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401.  馬淵川の鉄橋二題  ・東北本線 /一戸〜諏訪の平
--馬仙峡、浪打峠、鳥越隧道、九戸城-

〈0001:bO81063:第9馬淵川鉄橋、226レ旅客列車〉

〈撮影メモ〉

馬淵川は馬仙峡谷を抜けた直後で川幅は70mと上流に比べて30%もせまくなっており、洪水時の推移を上昇をこうりょしたのであろうか高い橋脚がもうけられている。開通当時は山陰本線の餘部鉄橋で有名な鋼トレッスル形式の高い橋脚が設けられていた。

〈0002:bO81045:C60 9号、第1馬渕川鉄橋〉




〈撮影メモ〉
三戸−諏訪の平 間に架かる最下流の第1馬淵川鉄橋。北上山地も奥羽山脈も遠ざかり、平野を一路太平洋へ向かう馬淵川の背後には民家と杉林の散在する里山風景が広がっていた。

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〈紀行文〉
東北本線と、それに並走する国道4号線(旧 奥州街道)は仙台平野へ出ると間もなく北上川に沿って東に迫ってくる北上山地と西に遠望できる奥羽山脈に挟まれた開けた谷間をひたすらさかのぼって北上していた。やがて盛岡を過ぎると左手近くに標高 2,037mの岩手山が、続いて奥羽山脈の八幡平(標高 1,613m)から分かれた七時雨山横列の山々が奥羽山脈の前衛のように近寄ってきて、北上川はいよいよ源流へと近ずいて来たようだ。やがて東北本線・国道4号線の両者の最高地点である十三本木峠(標高 466m)を越えると、補く流する馬淵川流域の険しい谷間を下るようになる。この峠からは七時雨山横列の東端にそびえる西岳(標高 1,018m)を源にする小繋川野谷となり、かなり下ってから平糠川となり、小鳥谷の北で東側の北上山地の山稜を源流に流れ下って来た馬馬淵川上流部と合流して、水量、川幅ともに増した馬淵川中流は一戸の開けた谷間を抜けた。その先には断崖と渓流・淵などから成る美しい峡谷地形をなす「」馬仙峡」を下ってる。そして、この流域の中心地である二戸を過ぎると、やがて青森県に入り、
三戸で谷を抜けて平野へ出て、流れの向きを北東に変え、八戸の河口で太平洋へ注いと延長 142qもの長い旅を終わっていた。この平野部に出た辺りで東北本線は馬淵川沿いを離れて北上することになる。
ちなみに、盛岡以北で東北本線が北上川を渡る鉄橋は沼宮内の前後の2か所だけであるのに対して、馬淵川水系では支流の小繋川で7か所、馬淵川では12か所の多くを数えていることからも、馬淵川流域の地形がけわしい谷間であることを物語っている。
ここでは、三重連の北の拠点である一戸から北へ向かう東北本線と馬淵川とのかかわりについて、その上流の第九馬淵川鉄橋と、最下流の第一馬淵川鉄橋を渡る列車の写真を交えながら沿線の風物に触れてみたい。
 先ず、この馬淵川は奥中山三重連の南の拠点となっている沼宮内の北東の北上山地の山中にに開けた葛巻町の東部の袖山(標高 1,215m)が源流であった。ここを発して南へ流れた後、北西に向きを変えて流下り小鳥谷で小繋川、平糠川を合わせて谷間が広がった一戸を下って行く。その先では西の北奥羽山脈にある稲庭岳(標高 1,078m)から鳥越山(標高 332m)を経て、折爪岳(おりづめだけ、標高 852.5m)の南に連なる北上山地へとつながる尾根に行く手をはばまれていたのだった。
