豊羽鉱山(とよはこうざん) 〜 残念ながらついに閉山 〜

採集日:2008/05/25


豊羽鉱山は、鉛、亜鉛、そして、レアメタルであるインジウムの鉱山として、ついこの間(2006年3月)まで、稼行していた鉱山です。鉛・亜鉛・銀の生産量は日本一であり、インジウムについては、世界の埋蔵量の1/3に達すると言われています。
 ここは鉱物採集がほとんどできない鉱山です。ズリ石が山のように積まれているということがなく、細かく粉砕されて堆積されているので、わけわからんのです。また、元山で精錬しているので、精錬後の屑石には商品価値がないので、掘った穴に戻しているという話も聞きます。ヒがあるのですが、保護されるべきもので、マニアが叩くのは慎むべきでしょう。
日本一の鉛・亜鉛を産し、インジウムを多く産した、世界に誇る鉱山だったことを、一札幌市民として誇りに思っています。

豊羽鉱山は、海抜550mの所に坑口があり、そこから、地下に600m掘り下げています。最下部の岩盤温度は160℃にも達し、熱水蒸気が噴き出すこともあるそうです。このような高温で使える爆薬がなく、これ以上の採掘はできないというのが、閉山の一要因のようです。

豊羽鉱山の鉱脈群は、北西−南東方向に4km、北東−南西方向に1.5kmの広い範囲に広がっており、命名された鉱脈だけでも50数条にもなります。命名規則があって、東西方向のものは昔の日本の国の名(信濃とか大和とか)、南北方向のものは北海道の地方名(渡島とか利尻とか)になっています。平均脈幅は3m、大きいもので20m〜30mもの脈幅があります。南側程温度が高く、また、鉱石の品位も高くなっていて、閉山の頃は、その、熱くて品位の高い部分(信濃ヒ、出雲ヒ、空知ヒ)を採掘していたようです。

2004年の生産実績によれば、年間、粗鉱量40万3千トン、月平均33600トン、鉱石の品位は、銀220g/t、銅0.2%、鉛2%、亜鉛12.5%、インジウム270g/t。インジウムの含有量は世界一で、世界のインジウム生産量の1割〜2割も占めていました。

豊羽鉱山の鉱床生成年代は、絹雲母K-Ar法による年代測定で、2.93〜0.49Ma(293万年前〜49万年前)です。第三紀鮮新世末〜第四紀更新世の中頃にかけての熱水活動により出来たようです。札幌近郊の鉱山の中では新しい鉱床です。


●地名「豊羽(とよは)」
 豊羽鉱山の生みの親である丹羽定吉の労に報い、豊平町の「豊」、丹羽定吉の「羽」から「豊羽」と名づけられました。


☆ 豊羽鉱山の沿革 ☆

 豊羽鉱山の発見については記録が残っていないようです。歴史に初めて登場するのが、明治25年の「北海道地質報文」で、白井川に硫化鉄、硫化鉛、硫化亜鉛の鉱脈があることが記されています。また、明治27年の「北海道地質調査鉱物調査報文」には、白井川鉱床について詳しく報告され、播磨ヒの露頭と思われる所に、3箇所の廃坑があったと記されています。この廃坑はかなり古いものだったとあり、少なくとも明治25年以前に、誰かが発見し採掘していたことになります。

 大正2年、当時の白井川鉱山を丹羽定吉が買収します。丹羽定吉は三井鉱山に在職中だった当時に白井川を調査し、主脈である数mの播磨ヒの露頭の他にも、周辺の沢に多数の鉱脈があり、品位も良好だったことから有望だと判断したようです。後、丹羽定吉は久原鉱業へ移り、買収した白井川鉱山を提供し、豊羽鉱山と命名され、同4年に操業を開始して本格的に開発されます。

 操業を開始すると、鉱山街の人口は増え300戸もの住宅、発電所、選鉱場、精錬場、学校、各種商店、などの施設も立ち並び、一大鉱山街をなし、定山渓温泉街より賑やかだと言われる程だったようです。しかし、第一次世界大戦後の大恐慌により、大正10年3月に操業停止に追い込まれ、鉱山街は姿を消します。

