自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・ハチロクの生き残る花輪線

036. 大正の残映・石積みトンネルと8620 ・花輪線/好摩−東大更

―「RANSOMES & RAPIER社製 50ft バランス型ターンテーブル」-

〈0001:bO70343:石済みのトンネル内から〉
大正の残映・石積みトン
〈撮影メモ〉昭和42年7月29日撮影
トンネルの名前は好摩駅に紹介して、好摩隧道であることが判った。


〈0002:bO70334:明治のイギリス製の“ターンテーブル”〉

〈撮影メモ〉昭和42年7月28日撮影
乗っているカマは 68620号。

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〈紀行文〉
 昭和43年の頃だっただろうか、東北本線の奥中山にクルマで遠征した時の帰り道に、花輪線の龍ヶ森まで偵察するつもりで国道4号線から右折して、未だ上流に当たる北上川を渡って河岸段丘を駆け上ると直ぐに東北本線の好摩駅が現れた。好摩は花輪線の分岐駅であるが、駅舎は古くて小さいものであった。奥の方に手押しの転写台が有ることも知ってはいたが、8620が牽く貨物列車が40分ほどで出発するダイヤだったので撮影地点を探しに走った。ここの町並みも駅周辺だけで、駅を離れるとすぐに町並みがとぎれる。北隣り駅の岩手川口方面に向かって走ると、花輪線との分岐点付近に出た。この分岐点付近で東北本線と花輪線をそれぞれが影できる都合の良い所だった。花輪線は分岐のアウトカーブから撮影すると、バックが小高い丘になっていて、線路はその丘をトンネルでくぐり抜けて東大更(ひがしおおぶけ)に向かっていた。なかなか里山の感じのでている風景であった。そこで、戻って、再び好摩の町外れに走り出て間もなく古風な石積みのトンネルに行き着いた。短いトンネルだったので、出口側から135oの望遠レンズをつけて三脚で構えた。トンネルに突入する直前のハチロクを狙った。帰宅して、暗室でフィルムを見て、石積みのアーチの美しさには驚かされた。さすが、石材の名産地である北上山地の麓だけのことはある。その撮影していたときの印象は殆ど忘れてしまっていたことに唖然(あぜん)としたのだった。この古典的な石積みのトンネルは大正11年(1922年)に花輪線が好摩から大更(おおぶけ)を経て平舘まで開通した時に完成した「好摩隧道(ずいどう)」であり、一方、トンネルに入ろうとしている8620形SLもまた大正3年、我が国が設計して600輛もの量産を果たした旅客用機関車で、ここに大正を代表する鉄道技術が一枚の写真に納まっていたのだった。 撮り終わってスグに好摩駅構内の南端にある機関車の扱い場し向かった。ここには給水設備、アッシュ ピット、それに転車台が揃っていた。盛岡機関区の38690ごうが準備作業に入っていた。しばらくして、転車台に乗せられた86を撮って帰途についた。
この8620型SLにピッタリな寸法の50フイート ターンテーブルは当時最古の部類に入る転車台として世に知られていた。
これは東北本線の前身である日本鉄道(株)が高崎線・東北線・常磐線への蒸気機関車の大型化に対応すつために明治30年(1897年)英国のRANSOMES & RAPIER社製の50フイートバランス型ターンテーブルを15基輸入したものの生き残りであるというのであった。
これは全長:50ft(約15,240mm)、自重:17トン、積載荷重:最大95トンであった。
横から見ると底がすり鉢状になっている。バランスト型と呼ばれる構造の上路式転車台で、上路プレートガーダーの下部の形状である。回転中は転車台桁とSLの荷重は中央支承のみで支える。桁端車輪が円形レールに接しない状態で回す。それゆえに人による手押しで回することができる。現在、この形式の唯一の転車台が大井川鐵道千頭駅に存在しているとのことだった。
 ここで、話題を花輪線へ戻そう。この起点の好摩と云う奇妙な響きを持った駅名であるが、これはアィヌ語の「ク・オマ・ナィ」または「ク・オマ・イ」の省略の「ク・オマ」が語源であり、その意味は、「仕掛け弓・そこにある・沢」か、または、「仕掛け弓・そこにある・所」になるというのが地誌の教える所であった。
 実は、明治初期に八幡平の標高 1,000mの森林地帯で硫黄の露頭が発見された。大正3年になると、硫黄と黄鉄鉱の発掘がが工業的に松尾鉱業の手で始まった。産出した鉱石の輸送は、山から麓の屋敷台までは索道で、この先は好摩に至る軌間 200mmのトロッコ軌道建設計画の一部としての大更(おおぶけ)までが開通して出荷された。その3年後には岩北軌道が好摩−大更−平舘を開通させ、大更で松尾鉱山のトロッコ軌道と接続して、好摩までの貨車による一貫輸送が馬車、後にはガソリン機関車によって行われた。その後大正11年になって鉄道省が花輪線を好摩から平ら舘まで開業し、次第に花輪に向かって延伸して行った。索道の終点からの大更駅までの専用鉄道は昭和9年に開通し、戦後は電化されて多忙な時期を迎えていた。
その最盛期には年間 硫黄10万トン、黄鉄鉱 45万トンが出荷されたと云う。
その黄鉄鉱は日本海岸に散在する工業地帯での硫酸製造から肥料の硫安(硫酸アンモニア)などの原材料として運ばれて行ったと云われる。
やがて原油精製からの脱硫硫黄や、海外から輸入される安価な黄鉄鉱に押されて、栄華を誇った松尾鉱山の鉱山都市も廃墟となり、今や貴重な産業遺産に指定され、ゴーストタウン探訪のメッカの一つとして知られるのみである。
現在の花輪線は最北の東北山脈横断ルートであり、八幡平の北麓を越えて北上川流域から裏日本に連絡すしており、「十和田・八幡平四季彩りライン」の愛妾が着けられている。
 さて、ここに登場した8620は2−6−0の車軸配置の旅客用SLであり、先導く台車にくふうがあって曲率80メートルの路線も通過できると云う小回り振りを発揮できる設計は、あらかじめ支線への適用を考慮していからであると言われる。そのためか、花輪線では旺盛な貨物需要におうじるためハチロクの三重連を運行して奥羽山脈を越える貨物輸送が続けられていたのであった。

撮影:1968年
発表:個展「日本縦断 蒸気機関車写真展」(1975)

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・「ハチロクの生き残る花輪線」シリーズのリンク
278. 龍ヶ森のハチロク ・花輪線/岩手松尾→龍ヶ森(安比高原)
179. 冬の龍ヶ森ハチロク三重連・花輪線/岩手松尾−龍ヶ森(安比高原)