自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・南インデアナの White WATER VALLEY  鉄道を訪ねて・インデアナ州
055.  広々とした谷間を快走する薪焚き♯100

〈0001:〉

WWV RRのaD100遠望

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〈紀行文〉
 1980年の早春に東南インデアナに出掛けた。そこは昔小デトロイトと呼ばれた自動車産業の歴史の残る町“CONNERSVILLE(コンネルスビル)”であり、ここから州立運河史跡公園とを結んで走る“Canal Route”保存鉄道の
White Water Valley RR(ホワイト・ウォーター渓谷鉄道への訪問であった。旅はオハイオ,インデアナ,ケンタッキーの三州の境が接するオハイオ河岸にあるシンシナチイ(オハイオ州)の国際空港からレンタカーを乗り出した。大きく蛇行しているオハイオ河の北方に深く広がるのがミドルタウンやデイトンなどの工業都市のあるグレートマイアミの谷で、この谷の一端に口を開いているのがこれから訪ねようとするホワイト・ウオーター河の谷であった。市内の高速道路の快適なドライブはつかの間、古い国道52号を伝わって二時間余りのドライブであったが、意外にも谷の入り口だけは険しい崖でつずら折りの道を越えると、2車線の国道はゆるやかな起伏の続く黒土の田園地帯を行くようになり、運河開削の中心地であったBrooksville、運河保存史跡のあるMetamora、そして目指すConnersvilleなどの町々が次々と現れてくる。この町々やWhite WATER VALLEY RRについて語るには、何おおいてもWHITE WATER CANAL(ホワイト・ウォーター運河)の歴史から始めなければなるまい。
 運河と云えば初代大統領ワシントンが、若い頃に東部の街と内陸を結ぶ運河の建設に従事していたことが、運河史の最初に必ずでてくるとのことである。この広い国土には、17世紀後半からヨーロッパにも例を見ない程野長い運河が作られ、その最盛期には総延長4,000マイルを越え、初期アメリカの交通の主役を担っていた。インデアナ州内には、は西にオハイオ河の大支流であるワバシュ河からエリー湖に至るWabash運河(309マイル(と、内陸から南のオハイオ河に通じるWhite Water運河(74マイル)が名を残しており、当時の運河は既に土に戻っているところが殆どである。
 話は少しそれるが、五大湖の一帯から中西部には石灰岩の地層が広く分布している地域があり、火そのような所を流れて南下する河川ははアルカリ性が強く、水は青く澄んでいるのを見受けることが多い。所によっては川底が石灰岩の露頭で占められている場合には、川は白く見えるので、ホワイト・うォーターの名が付けられる例もあるようだ。これは南部のテネシー河水系の水が赤泥で濁っているのとは対照的な印象であった。インデアナ州にもホワイト・リバーなどの名前の付けられた河川があって、流れの途中で地下の石灰層の中を流れて下流で再び地上に顔を出すことがあるようだ。
このWhite Water運河は1824年から連邦の土木技術者により調査が始まり、続いて建設が川に沿って進められた。そして1845年にはConnersvilleに至り、1846年に終点のCCambrigee、
Hagerstownまで完成した。
運河は巾40フィートの水面、深さ12フィート、7 つの取水ダムによって長さ74マイルに対して水が供給され、標高差 498フィートは57個所の閘門(こうもん、どっく)により上下するという規模であった。そして経済の中心であったオハイオ川に面した港町シンシナティまでインデアナの内陸から農畜産物を運搬するのに三日も要したのを、一日足らずで経済的に運版すると云う経済的恩恵ををもたらした。しかし不運なことにも、この奥深い広いい流域を持ったホワイト・ウォーター河は、ちょっとした大雨が降っても増水や洪水を起して、大量の泥を運河に運びこみ埋めてしまったり、岸から水が洩れたりして修理保全の手間が掛かることが屡々であった。そこへ1865年の大洪水による被害を契機に廃止される運命となってしまった。
運河が使われなくなると、落差のある閘門の場所には水車が設けられて動力として利用されたり、下流のBrooksvilleでは大きな水車動力を利用した製材や,パルブ工場が生れ、運河の残った沿線は小工業が立地するきっかけを作った。
その頃には周囲に鉄道も開通しはじめており、1866年になると運河の岸にある船を曳くための馬道を使用して鉄道を敷く計画が生れ
White Water Valley RRが設立され、1968年には大陸横断鉄道の通ったCambridgeから運河に沿ってこの谷を南下、町々をつないでオハイオ河岸に到達した。この鉄道はその後、Big Four(ビッグフォアー、“Chicago,Cieveland、?Cincicinnati and  ?St.Louis
:CCC&SL鉄道)”の傘下に吸収され、谷のローカル線として使命を果して来た。1933年には自動車に迫れて旅客列車が早くもきえたし、1972年まで貨物支線として地方の物流に貢献して来た。そしてConnersville以南は廃線となり、昔の鉄道名を冠した保存鉄道の活躍の場を提供しているのである。

鉄道が廃止されようとする頃、Laurelの取水ダムも破損が激しく流失の危機にさらされていた。地元郷土史家などを中心とする運河保存運動が始められ、州政府を動かすことに成功し、史蹟としての州立公園としてダムと 二つの閘門を含めた14マイルが保存されることになり、入口の多いオハイオ工業地帯からの多くの来訪者が毎ウイークエンドを保存鉄道と運河下りの旅に期待を寄せてやって来るようになった。
さて、ここに掲げた写真は或る年のオープニング列車を追い掛けた時のショットである。州道は線路を遠く離れて、小高い丘の峠を越える。ここの峠からは葉の出ていない早春の野原を行く“Toy Train”のような短い列車がブルーに霞むバックの雑木林と肥沃そうな黒い土の畑の間をゆっくりと走って来るのが眺められた。丘の麓はLaurelの村落で、右手に田舎道を入ると民家の軒先をかすめる線路は駅前広場らしい場所を過ぎると、White water河に作られた保存されているダムサイトに出る。そして運河の土手のルートに入り,豊かに流れる運河に陰を映しながら、公園のあるMetamoraをめざして低い丘の裾を巻くように進むのであった。いずれ、バカンスの始まる初夏の頃の賑わいの運河公園を訪れたいと願って別れを告げた。

撮影:1981年
発表:「レイル」誌・aD12,1984年7月発行

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・「南インデアナの White WATER VALLEY  鉄道を訪ねて」シリーズのリンク*、・インデアナ州
056. ホワイトウオーター運河公園で憩う♯100
057. 煙突の美学:White WATER VALLEY RRの♯100