な製材所にはダブル・バンドソウ(帯ノコギリ)盤が装備され、一時は世界最大と云われた。ここでは製材屑を燃やして蒸気機関を動力とするしせつがあり、それに材木感想の窯には11マイルノ蒸気パイプを設けて、きシフトに360,000 board feet の材木を乾燥させる設備もあった。
ここでの累計木材の製材量は2,900,000 mツウと推参されている。
その他に、ここの山から累計214 billion feetの丸太が毎朝C&Oの44輛のパルプ材列車によってパルプ工場へ出発して行った。この谷の木材の寿命はは40年と推測されていたが、最盛期は1910年代であった。そのご最盛期が過ぎて1925年になるとSpruceの製材所が閉鎖され、町はみるみるうちに小さくなってしまった。
1927年には東からの鉄道は石炭採掘と輸送のためにWM(Western Maryland)鉄道に買収され、やがて1936年には全鉄道施設も買収した。一方、Old Spruceからの支線は相変わらずCassへの列車編成の作業に使されていた。
その後の木材工業は急速に衰退して行き、1940年代になると全ての施設がMower木材会社に受け継がれて、二次成長した樹木の伐採を細々と続けた。そして1950年になると遂にSpruceは廃村となり、1960年には遂に森林資源は全くなくなってしまい、森林鉄道と製材所は廃止された。開設以来運搬した木材は 7 億マイルの長さに相当すると記録は伝えている。
そして、この鉄路とそのためのギヤードロコがスクラップ化される寸前に、1年ばかりあるグループで保存運転が行われたが再びすくらっぷへの危機を迎えた。そこに、ペンシルバニア州の鉄道ファンであるRussell Baumさんの献身的努力が成功して、これらの鉄道を含めた地域は州の歴史的記念物とすると共に、教育・観光施設として州自然保護局が運営する“Cass Scenic Railroad State Park”として保存が決まった。
そして1963年 7月15日にCASS観光鉄道(Cass Scenic Railroad)
として再開の処女列車が4マイル登ったホィったかーに向かって発進した。時は州建国100年の記念日の五日前であった。州は機関車を始めとして多くの鉄道施設を蒐集して保存復元に力を入れており、既に十年に余る歴史保存の努力は成功している様に思われた。
その1911年頃はウエストバージニア州の森林開発の最盛期であって、森林鉄道は約3,000マイルに達した。CASSでは総延長175 マイル(280マイル線路)に達し,13輛のシェィ機関車が活躍した。しかし、それは既に消え去って、このCASSの11マイルが残るノミとなってしまった。
 この公園の主な内容は
1)Cass Country store (1902年建築) 
2)元木材会社の町、Cass, Pocahontas郡,WV州
3)11マイルrailway,とその施設
4)終点のBald Knobサミット
5)Back Allegheny Mountainの最高点である Spruce Knob.
6)ゴーストタウン Spruce (

撮影;1978年
発表:「れいる」誌・1980年3月号、Vol4、bS9.

…………………………………………………………………………………………………
・「アパラチアン山中の森林鉄道: Cass Scenic Rr を訪ねて」シリーズのリンク
065.  森林鉄道の朝、Hysler ♯6
066. ホィッタカー高原へ登る登山列車遠望