「郷土誌あさひかわ」に2007年6月から投稿しています。思いがままのテーマで書き綴っていますので気楽にお読みいただければ幸いです。
 13年8月号が発行されました。

    汽車通学

 昭和四十一年四月から高校に進学し三年間汽車での通学だった。朝、五時半には起床し、六時二十分に深名線湖畔駅(既に廃線になって久しい)から乗車、名寄駅には七時三十分に到着。高校までは徒歩で二十分余り。この時間に登校しているのは、深名線で通学している生徒だけだ。一時限の授業が始まるまでは相当時間があり、冬は石炭ストーブを囲んでワイワイ話しをしながら一時限の授業が始まるのを待ったものである。
 帰りは午後四時四十分に乗車。その次は夜中の十時ぐらいに自宅に到着する最終列車になるので、部活に参加している者以外は、この便になるのだ。
 汽車通学は、楽しい思い出もあるがあま
り楽しくない思い出もある。一年生の時は席が空いていても椅子には座らないで立っていた。座るとまず上級生に殴られることになってしまうからだ。未だに理由は解らないのだが上級生の三年生が卒業する時には、だいたい一・二年生は最低でも一発は殴られた。腹立たしかったが誰も反抗はしなかったと思う。私が卒業するときにはそんなことはしないと誓い、後輩を殴ることなく卒業した。
 汽車とは言っても現在のディーゼルカーよりも小さいレールバスと呼ばれるコンパクトカーだったので大雪になると、運休になったり、途中で立ち往生したりと、冬の通学は悪戦苦闘だった。ラッセル車による除雪や機関車と連結したロータリー車の豪快な排雪の後を走っていった記憶が今も鮮明に浮かんでくる。

 
本文へジャンプ
白 鳥 秀 樹
旭川市議会議員
のホームページ