 しばらく休山状態が続き、昭和12年4月、久原鉱業から分離独立した日本鉱業が再開に着手し、石山に月産1万トンの選鉱場を建設、同14年7月に操業を再開します。第二次世界大戦による軍需の増大により大きく発展し、昭和19年には、鉱山街の人口は5000人にも達しました。元山の国民学校は、生徒数1000人に達し、豊平町内で最大規模だったようです。そんな最中、昭和19年8月13日に、地割れが発生し、白井川の水が坑内に流れ込み、その復旧工事の最中、台風の影響で川底が陥没、一気に坑内に水が流れ込み、総延長40kmの坑道すべてが水没してしまい、昭和20年4月、やむなく休山となります。

 昭和20年代、戦後の産業復興と食糧増産のための硫化鉱の確保を目的とし、豊羽鉱山の再開が叫ばれるようになり、昭和22年、道議会が復興を検討し「豊羽鉱山復興委員会」が発足。日本鉱業と折衝し、昭和25年6月、日本鉱業を共同鉱業権者代表とする、道策会社の豊羽鉱山株式会社が発足。水没した坑内の排水と取空けを行い、昭和26年に再開に漕ぎつけます。戦後の再開より、徐々に規模を拡大していきました。昭和36年には、戦前の生産量の2倍である月産2万トンに達しています。昭和26年に児童数36人でだった元山小学校も、10年後には2613人に達する程でした。

 昭和30年代、貿易自由化の影響を受けて体質改善を迫られ、昭和37年4月、日本鉱業と合併して、「日本鉱業株式会社 豊羽鉱業所」として再発足することになりました。以後、国際的競争力を付けるための設備増強と生産効率の向上が計られ、現在もある本山選鉱場が昭和44年3月に完成し、昭和46年には月産6万トンを達成しています。

 昭和40年代、ニクソンショックと円切り上げによる経済の後退の影響で、再び、構造的改革を求められた日本鉱業は、独立採算性の早期回復を目指して、昭和48年6月、日本鉱業の100%子会社「豊羽鉱山株式会社」が発足し、月産3万6000トンの生産体制となりました。

 幾多の困難を乗り越えてきた豊羽鉱山。海外の安い鉱石に対抗するだけの度重なる改革を続け、加えて、半導体需要の増大と共に、レアメタルであるインジウムの値段がここ10年で12倍程度になっており、豊羽を支えてきた要因なのだと思えます。

 しかしながら、地下へ掘り進む程に地温が上昇するここは、現在採掘している地下600m地点で岩盤温度が160℃に達します。耐熱性爆薬の開発を続けながら採掘を続けてきたものの、これ以上の高温に耐えうる爆薬がなく、採掘限界に達したといいます。さらに下へ鉱脈が続いていることが確認されてはいるのですが、採掘可能範囲の資源枯渇ということで、平成18年3月に閉山しました。豊羽鉱山株式会社は採掘権を放棄したようです。現在は、下川鉱業が権利を持っているようですが、どうするのでしょうね。


☆ 豊羽鉱山の鉱石 ☆



信濃ヒ鉱石
 深部の典型的鉱石です。幸いにして、信濃ヒで採掘された鉱石を分けて貰うことができました。閉山した現在では、ほとんど入手不可能だと思われます。鉛色に光っている部分が方鉛鉱。くすんだ黄色の部分が黄銅鉱。黒茶色の部分が閃亜鉛鉱です。信濃ヒは最下部の鉱脈で、品位が高く、銅の鉱石が現れるのが特徴のようです。銀は方鉛鉱と黄銅鉱に伴い、インジウムは閃亜鉛鉱に伴っています。サイズ:15cm×10cm


大和ヒ鉱石
 大和ヒの鉱石です。許可を得て採集したものです。方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱が鉱染している石英質の鉱石です。鉱化作用の初期に生成されたものです。サイズ:5cm×4cm


沢で見つけたマンガン鉱石
 これは沢で見つけたもので、恐らく菱マンガン鉱です。鉱化作用前期の炭酸塩鉱物生成時代の産物かもしれません。サイズ:7cm×7cm