自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
|
HOME
|
SL写真展 ( INJEX )
|
田辺のリンク集
|
(メールは上の
SL写真展 ( INJEX )
にある送付先へドウゾ。)
…………………………………………………………………………………………………
・カントリー ウエスタンの里「ブリストル」を訪れて・バージニア/テネシー州
046.
汽車好きの子供たちとQ鉄道のミカド
・バージニア州
〈0001〉
…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
「今日の運行は午後1時と3時の出発です」との時刻表を見つけてほっとしていると、早くも遠くから鐘の音が聞こえ 3輛の客車を逆推進した杵4960が姿を現わした。早速乗り込んだ鋼製の客車はいずれもNRHS(あアメリカ鉄道歴史協会)のアトランタ支部のコレクションを借用したもので、蒸気時代の重厚な造りである。二輛は元サザン鉄道のプルマンカーで、一輛は元セントラル・ジョージア鉄道のプライベートカー“Seminole"で、オレンヂとプラウンの明るい南部らしい色であった。まだ客車の手入れまで手が届かぬらしく、破れたガラス窓には合板の雨仕舞がされていると云う姿て、これからの仕事が沢山残っている様子である。“Seminole”の本皮張りの椅子に陣取っていると、さすが豪華なプライぺートカーだけあって、内部は立派な仕上りの塗装であった。
今日は夏なのに、厚手の制服制帽で、汗をふきながら車掌が切符を売りにやってきた。それはどこの保存鉄道も車掌は、その鉄道の顔として、その身だしなみの職務規律は一昔前のよき時代の再現に努力しているのだった。
終点のBENHAMまでの距離は僅か7.5マイルだが、二つの小尾根を越える往復90分の旅が汽笛もなく、ガタンと出発した。すぐ町はずれの簡易移動住宅(モーピルハウス)の立ち並ぶ場末を抜けると、ハイウエーの高架の下をくぐる。もぅ登り勾配の気配、ドラフトが狭くなってきた谷間に反響して行く。やがて、除行となり、30パーミル勾配と大きくカーブした木橋が道路と小川をひとまたき、雑木林を背にしてギシギシと木橋をきしませながら無事に渡り切ると、加減弁も開き気味でスピードを上げ、農家の散在する林の周りを軽快に進むのである。そのうちに長い側線が現われ列車は停車して、機関車つけ換えの実演を行ぅのが、唯一の中間駅「HUSKEL」である。再び尾根の中腹にとりつきながら、隣りの谷を見渡すと立派なヴァージニア種の葉タバコ畠が拡がり、その鮮かな緑が美しく谷を彩っている。このB&NWの開業の交渉の時に、石炭の煙がタバコの葉を汚さないように気を使ってくれとの要望が出たと云う。やがて、高い木橋をゆっくりと渡るとそこが当面の終点のBENHAMであった。その線路の向こうはバージニアン・ブライトと呼ばれる高級葉たばこの畠がうねるように広がる丘を埋め尽くしていた。人間の背丈ほどにも伸びた葉たばこ、その輝くような黄緑色の濃さが強く心に残った。
ここは側線ががあるだけの殺風景な所であるが、今はB&NWの車輛基地でもあり、保線用DLやAMTRAK(アメリカ旅客輸送公社)Hのステンレス客車が、従業員やボランテア達の詰所として利用され、貨車の中はSL保守の七つ道具が一杯であった。
トラックサイドの広場にどこかの木造駅舎をもってくれば良い駅になる筈だし、そして運転も更に険しい尾根をもう一つか、二っか越える位に延長されるのも夢ではないだろう。
