轟鉱山

探訪日:2002/04/14など


轟鉱山は、明治時代に発見されてから閉山まで90年もの歴史を持つ、道内屈指の長寿な鉱山でした。主に金銀を採掘していました。
僕は、子供の頃一度訪れています。その時はまだ稼行していました。人気がなくて坑道が空いていたので、こっそり中に入ってみました。電灯がないその坑道は真っ暗で一寸先も見えない状態で、恐ろしくなって、奥へ行けなかった記憶が残っています。

さて、現在の轟鉱山は、昔の面影はあるのですが、坑道は埋め戻されています。林道の敷石に廃鉱石が使われており、ズリも残っていますので、鉱石拾いはできますが、ここで採掘されていた、金銀鉱石、轟石に代表されるマンガン鉱物は、容易には見つかりません。写真にあるプレハブは2006年現在、雪で潰れてしまった残骸が残っているに過ぎませんし、右下の写真の発電所施設も撤去されてしまいました。奉安殿や神社は残されています。

轟鉱山は、3つの地区に分かれており、下流から、下長屋、上長屋、三本股と言われていました。右写真は、鉱山街の中心だった下長屋地区です。植林されたカラマツ林になっていますが、道を中心に左右に平地が広がっており、ここにかつて、鉱山街があった名残を感じることができます。右写真にも写っていますが、林の中にひっそりと轟鉱山小学校にあった奉安殿が残されています。

●地名「轟(とどろき)」
 殖民広報によれば、「鉱脈の数多くある事、鉱脈の非常に広大なる事、山相の頗る良好な事等を思い付雄名を世界に轟さんとすの希望より、轟鉱山と名づけたり」とあります。



轟鉱山について
書籍に載っていますが、以下、簡単に書いておきましょう。
明治30年、余市町の尾張某氏が北海道鉱山株式会社に石炭調査を依頼。同社の鉱山技師「遠藤龍次」が現地調査を行ったところ、石炭は発見できなかったが偶然にも珪石脈を発見し、サンプルを分析したところ、優良であったことに始まります。
残念ながら、発見した北海道鉱山株式会社は試掘出願で出遅れ、先に出願した阿部某氏により旭鉱山として試掘精錬されていたようですが上手くゆかず、結局、北海道鉱山株式会社に売り渡し、轟鉱山と改名されたようです。

その後、優良鉱脈が次々と発見され拡大し、大正12年には、右写真にある発電所が竣工して精錬所ができ生産が向上。最盛期である昭和の戦前期には1000人程度を有する鉱山街が出来ていました。下長屋、上長屋、三本股の各地区に、合わせて40数棟の鉱山夫長屋、数件の飯場があり、中心街である下長屋地区には、小学校や郵便局、各種商店、銭湯、宿屋があったようです。

ですが、戦時中の昭和18年に金鉱山整理が行われた際、対象となり休山となります。この時、鉱山設備も整理されてしまいました。戦後、昭和38年に再開し、細々と探鉱、採鉱を行って国富鉱山へ送って精錬していましたが、国富鉱山が精錬をやめることとなり、昭和45年に再び休山してしまいます。

その後、昭和50年代に金の高騰があり、全国的に金山が見直されます。轟も例外ではなく、昭和57年に再開し探鉱します。そして、年間9000トン余りを採掘しましたが、金の高騰は続かず赤字に転じ、資源の枯渇(探鉱により予想される鉱量が残り少なかった)もあり、昭和62年、発見以来90年続いた歴史に終止符が打たれました。

現在は、写真の発電所跡も撤去され、坑道は埋められており、残存鉱量も乏しく、鉱山として採算が取れる状態にはないでしょうから、もう復活することはないのだと思います。ちょっと寂しいです。

参考文献:北海道金鉱山研究 浅田政広