大江鉱山 〜 稲倉石鉱山と山越えてお隣同士のヤマ 〜
探訪日:2004/11/23など
大江鉱山跡です。マンガン、亜鉛、鉛などを採掘していました。ここを訪れるのはざっと20年ぶり。懐かしいぃと思う前に初めて来た場所のような新鮮な気分でした。記憶とずいぶん違ってしまっています。当時はまだ建物が残っていて、建物のすぐ側まで入った記憶があります。今は土台だけしか残っていないばかりか緑化してもしている。ここにゲートあったっけ? う〜ん。この日一緒だった石仲間によれば、ズリや坑口はここからでは見えずもっと奥とのこと。ゲートより奥は立ち入り禁止で、ゲート前で探しました。事務所というか排水施設の方だろうと思いますが、時々様子見に来ます。ゲート前で拾ってる分にはお咎めないようです。春先と晩秋から初冬、アウトドアや観光には今一つな季節が石拾いには絶好。草木が枯れて見通しが良く良い季節です。
大江鉱山について
大江鉱山の発見のエピソードはわかりませんが、北海道鉱山株式会社への試掘権の譲渡が明治22年、試掘が同23年に行われており、明治22年以前の発見と思われます。明治23年試掘により「万歳ヒ」が発見され、操業することとなったようです。明治時代は「ポン然別鉱山」として、小樽にあった北海道鉱山株式会社が開発していました。
操業開始後、金銀鉛を採掘して急速に拡大し、明治27年には、鉱山街の人口が4300人余りに達し、二百戸余りの鉱山住宅が軒を並べ、選鉱所、精錬所、小学校、巡査駐在所、病院、旅館などがあり、食料品店などの商店が十数戸が営業していたといいます。
明治30年代に入り最盛期を迎えます。この頃は、6〜10万円の利益があったといいます。当時と現在では、貨幣価値に1万倍程度の差があると思うので、現在のレートでは、6億〜10億円ということになります。一方、従業員の日給は、多い人で78銭。現在のレートでは月に23万円程度となり、生活する上で不自由しない程度はもらっていたようです。
盛期は長く続かず、明治36年に入ると、銀価格の暴落により採算が合わなくなり、同年、小学校が廃校すると共に休山し、同38年には営業廃止届けが出されて、北海道鉱山株式会社は手を引いたのです。しかし、資源は枯渇してはいなかったのです。
明治40年代は三井家により細々と続いていたようですが、大正に入り、第一次世界大戦の景気を見込み、同4年、大阪の久原鉱業株式会社が60人程度の体制で操業を開始します。ここで「大江鉱山」と命名されます。しかし、大戦終了後の不況により、同9年に休山してしまいます。ちなみに、久原鉱業は豊羽鉱山も所有していた会社です。全国各地、朝鮮にも鉱山を所有しており、その数、鉱区にして695です。
昭和に入り、大江鉱山は、昭和4年、日本鉱業株式会社の所有となります。ただ、鉱業権が2つに分かれており、一方は田中鉱業株式会社です。戦時下の重要鉱物増産法により、戦争に役立つ金属が優先的に採掘されるようになり、大江鉱山は、金銀鉛から製鉄に用いるマンガンを採掘するようになります。大江鉱山の鉱脈には、菱マンガン鉱というピンク色のマンガン鉱物が大量に産します。これがターゲットです。徐々に人員増強を図り、昭和18年には、364人になったようです。マンガン鉱山として重要鉱山と位置づけられた大江鉱山は、戦時中の金山整理の影響もなく存続を続け、月産1万トン採掘したようです。この時の予想埋蔵量は62万トンと言われていました。
終戦と共に休山となりますが、昭和25年に大江鉱山株式会社が設立されて、操業が開始されます。ですが長く持たずに、同28年に日本鉱業株式会社の子会社である北進鉱業株式会社の所有となります。以後、生産力増強を図り、昭和42年には月産1万トンと、戦時中並に回復します。昭和45年には、隣接する稲倉石鉱山を買収して採掘を続けますが、徐々に縮小していき、昭和59年9月30日に、鉱量枯渇により休山となります。商業的に採掘可能な鉱脈が残っているのですが、これ以上開発の余地がないための閉山だったようです。
現在、大江鉱山は、写真にあるように、当時の鉱山施設は撤去されており、廃水処理施設だけが生きている状態なので、閉山したようなものです。
参考文献:余市町史