「郷土誌あさひかわ」に2007年6月から投稿しています。思いがままのテーマで書き綴っていますので気楽にお読みいただければ幸いです。
|
我が家の変遷(二) 山奥の家は、冬には雪深く住むには大変だと、朱鞠内湖に程近い旧市街という所に古い家を買い求め、冬はそこに住んだそうだ。しかし、洞爺丸台風(一九五四年)の時に屋根などを吹き飛ばされ、使用不能となり、解体。 まもなく中古の家を買い求め、その材料を使って中二階の家を建てたという。屋根は柾葺きで外壁は板張り、断熱材として稲藁を壁の中に入れてあったと思う。内壁はベニヤ張りだった。初めてベニヤ板が生産された頃で、それを使用したのだから、きっとハイカラだったのだろうと思う。ただ、冬のシバレタ日はベニヤ板が霜で真っ白になっていた。布団の襟が真っ白だったので当然かもしれない。風呂は五右衛門風呂。馬小屋と薪小屋もあった。 |
その後、八坪ほど増築し、雑貨店も営んでいた。冬は中二階のため、雪に埋まってしまい、正月が過ぎると雪ハネが大変だったという記憶がある。 高校を卒業後旭川に転居。東旭川を中心に数カ所の借家を転々とした。兄や妹が結婚して家を離れ、両親と叔父と私の四人家族で家探しの日々が続いたのだ。。 私は、父がこの世を去った後の三十歳の時、一念発起し、東旭川の地に家を建てることにした。兄や義兄が、大工や建築業を営んでいたこともあり、決断は早かった。セラミックブロック造二階建の二世帯住宅である。一階には母と叔父、二階には私と妻そして一人娘が後に生まれ三人住まい。二階からの眺めはすこぶる良かったが築十一年後、二世帯住宅を解消するため、その家を売って、今の家を建てた。 |