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 暑さに思考回路が打撃を受けていたとしても、無理やり、じゃないともとれる発言を聞き逃すはずはなかった。
当初の予定通り、大学での勉強会は淡々と続けられた。
雨の一滴も降らない暑い日々が続く中、冷えすぎるほどに冷えた図書館で勉強をこなし、学食にメシを食いに行く。
単調とも思える毎日が続く。
先輩は、あの日以来俺らの前には姿を現さない。
研究室の方へは来ているから、鉢合わせをしないように気をつけているのだろう。
俺にしてもあまり精神衛生上彼と顔を合わせるのはよくないと思う。
だけど、彼女の溢した言葉が本当なのだとしたら。
彼女は先輩とは合意の上、そういう関係になったと言いたかったのだろうか。
もしそうならば、それはただの恋愛関係だ。
年齢差だとか、彼女の年齢だとかを考えれば、適切な行動だと手放しに言えるものではないけれど、残酷な行為だとは言えないと思う。
いや、夫婦間でもレイプは認められると聞くけれど、それでもはやり痴話喧嘩の延長線上のような気がしてしまう。偏見かもしれないが。
だけど、結局は先輩もやめさせられている。
それが理由でなければなぜなのだろう。
そこまで思考が辿り着いたのはいいが、否が応でも彼女と家庭教師に関するある事実について思い出してしまった。
彼女の家庭教師を辞めた人間は、先輩を含めて複数人いたという事に。
ならば、どうして立て続けに辞めさせられた?
最初は彼女側に原因があるのだと思っていた。
今ではそれは有り得ないと言い切れる。
年相応ではない部分があるけれど、彼女は生徒としては非常に扱いやすく、成績はともかく優秀だとも言えるからだ。
俺に見せる面と他者に見せる部分が必ずしも一致するとは限らないけれど、逆に俺にだけ猫を被る必然性もまるで見当たらない。
暑いせいか髪を俺がしらない道具でアップにしている彼女は、クーラーが効き過ぎているせいか時折タオルを首にあてている。
肉付きがあまりよくない彼女は、俺よりは遥かに寒がりらしい。

「できた?」
「……いじわる」

先ほどから彼女が真剣に取り組んでいるのは1年生の復習問題だ。苦手そうなところをピックアップして適当につぎはぎをした問題集だけれど、一通りこれが出来れば落ち零れと言われることはなくなるかもしれない。
だけど、そうすれば俺の仕事は終了ということになる。
彼女は勉強の仕方を知らない子供じゃない。
ただ、ぽっかりと穴が開いてしまっただけの子だ。その穴を埋めさえすれば、そこから先は自分一人の力でやっていけると思う。

「こんなに時間を割いていただいて、大丈夫なんですか?」

顔をあげ、彼女が再三繰り返している質問を、再びぶつけてくる。
どうして、だとか、なぜ、だとか問われても、自分でもよくわかっていないのに答えられるわけはない。
だからその度に苦し紛れに笑って誤魔化している。
わからないものは、たぶん、現実を見つめればあっさりと露呈してしまうものだろう。
だからこそ、考えないようにしているのだから。

「今日も実験?」
「ん?まあ、ね。ダラダラとしてるけど」

夏休み中はなんとなく研究室中がのんびりした雰囲気に包まれる。それにつられて、ついつい自分に甘いペースで実験を行なってしまっている。
それではダメだとは思いつつ、やはり冷房のない実験室では踏ん張りが利かない、と言い訳をしてみる。

「先生は将来先生になるんですか?」
「いやーー、とてもじゃないけど大学に残る気はないよ。適当に就職する予定」
「地元?」
「田舎過ぎて何もないからなぁ、大学院出を雇ってくれるところなんて…。それに限定していられる身分じゃないし」
「先生でも?」
「や、でもって、うーーん。希望の職種につくにはたぶん学歴が足りないし、かといって学部よりも給料が上がる修士出はなかなか、ね」
「そういうものなんですか…」
「そういうものなんです。最近は大学院出身も珍しくなくなってきて、競争倍率高いしさ」
「はあ…。私には縁遠い話ですねぇ」

そういえば彼女は大学へ進むという意思をもっているわけではなかったはずだ。
何か手に職がつけば、と、そういったことを言っていたような気がする。
5割を越す人間が大学へ進学する時代に、彼女のような考えを、しかもあの家庭環境で持つのは珍しい。

「どうして大学に行く気がないの?今の調子で勉強をしていけば難しくないと思うけど」
「そういう、問題じゃないですから」

そう言った切り、彼女は下を向いて問題に取り組み始めた。
彼女は左の掌に顎をのせ、筆記具を持ったまま、眼を合わせないでポツリと語り始めた。

「私、誰にも似ていないでしょ?まあ、母方の祖母に瓜二つらしいですけど」

それを聞いて少しだけ安心してしまった。
彼女は確かに誰かの血を引いているのだと。今一緒に住んでいる人たちには似ていなくとも、少なくとも祖母という人間とはつながりがあるのだとわかったから。
彼女は一人きりじゃない。きちんと両親も兄弟もそろっているのに、そんなことを思ってしまった。

「息が、詰まるんです」
「思春期の反抗期ってやつ?」

彼女の子供らしいとも言える一面を垣間見られた気がして、自然と頬が緩んでしまう。
だけど、彼女の持つ孤独はそんなもので片付けられるようなものではなかった。

「私は、父の子供ではない」

なんてことない風な呟きは、聞き流すにはあまりにも残酷な言葉で。

「それって…」
「いえ、たぶん父の子供ですけど」

勢いよく聞き返して、帰ってきた言葉に安堵する。
チラとでも頭によぎったことが本当だとすれば、どうしてこれほどまでに両親が無関心なのかまで邪推してしまいそうになる。

「でも、そうかどうかは重要じゃないんです」
「や、でも、真実は一つだし」
「いえ、真実は人によって異なります」
「異なるって…。確かに千津さんは教授の娘さんで」
「父にとってはそうでしょうけど、父の母にとってはそうではない、ということです」
「そうじゃないって」
「あの人は、私は篠宮とは何のかかわりも無い人間だと思っていますから」
「でも、両親がそうは思っていないんだから」
「あの人たちは究極的には自分以外に興味のない人たちだから」

彼女はどうしてこんなことを言いながらそんな風に笑えるのかと、こちらの方が心臓を痛くしたまま、綺麗に微笑んだ。

「でも、みんな君のことを心配している、きっと」
「そう…ならいいですけど」

そのまま彼女は問題集に取り組み始めた。
人気の無い図書館は、彼女がノートの上に走らせている筆記具の音しかしない。
自分の体が冷えているのは、冷房のせいだけじゃない。


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8.18.2006

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