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 味覚がなくなる、ということがどういうことなのか知っている。
ずっと食事当番だった私は、きっちり計量してレシピ通りに作る事でばれないようにしていた。
何を食べても味がしない、まるで砂を噛む様だとはよく言ったものだと思う。
だけど、誰一人としてそのことに気がついた人間はいかなった。
その時落ちた体重も、私のことを一番気にかけていると言っている兄ですら指摘することはなかった。
今も落ちた体重はそのままで、成長期を僅かに過ぎた私は、これ以上大人の身体にならないのではないかと気にしている。
あんな思いはもうたくさんだ。

「大丈夫?」

どこまでも優しい先生は、どうしていいかわからないのか、心配そうな視線を投げかけてくれる。
発端は自分なのに、これ以上心配させたくなくて、思わず笑顔を作る。
嫌な事を忘れるかのように勉強に没頭する。
何も言わずにそれに付き合ってくれる先生。
どうしてこの人は、赤の他人の私に対してまでこんなにも優しいのか。
今更ながらに、自分が放った失言が、彼の心にどんな風に刺さっているのかが気になってしまう。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
家族の誰にも言えなかったことなのに。
他の事に気をとられているにもかかわらず、思った以上に復習は順調に進んでいく。
追いつくことはまだ少し先だけど、全く暗闇だった最初の頃に比べれば、まだ出口は近いのかもと感じる。

「今日はここまでにしようか」

そう、先生が声をかけた時には、すでにお昼を回っていた。
先生は空腹のせいなのか、わずかにへたっている。

「お腹空きました?」
「……朝ご飯食べてないからさ…」

先生は少し情けなさそうに答える。
兄をみていても、この頃の男の人はまだまだ良く食べるのに、朝から食べていないのではとてもじゃないけどもたないだろう。

「どうします?作りますか?」
「んーーー、学食でいいや、って、千津さんはどうする?」

父に連れられて数度はここへ来た事はあるけれど、まだ学食などにお邪魔したことは無い。外部の人間が利用できるのかは不安だけれど、ちょっと興味があったりもする。

「別に誰も調べないし、近所のおばちゃんたちも食べにくるぐらいだから、大丈夫じゃない?」

そんな疑問が顔に出ていたのか、先生がそう説明をする。
結局好奇心には勝てず、私はそのまま先生にくっついていくことになった。
図書館の自動ドアをくぐると、情け容赦なく強い光が直撃をする。図書館の周りはレンガ敷きなので幾分かましだが、学食への道のりはただのコンクリートである。暑い空気が上へと昇っていくのがわかる。
暑いとわかっている上を、大人しく二人して歩く。
上から照られ、下から熱せられ、図書館で冷えた身体にはかなり堪える。
先生は一気に汗を噴出し、首にぶら下げているタオルで無造作にその汗を拭い取っている。

「暑い…ですね」
「建物に挟まれて風もとおらないからな、ここ」

確かに高い建物にはさまれて、時折突風が吹くものの、それすらも生ぬるいため、暑さしのぎにはなんの役にも立っていない。頼みの綱の植物も、夏休みに入って手入れをする人がいないせいなのか、しょんぼりとしている。

「もう、大丈夫か?」

熱にやられてぼんやりしていた私に、先生の優しい声が降ってくる。

「ええ、大丈夫です」

いつもより無防備になっている私はあっけなく、それに答える。
先生は額にかいた汗をぐいっとタオルでふき取り、大きくため息をついている。
本当にこの暑さはうんざりする。
たぶん、思考回路が鈍っていたのだろう。

「それにしても、先輩があんなことするなんて、ね」

最後の方は独り言のようで、私の返事を期待したものではなかったのかもしれない。

「あんなこと?」

なのに、熱風に煽られながら私は会話を続けてしまった。

「いや、だから、無理やり君のこと…」
「無理やり?」
「うん、だから…」
「ああ、あれは…違う。無理やりは別」

あっさりと、心の奥の奥へと隠していた秘密を暴露する。
なのに、そんなことを吐露してしまったことすら、後になって気がついた。

「ここですか?」

重そうなガラス製の扉が外界と食堂の中を遮断している。
先生は何も言わず観音開きの扉を開け、私へ中に入るようへと促す。
一瞬にして冷気が、外へ向って流れ出す。

「食券俺のがあるけど」
「自分の分ぐらい自分で買います」

相変わらず困ったような笑みを浮かべ、彼は食券の自動販売機を指差している。
言われるがままに、500円を投入し、食券を購入する。

「ここはほぼ男子校みたいな学部だから、結構量多いから気をつけて」
「そう、みたいですね。お茶碗がどんぶりみたい」

学生さんが持つトレイの上を覗き込む。
定食などは私が一日で食べる量より多いかもしれない。

「…、そうめんにします。あれなら食べられそう」
「ん、じゃあ、あっちの窓側のあたりで」

4人がけのテーブルが並ぶ、窓際の辺りをさし、先生は定食の列へと並ぶ。
麺類は配給場所が違うため、私は言われた通りにトレイをもって、行列へと並ぶ。
夏休みだというのに、学食に並ぶ人は多く、ほとんどが先生の言った通り男子学生だ。
私と同じ性別は、厨房にいるおばちゃんたちぐらいだ。
自分の存在がかなり浮いていることがわかる。
あからさまではないにしても、盗み見るような視線があちこちから注がれる。
それらを振り切るようにして、望みのものを手に入れると、誰も座っていないテーブルを選び、腰掛ける。
先生が探しながらこちらへと向ってくるのが見える。
軽くてを挙げると、早速こちらを見つけたのか、先生が安堵した表情を浮かべている。

ふと、先ほどの会話が頭の中をリプレイする。

私は何を言ってしまったのか。
この人だけには知られたくなかった事実。
二人して手を合わせ食事を開始する。
冷たい、という感覚はかろうじてわかるものの、全く味がしない。
先生がいるから、精一杯口には運んでみるものの、飲み込むようにして食事を終える。



先生は私が帰るまで、何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。
全てを吐き出したくなるのは、どうしてだろう。


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8.9.2006

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