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※一部暴力的な表現があります。少しでもそういう表現を目にしたくない方は第16話を読み飛ばすことをお勧めします。また、ストーリーの流れ自体は15話→17話と進めても違和感があまり無いと思われます。くれぐれも閲覧にはご注意ください。




 先生との勉強会が終わり、やっぱり午後はすることがなくて、自分の部屋のベッドの上でゴロゴロしていた。
一人だけではクーラーをつけるには気が引けて、そうやってずっと一人きりの自分は結局あまりスイッチを押すことがないんだろうな、なんて漠然と思う。
入り込んでくる空気も、体が触れているシーツも全てが生暖かく、夏だからと、自分に言い聞かせても、この気温だけで体力が削られていきそうだ。
ノロノロとした動きで、何か冷たい物でも飲もうと動き出す。
冷蔵庫を開けた瞬間の冷気を少しだけ楽しんで、ペットボトルのお茶を取り出す。
午前中には煩いほど鳴いていた蝉も今では休憩中なのか、静かになっている。
玄関のチャイムが突然鳴り響き、暑さで思考能力が麻痺しかけていた私は、なんのためらいもなく扉を開けてしまった。
彼は、なんの邪気もなくのんきに挨拶を口にしながら待ち構えていた。

「何しに来たの?」
「何しにって、俺は別れたつもりはないんだけど」
「……そう思うんなら一度脳検査にでもいってきたほうがいいわね、だいぶ記憶が改ざんされているみたいだし」

これほど彼に対して強気に出られるのは初めてで、自分の中で過去の事だと消化できていたことを実感する。
だけど、これ以上はごめんだ。
咄嗟に閉めた扉は、彼の無理やり挟み込まれた左足によって阻止された。

「あいつとはずいぶん仲いいみたいだね」
「ええ、いい先生よ、あなたと違って。どうでもいいから早く帰って!」

じわりとこじ開けられる扉。耐え切れなくなって後退りをしてしまう。

「帰ってよ!!!」

ヒステリックに手当たり次第にその辺りの物をぶちまけるけれども、彼は相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべながら近づいてくる。 いつのまにか尻餅をついた格好で、それでもなんとか逃げ出そうと足を蹴りながら後ろ向きに廊下を進む。
彼は一歩一歩確実に私の方へと近づいてくる。
こんなとき、叫べばいいのか泣けばいいのかわからなくなる。
ただ恐くて、目の前に近づいてくる人間から逃れたくて結局一番悪い方向へと追いやられてしまう。
あっさりと組み敷かれて、太ももの間にスルリと彼の右手が差し込まれる。

「あいつはそんなに良かったのか?」
「あなたと一緒にしないでよね」

歯の根が合わないくなるぐらいガチガチいっているにもかかわらず、精一杯の虚勢を張る。

「随分とあいつの事は信用しているようで」
「あたりまえでしょ、大声だすわよ」
「どうぞ、いくら叫んでも誰もいないし、外に聞こえたところで誰もきやしない」
「いらないっていったのはそっちの方じゃない」

確かに、彼はそう言った。
私なんかいらない、と。
私の言葉など耳にとどかないのか、私は床へと身体を押し付けられる。こんなにもあっさりと身動きができないなんて、自分自身の不甲斐なさに情けなくなる。
ぬらっとした感触がして、口の中に舌がねじ込まれたことに気がつく。
無我夢中で手足をバタバタさせても、そうたいして体格がいいとはいえないこの人でさえ払いのけることができない。
せめてもの抵抗にと、彼の舌に噛み付く。
痛みのためか掴んでいた私の両肩をつき押し、私は廊下に頭をしたたかに打ち付けられてしまった。
一瞬飛んだ意識がおぼろげに戻ってきた時には、私は彼に首を締められていた。
以前の記憶と、自分の力ではどうしようもできない今の状況に、抵抗する気力すら沸いてこなくなる。
私が抵抗しなくなったのをいいことに、彼はゆっくりと私の着衣を脱がし始めた。
もう、何も考えたくはない。
無気力の波に飲み込まれ、いっそ意識すら手放そうと思った。

「おい、鍵もかけずに無用心じゃないか」

そんな兄の声が聞こえたような気がする。
後は何かが殴られる音と、ガラスが壊れたような音。
激しい騒音の後、私は誰かに強く抱きしめられていた。
それが誰かもわからないのに、あの人だったらいいのに、そんなことを思った。





「千津?」

首の辺りに違和感を感じ、目をあけながら首元にそっと指先で触れる。
その仕草を兄が悲壮な顔で見つめている姿が目に入った。

「私…」

おきようとする私を兄に制される。
私の左手を兄の両手がぎゅっと包み込む。

「ごめん…。もう少し早く来ていれば」
「そういえば、どうしてここにいるの?」

まだ覚醒していない私は、のんきにもそんなことを尋ねてしまう。泣き出しそうな顔で兄がじっと私の目を見つめながら無理に笑う。
「今日は停電で休みだって連絡したろ?」

そんな事をいっていたような気がする。
現実感が伴わない、自分で発した声すら遠くから聞こえるよう。

「千津…」
「大丈夫」

兄の握る指先の強さだけが私が今、生きてここにいるのだと実感させてくれる。

「あんなことぐらいなんでもない」
「なんでもないわけないだろう!」
「大丈夫、大丈夫だから」

目を瞑る。
必死の形相で追いかけてきたあの男の顔が浮かんでは消える。

「俺はそんなに頼りないのか」

真夏だというのに私のものより冷え切った手を心地よいと感じてしまう。
兄の言葉がわからない。
あの男の姿はやがて消えていき、咄嗟に切望した人の形を瞼に映し出していく。
涙が、零れる。

彼の姿が消えていく。


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8.25.2006

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