当山は江戸時代初期、国内に鬼子母神信仰が栄へ
当地にも鬼子母神を信仰する者が増へて鬼子母神堂が
正徳二年(1712年)に創立されたことを始めとすると伝えられている。
当時は巨木の林立する深山で大山と呼ばれ、峠には
豊前(小倉藩)と筑前(黒田藩)の国境いの砦が有り、わずかに小道が通じていた。

嘉永年間(1850年代)、猪膝(イノヒザ)村に染物屋の元四郎という人があり
最愛の娘を失って人生の無情を感じ、妻と家を捨てて救いを求めて修行の旅に出た。
諸国を遍歴し寺々を訪ねて教えを乞い、京都にたどりついた元四郎は法華経に出会い
出家得道して僧となり周天院日輝(シュウテンインニッキ)の僧名を授かる。
以来修行を続け本山の使い番(本山と各地の寺院の連絡係)として各地を巡っていました。

たまたま故郷を通り家を訪ねると、妻は亡くなり家もくずれ、
日輝の足跡は皆無に帰していた。
当地にはいまだ法華経、御題目を唱える者は一人も無く、意を決して当地に留まり
大山にこもり修行を続け、山中の大岩に法華経御題目を刻しました。
今も山中に八ヶ所残っています。
また聖木を得て鬼子母神を彫刻し勧請(カンジョウ)しました。
鬼子母神の御利益と日輝上人の法力は次第に高まり九州はもとより
中国・四国地方よりも参詣する者が多くあり次第に信者が増えてまいりました。

時あたかも江戸末期、国内では第二次長州戦争が始まり
親藩である小倉藩は隣接する長州藩との戦いに備へ
藩内の勤皇思想分子を取締り、彦山の僧を処断しました。
日輝上人の高名をねたむ者は、これ幸いと藩に訴へ
山中にて謀反を企てている者として逮捕され小倉の牢に入れられましたが
牢内にても御題目を唱へ続け安政四年(1857年)九月十八日、牢死されました。

人々は今日蓮(イマニチレン)とその名を讃え鬼子母神を守りました。
明治維新の廃仏毀釈(ハイブツキシャク)では鬼子母神像も
打ち割られそうになりましたが、信者の平嶋家に難を逃れました。

以来あまたの人々が鬼子母神に参詣し、堂を守り続けました。
昭和十二年日輝上人の孫である西村小次郎氏の発願により新諸堂が建立され
地元の中村武文氏を中心として大法山振興会が結成され、境内の整備がなされました。

昭和十四年、日蓮大聖人御入滅霊践(ゴニュウメツレイセキ)
大本山池上本門寺の別院となり、初代別当として藤山英燐、日解上人が就任
昭和十七年、大法山天愼寺として宗教法人設立がなされました。
昭和四十年代より周辺が開発され、道路の整備がなされ
それにともなって参詣の便も良くなり、境内まで車で登れるようになりました。
有縁の方々の協力により昭和四十九年より諸堂の整備に着手
二十年の時を経て、平成十五年十一月バリアフリーの新本堂建立により
総てを完了しました。

新本堂には、日蓮大聖人お手植の弘布梅(コウフウメ)の聖木を使った日蓮聖人像を安置
その頭上には日本最長、十三メートルの日本刺繍の
飛天欄間額(ヒテンランマガク)が掲げられています。
一万坪の境内に諸堂が点在し、自然豊かな環境で心を癒し、キャンプを楽しみ
鬼子母神様に参詣する方々で満ち満ちているお寺です。