17

突然、先輩が退学していった。

ドロップアウトする人間は多々いるけれど、大抵は予兆があるものだ。
出席しなくなったり、成績が極端に下降したり。
俺の同級生で辞めていった連中は元々ここと合わなかったか、もしくはパチンコや風俗にのめりこんでいたことが多かった。
なのに先輩はそんなそぶりはカケラもみせなかった。
だからこそ、原因は何かを聞き出したくて周囲の連中が煩く騒いでいた。
だけどどれだけ嗅ぎまわっても、一身上の都合ということ以外は何もわからなかった。
ただ俺一人だけは、嫌な予感がして、周囲の好奇心剥き出しの噂話にも加わることができないでいた。
この時期になってやめるだなんてよほどのことだ。
いくら実験がうまくいかなくても、それは一過性のことで退学の理由になるには弱すぎる。
まして彼は教授からも将来を嘱望されていた人間だ。俺なんかとは違う。
ざわざわと胸騒ぎがして落ち着かない。
先輩の名札は欠席の表示のまま、結局二度と研究室へと戻ってくることはなかった。





「おはようございます」

彼女の顔を見るまではいてもたってもいられない、という気持ちに駆り立てられていた。
こちらの内面とは裏腹に、彼女は相変わらず涼しげな笑顔を見せ、いつもとまるで変わらない。
ただ、いつもは綺麗にまとめている髪が下ろされ、首元まで覆う服を着ている。おまけに長袖の上着をすでにキッチリと着込んでいる。

「暑くない?」
「そうですね、わりと」

だったら脱げばいいのに、なんてことを言い返すこともなく、一緒に冷房が効いている場所へと移動する。
図書館の温度にあわせたのだと、彼女の服が変化したこともすでに気にもとめなくなった。
なんとなく、先輩の退学と彼女を結び付けて考えていた自分に嫌気が差していたから、あまり他の事を気にする余裕がなかったのかもしれない。
常ならば、彼女から違和感を感じ取ることもできたのかもしれないのに。
黙々と勉強を続ける彼女を上の空で眺める。
やっぱり、先輩は家の都合かなにかでやめたに違いないと、半ば勝手に決め付ける。
そうしないと何かが落ち着かない。

「先生?」

彼女が何度も俺を呼んでいることにすら気がつかずにいた。

「ごめん、ちょっと考え事」
「いえ、こちらこそすみません、先生もお忙しいってわかっているのに」

彼女は俺が研究の事で悩んでいるとでも思っているのか、とても申し訳なさそうな顔をした。
彼女にそんな顔をさせたことが許せなくて、大袈裟に頭を振る。

「いや、こっちこそごめん。くだらないことだから、気にしないで」

困ったように微笑んで彼女が前髪をかきあげる。
袖の下からチラリと白い手首が露になる。
そこに浮かぶあざも同時に。
何も考えずに彼女の腕を掴み、こちらへ引き寄せる。
慌てて彼女は袖を伸ばし、手首を隠そうとする。
瞬時に先輩と彼女のラインがつながる。
自分の嫌な予感が本物ではないようにと願いながら彼女へ質問をする。

「先輩?」

彼女は視線を逸らし、数拍沈黙したのち、静かに頷いた。
頭の中が真っ白になる。
彼女の腕を無意識に強く握っていたらしい、苦痛に歪む顔を見て、我に返る。

「ごめん、怪我、してるのに…」
「たいしたことないですから」
「これ、先輩のせい、だよね」

無理やり作った笑顔が悲しくて、まっすぐに見ていられなくなる。

「大丈夫ですよ。今回は兄が助けてくれましたから」

彼女は自分の身体を抱きしめるようにしながら呟く。

「先生、続きを」
「ごめん、今日は話がしたい」
「先生に話すことはないですから」
「俺では頼りにならないのか!」

ここがどこなのかも忘れ、思わず叫んでいた。
案の定司書の鋭い視線と、周囲からの好奇心溢れた視線にさらされる。
軽く深呼吸をして彼女と向かい合う。

「ごめん…。でも、俺じゃだめなのか?」
「そういうわけでは」

困惑しきった彼女はなおも自分を抱え込むようにしている。

「どっか、話せるところへ行こう」

強引に彼女へ言い切り、さっさと彼女の手を取り実行に移していた。
自分の感情がコントロールできない。
彼女の事を傷つけた先輩が許せないのはもちろん、彼女を救ったはずの実の兄まで嫉妬している。
彼女に頼りにされるのは自分でなくてはならない。
そんな事を思っていた。
家族にも言えない秘密を打ち明けられたことで、そんな風に錯覚してしまったのかもしれない。
そうして、彼女に触れていいのは自分だけだとも。
実際は指先一つ触れるのにもこうやってためらうくせに、と、自嘲しながら。
はじめた触れた指先はひんやりとしていて、自分の体温が彼女へと移っていくようで気恥ずかしい。
体温と共に気持ちまでもが伝わってしまいそうで。


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9.1.2006

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