ここで、みんな車両から降りて小休止である。SLの足回りと機関士との交流が保存鉄道の魅力だと話していた若者がいた。ここは駅舎はないのだが、売店を兼ねたガソリンスタンドからは,名も知らぬカントリーウエスタンのバンジョーのリズムが流れていた。今日の機関士を買って出ているボランティアは、現役時代は近くの石炭鉄道のクリンチフィールドで、鳴らした,すご腕のエンジニアだったとのユーモラスたっぷりな自己紹介であった。運良く持参していた新幹線の絵はがきを贈呈して喜ばれた。この写真に登場しているエンジニアー・ルックの親子も、鉄道を夢見た、その一人であって、現役を離れてから,この地方で家具と不動産販売事業で成功した実業家であるとか。
SLの足回りに近づき、ウォシントン式の給水加熱器ポンプが目立っていた。日本のヨロイを思わせる保温ジャケットのしていないポイラ火室周りがいかめしい.やはり人気の的は、赤い屋根のキャブとテンダーに描かれたちょっと傾いた“BURINGTON ROUTE”のマークは印象的、ジャケットのついていないボイラーからは、ことのほか熱のぬくもりが感じられ、SLと石炭の香りに満足するのではないだろうか。
僅かのHUSKELとBENHAMの間だけが推進で運転されるので、全力稼動していないSLのドラフトが比較的よく聞けるのと、また客車の通路から見え隠れするaD4960の丸いナンバープレートの朱色は目に焼きっけられたのである。
ブリストルへ戻る列車を木橋の見える川岸で撮影していると、逆位で僅か三輛の客車達を従えたミカドのある風景は、やはり小鉄道のメルヘンの主人公であった。
話題が横道に入るが、ブリストル周辺の山地は葉煙草の生産が盛んで,人手を充分に掛けた高級品種が耕作されている。収穫期の刈り取りの季節ともなれば、人の背丈ほどの大きな葉が丁度稲束のよぅに畠に束ねられ、褐色を帯びた葉は高温で乾燥処理されると黄金色がかった葉に変身し、その名もヴァージニアン・ブライトと呼ぱれる高級品となると云う。ここには日本の専売公社の契約栽培のマークがちらほら見られた。イギリスから移住して来た人々は、この美しい自然の中にバーボンウィスキーを発明し、カントリーウエスタンの音楽天国を営み楽しんでいたのである。外から見ると、やせた農地に赤色に濁った川の水、また山の奥地と云った印象が強いのだが、新しい発見は尽きないものだ。
さて、CB&Q(シカゴ・バーリンットン・アンド・クインシイ)のaD4960は二代目のミカド(2−8−2)・O-2クラスとして、近代化され大量の貨物サービスを目的に作られたが、その規模は本のD51の約1.5倍の能力と云う所であろう。そしてボールドウイン機関車工場の1923年製の大勢の仲間の一台である。1960年代には動態保存SLに選ばれ、シカゴ近郊の支線の旅を組合せた小旅行を主体とした仕業であったが、“a mile minuts”(1分間で1マイル走行)を軽く出し、調子の良さを示していた。しかし、1965年に動態保存が中止と決まった時に、aD4960はウイスコンシン州のビールの都、ミルオーキーで催されていたお祭りの“大サーカス・パレード"に参加していたのだった。これはサーカス博物館のあるBrabooから、側板に極彩色で賑かな絵を画いた平貨車の上に動物達のオリや荷馬車などを乗せた専用車を連ねたサーカス・ワゴン・トレインが仕立てられaD4960に牽れてミルオーキーに出掛ける行事なのであった。
その後、1966年になって近くに設立された MID-CONTINENt鉄道博物館に寄贈され、他の多くのSLや客車に混って静かに展示の日々を十数年送っていたのである。
この Q鉄道として親しまれて来たCB&Q鉄道の起源は1850年にまでさかのぼるほど古いが、現在BN(バーリントン・ノーザン)鉄道として太平洋岸からメキシコ湾岸、シカゴ、カナダ国境と広大な地域をカバーするアメリカ有数の大鉄道網に発展している。
撮影:1981年
発表:「レイル」誌・1984年5月号
…………………………………………………………………………………………………
・「カントリー ウエスタンの里「ブリストル」を訪れて」シリーズのリンク
045. Q鉄道のミカド“♯4960”の復活・バージニア州
301. カントリーウエスタンの流れる葉たばこ畑・バージニア州