稲倉石鉱山 〜 日本一のマンガン鉱山 〜

探訪日:1984/05/06,2006/10/29


稲倉石鉱山は、最初は金銀銅の鉱山として開発されました。後、マンガンの鉱山として脚光を浴びます。戦前には日本一のマンガン鉱産出高を記録し、戦時中には道内の重要鉱山の一つとして指定されました。そして、戦後も存続しつづけた数少ない鉱山の一つです。稲倉石鉱山は地元で「桜マンガン」と呼ばれるピンク色の鉱石を採掘していました。これは、マンガン含有率40%程の「菱マンガン鉱」と呼ばれるマンガンの炭酸塩鉱物です。この鉱物を精錬してマンガンを取り出し、フェロアロイという合金に加工しました。フェロアロイは、製鉄において、脱硫、脱酸素、または、鉄の添加物として、大量に使用されました。戦時中は鉄の需要が高かったため、マンガンの需要も高く、かつ、戦時中の日本は世界から孤立していて、資源の輸入がままならなかったため、国内で賄わなければならなかった事情も重なり、高品位マンガン鉱を大量に埋蔵している稲倉石鉱山は、重要鉱山として発展し、1世紀もの間、採掘を続けました。
現在の稲倉石からは、当時の栄華を感じることはできません。採石場以外、何もないのですから。。。でも、今でも綺麗な桜色をした桜マンガンを見つけることができます。興味のある方は、是非とも訪れてみたください。

閉山の4ヶ月前、当時子供だった僕は、ここに一度訪れています。当時の稲倉石を詳細に覚えているわけではないのですが、道の両脇に巨大な施設が立ち並んでいた記憶があります。恐らく選鉱場や焼結炉だったのではないかと思います。


2006/10/29、日曜日に稲倉石鉱山を最探訪し確認してみました。現在、鉱山跡地は採石場となり関係者以外立入厳禁です。選鉱場があった手前1kmの辺りで鎖が張られて通行止めになっていました。見れた範囲内には、鉱山関係の建造物は何一つ残ってなくて、採石場の施設だけとなっていました。

下写真は、貯鉱場跡です。現在、土台しか残っていませんが、子供の頃は貯鉱されていて、色々採集させてもらいました。

●地名「稲倉石(いなくらいし)」
「エニクルシ(e-nikur-us-i)、そこに・林・付いている・もの(川)」が訛ったものと推定されるらしい。僕的に単純に訳すと「e(そこに)、nikur(林)、us(たくさんある)、i(ところ)」。稲倉石は、古平市街地より14km山に入ります。今でも山深いところです。採石場があることかわもわかるように、土壌が薄い岩石の山で、山肌に木が張り付いているような感じになっていることから、名づけられたのかもしれませんね。
でも、稲倉石という地名は昔の地図には載っておらず、本来の地名は、アイヌ語で「ペンケケナシオマナイ(penke-kenas-oma-nai)川上側の・木・ある・川)」というようです。"いなくらいし"と似たような意味ですね。


☆ 稲倉石鉱山の沿革 ☆

○金鉱山としてはじまる
明治18年7月、鰊場の薪を切り出していた大井嘉蔵、猪股五兵衛、和田清作の三名が稲倉石の沢において、薪材を流送中、偶然にも金鉱の露頭を発見しました。名をとって「大股鉱山」と名づけ、手彫りで採掘しましたが、まもなく資金が尽きて休止しました。

○金銀銅鉱山として稼動
明治22年5月、北海道鉱山株式会社が坑道を開掘し、金鉱坑、秀吉坑の坑道を掘って明金銀銅を採掘し精錬しました。当時、従業員は300人程度だったと言われています。しかし、日清戦争後の不況により経営が悪化、同31年に休山、同33年に放棄しました。

○金銀銅鉱山として発展
明治35年、田中鉱業株式会社が採掘を開始ました。次第に産出量が増え、稲倉石に精錬上を作るに至り、明治37年には75トン採掘し、金2823g、銀296kgを産しましたが、日露戦争後、海外から金が輸入されるようになったことから見切りをつけ、同44年に休山しました。

○マンガン鉱山としてのはじまり
大正6年、第一次世界大戦の製鉄ラッシュで、製鉄に必要なマンガン需要に目をつけた函館の国屋忠五郎が、マンガン鉱を採掘して売りました。これが、マンガン鉱山としての最初です。

○捨て置かれていたマンガン鉱石の出荷
大正7年1月から、久原鉱業系の東亜通商株式会社が、田中鉱業時代に掘り捨ててあったマンガン鉱石を馬で運び出荷していました。第一次世界大戦終結による需要減少により、同9年に休山となりました。

○マンガン鉱山として稼動
昭和4年11月、製鉄に必要なフェロアロイ製造をしていた株式会社鉄興社が、事業拡大のため、大きなマンガン鉱山を探して稲倉石に目を付け、踏査した結果、廃坑となった坑口からの流水中に、大量の酸化マンガンが沈殿していたことから有望と判断し、マンガン鉱山として開発を始めました。

