自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「クヤホガ・バーレー・らいん」/オハイオ州

038. GTW ♯4070・保存農場への停車場にて(オハイオ州)

(GTW:グランド・トランク・ウエスタン鉄道、カナダ国鉄のアメリカ法人)

〈0001:〉
保存農場の停車場にて aD4070

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〈紀行文〉
 さて、列車は両側に牧場などが見える高原の様な所に出て、築堤をドラフト高く力行する。併走する田舎道をジープで追い掛けるシネカメラを回すカメラマンの腕の見せ所でもあろうか。トラックやキャン ヒングカーに乗った人々が踏切りで待ちかまえる。
ワシントンから来た1家族はそれぞれがカメラヲ持って一斉に構えている。彼らはバカンスには平気で数千マイルのSL狩をするとのことだ。
やがて、勾配の途中だと思われるのに、列車は停車し、乗客はぞろぞろ黄色のバスに乗り換えている。
ここに列車が停車している間は郡の保安官もお出ましで軽快に当たるやら、降って湧いたようなお祭り騒ぎである。
蒸気機関車の回りを取り巻くく人々、写真を撮る人、機関士と話をする人々、運転台に乗せてもらう少年たち。そのなかにあって、aD4070は全く黒ずくめの地味な姿を見せていた。
 やがて、HALE-FARM、保存農場から戻って来た人々が、列車に乗り込むと、列車は停車場を離れて、山の裾を巻く様にしてアクロンの台地に這い登って行く。
クガホヤの谷を挟んで両側の台地に早くから街が開け、西側にはダウンタウンでビルが林立する人口25万の地方都市なのである。西部劇に出てくるアクロンの砦も,この様に谷を望むことの出来る所ではなかったかと思ったりする。その対岸で列車の行方を追っていると、濃い森の中から煙が現われ、ダウンタウンのすぐ下で停車し乗客を降ろし始めた。市内にあるクオーカー・スクエアーに行って、鉄道模型博物館や、古い昔の工芸品のショッピングセンターに行く人々をバスが迎えに来ているのだった。
再びゆっくり前進した列車はB&Oの貨物ヤードを通り抜け、複雑に入りくんだデルタ線のあるB&Oの基地に着いたのだった。

このクリーブランド〜アクロンをつなぐ鉄道の歴史に軽く触れておこう。
このクヤホガ渓谷筋は三千年もの昔から北東オハイオ地域を南北につなぐ経路として使われて来たが、その後は、オハイオ・エリー運河が開削されて初期の西部への移住者達の移動を容易にしたり相互の物流に貢献した。この谷に鉄道が来たのは1880年のことであって、カントンの南に産する石炭をクリーブランドに勃興した製鉄所へ輸送するのが目的で作られたが、やがて沿線の農産品や商工業品の輸送の役割も果たして、子の谷に光栄と繁栄をもたらした。1894年に財政的困難に襲われて、Valley Railwayはthe Cleveland Terminal & Valley Railroad (CT&V)となった。1915年にB&O鉄道がT&Vをー買収し、貨物と旅客サービスを受け継いだ。その後アクロンとクリーブランドの住民の自動車の利用が高まり、旅客サービスは傾斜し、1963年に終焉を迎えた。そして1985年までChessiese システムが貨物サービスを継続した。

1971年からはこのB&Oの支線のクリーブランド〜アクロン間の路線を借用してCuyahoga Valley Line(cvl)がツーリスト列車を運行しているのである。
b&oが運行を廃しした後は、クヤホガ渓谷国立公園局と共同でCuyahoga Valley Senic Railroad(CVSR)を運営しており、アクロン〜ケントン間にも運行を始めたようだ。

撮影:1978〜9年
発表:「レイル」1980年6月号

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・「クヤホガ・バーレー・らいん」シリーズのリンク
037.クヤホガ渓谷をオハイオ運河に沿って走る(オハイオ州)
039.  B&O鉄道アクロン・ヤードでのGTW ♯4070 オハイオ州