○マンガン鉱山として発展
満州事変以後、海外からのマンガンが輸入がままならなくなり、国内供給が求められ、稲倉石鉱山は発展します。この時に、鉱山施設の基礎が出来たと言えるでしょう。昭和9年より、施設の増設にかかります。架空索道の設置、古平港の貯鉱場の設置(昭和9年)、選鉱場の設置(昭和12年)、焙焼炉の増設、索道終点よりトラック運搬開始、事務所や社宅の新築、尋常小学校設立(昭和12年)、診療所開設(昭和12年)、郵便局開設(昭和15年)、巡査出張所設置(昭和15年)、鉱石積み出し用桟橋建設(昭和15年)など、軍需好景気に支えられて、施設が充実していきました。選鉱技術も発達して低品位鉱が選鉱可能となり生産力が上がり、昭和11年にマンガン鉱産出高で全国1位になった以降、首位を突き進むことになります。

○戦後の好況
戦時中下、重要鉱山として最盛期を迎えていた稲倉石鉱山は、道内のマンガンの約半分を生産する程にまでなっていました。そこで終戦となります。需要がなくなったために、増産目的の第二・第三索道の建設は中止、生産も中止し縮小します。しかし、昭和22年頃からフェロアロイの需要が増え生産を再開し、同25年の朝鮮動乱までの間に、最盛期に近い生産量にまで回復します。しかし、同28年の朝鮮動乱終了、高品位鉱の減少などにより、道南の「上の国鉱山」に生産量で抜かれてしまいますが、グリナワルト焙焼炉の導入などにより低コストで高品位な生産を行うことができるようになり、需要の減少、海外からの安い鉱石の輸入、フェロアロイ生産業者の増加などの悪条件の中、昭和38年までは好況が続きます。

○大江鉱山と合併
昭和38年をピークに、赤字を抱えるようになります。埋蔵量的には十分と言われていましたが、鉱脈の品位の低下、深部での採掘・探鉱の費用、を鑑みると、経営が厳しい状況となっていました。稲倉石鉱山の母体である鉄興社は、独立採算による経営分離を組合側に提示しましたが拒否され、大江鉱山を経営している日本鉱業系列の北進鉱業に売山することを決定し、交渉の末、組合と合意。同45年合併します。大江鉱山は、稲倉石山を挟んで反対側に位置し、鉱床は繋がっているらしく、坑道はあと2km程の所まで接近しており、鉱区の問題が浮上していた所だったので、丁度良かったのかもしれません。

○そして閉山
合併後、人員を大幅に削減し、月産2600トンを生産し、鉱石は新潟と宮崎へ供給していましたが、昭和59年9月に、ついに閉山となりました。そして、現在は採石場です。一般人が立ち入ることができる範囲には、当時の施設は見られず、稲倉石小中学校のあった整地に、採石場の事務所や砂利処理施設と砂利の山、そして、稲倉石の沢沿いの道沿いにも、あちこちに砂利が積まれています。
参考文献:古平町史

☆ 稲倉石鉱山の鉱石 ☆

現在、稲倉石鉱山跡地には、プロピライトの砂利が敷かれ積まれしています。それは、ここいら一帯は第三紀のグリーンタフ層が分布しており、採石場はそれを砕石しているためです。ここは、菱マンガン鉱を主とする鉱床で、主にそれを採掘していたので、品位に拘らなければ、菱マンガン鉱はたくさん拾えます。ですが、伴っているはずの方鉛鉱や閃亜鉛鉱は見かけないです。
他、鉱石ではないですが、瑪瑙や碧玉も多く見られます。鉱床を作った熱水活動は、周辺の岩盤に貫入し、瑪瑙や碧玉の脈を沈殿させたようです。


低品位鉱
閉山してから20年余りを経ましたが、菱マンガン鉱を主成分とするこのような低品位鉱石はまだまだ見つかります。表面が酸化して真っ黒になっていますんで、割ってみましょう。大概このタイプです。このサンプルは黄鉄鉱が鉱染しています。鉛色の部分がそうです。
サイズ:11cm程度


葡萄状の菱マンガン鉱
稲倉石ではこのタイプの菱マンガン鉱が有名です。博物館やお店に飾ってある稲倉石の鉱石は、このタイプが多いです。徐々に沈殿していった様子がわかります。ただ、このタイプは、現在の鉱山跡ではなかなか見つかりません。このサンプルは、稼行当時、鉱夫さんに頂いたものです。
サイズ:12cm程度


菱マンガン鉱(結晶の集合)
結晶の集合体で、ハッキリとした劈開がわかります。野外にあったので、結晶の隙間に泥や酸化膜が出来ていて黒ずんでいますが、結晶自体は綺麗なピンク色で、透明感もあります。
サイズ:12cm程度


菱マンガン鉱(結晶片)
小さな結晶片ですが、いい色をしています。この程度の色合いであれば、装飾品に使えるかもしれません。
サイズ:2cm程度


方鉛鉱
現在の鉱山跡では、方鉛鉱は拾えなかったです。これは、稼行当時、鉱夫さんに頂いたものです。
サイズ:6cm程度


めのう
プロピライト中に出来ているめのうです。過去の熱水活動の産物でしょうね。砂利の中に混ざっているので、探してみましょう。基本的に砂利サイズ。
サイズ:3cm程度


碧玉
これも、プロピライト中に出来ているもので、碧玉です。昔は大きな塊があったのですが、今は小さなものしか見当たりませんでした。これも、基本的に砂利サイズに砕かれていますんでねぇ。
サイズ:2cm程度