実は、この丘陵に突き当たる手前で、最大の支流である安比川が馬淵川の左岸に合流していた。この川は八幡平の東部にある茶臼岳(標高 1,578m)に源を発し北東へ流れ、八幡平か北へ続く七時雨山横列と奥羽山脈との間の谷を北上し、ん七時雨山横列の干菓子端の西岳の西山麓を回り、奥羽山脈の稲庭岳の山肌に阻まれて東に向きを変えて一戸と二戸との町の境界を流レ下って馬淵川へ注いでいる延長 55qの第支流であった。この谷筋は国道104号(八戸-大館)、旧 浄法寺:じょうほうじ街道・旧 秋田街道)、国鉄花輪線、東北自動車道などの通る重要ルートとなっている。この街道の中ほどにある奈良時代創建の天台寺のある浄法寺氏の居城がおかれた浄法寺地区は、中世にはこの地方の中心地であった。また、江戸時代の南部藩は鹿角(かずの)の山中で産する銅地金を関西へ出荷するために野辺地港へ輸送する銅(あかがね)街道として利用していた。ここで少し寄り道をして天台寺について触れてみたい。この寺は奈良時代神亀5年(728年)に行基菩薩が聖武天皇の命を受けて、八葉山と命名し、山中の桂の大木を刻んで本尊聖観音菩薩とし、天皇直筆の額を掲げて開山したものという。中世を通じて東北の仏教の中心地として栄えた。きかし、明治維新後に政府が発した「神仏分離令」による大きな被害を受けてしまい、領のぼっしゅうや、堂宇の破壊などを受けて荒廃してしまった。この寺を復興したのは、1976年に天台宗東北大本山中尊寺貫主であった今春聴(著名な小説家でもある今東光さんの法名)が復興職を拝命し復興活動に取り掛かった。その後を引き継いだのが1987年に住職に就任した春聴の法弟子である瀬戸内寂聴(この方も著名な女流小説家)は、在職中に天台寺を岩手で有数の参拝者の多い観光寺院にまで復興したことで良く知られている。
 さて、この第支流の安比川を合わせて流勢を増した馬淵川は目前の丘陵を侵食しつつ深い峡谷を刻み蛇行しながら通り抜けている。この長さ 2qにも及ぶ絶景は国分岩手県知事によって「馬淵川にある仙境」を指す『馬仙峡』と名付けられた。ここの左岸の急傾斜面に約280mの間隔で高さ 180mの男神岩と、高さ 160mの女神岩が直立し、それに一枚の砂岩が長い間の水食を受けて山塊に露出した大崩崖がある。その直下の明神ヶ淵や大淵などを挟んで対岸に鳥越山(標高 375m)がなだらかな山容を見せており、この一帯はモミジ、カエデ、ブナ、ナラ、ナナカマドなどの落葉樹林になっており新緑、紅葉の頃の美しさを誇る国指定の名勝となっている。また、この男神岩・女神岩の周辺の地域は安山岩からなり、爆発を繰り返しつつ隆起した海底火山の火口の一部が残存したものと考えられている。また、鳥越山の頂上付近の南面崖地には、火成岩の脆弱な部分が空洞化して形成された洞穴(内部に観音像が祭られている)がある。この全国で最大の陸上巨岩は天然記念物の指定を受けているとのことである。
 さて次に、旧 奥州街道はどのようにこの難所を越えていたのであろうか。川沿いは危険で通り抜けることは不可能で、鳥越山の東側の鞍部を峠で越えていた。この奥州街道の一つ南の宿場である沼宮内宿からは馬淵川左岸の山の中腹を通って現在の一戸駅の先で馬淵川を渡って右岸(東岸)の河岸段丘の上に江戸から92番目の宿場である一戸宿の街並みが設けられた。一戸宿を抜けると国道4号線の下をくぐり、さらにその先にある高速自動車道(八戸道)の下を抜けて、左へ流れて馬淵川に合流する小井田川の橋を渡って浪打峠(なみうちとうげ:標高 295m)に向かって上り坂となる。
  この先の峠付近は、歌枕「末の松山」で知られた場所であり、百人一首にも選ばれている一句がある。
『契りきな かたみに袖を しぼりつつ
    末の松山 波越さじとは    清原元輔』
(現代語訳:互いに袖をしぼりながら約束したじゃないですか。末の松山を波がけして乗り越えないように、ぜったいに心変わりはしないと。それなのに、あなたは…)
この頂上付近に盛岡から北へ15番目の一里塚が左右1対残されている。その先の頂上の切り通しの正面の岩肌が、国の天然記念物に指定されている「浪打峠の交叉層(クロスラミナー)」がある。ここでは、末の松山層下部の粗粒砂岩層の中に顕著な交叉がみられ、美しい縞模様を持ち、かつて浅い海底で堆積した地層であることを示していた。この辺りの地質は、
約2300万年前から180年前までの新生代第三紀の門の沢(かどのさわ)層と、
その上に重なる末の松山層からなり、二枚貝、巻貝、腕足類などの海生動物化石を多く含んでいるとのことである。
 その先に丁字路があり、直進が元 奥州街道 福岡宿・九戸城跡(現在の二戸市) 3.5q、左折:鳥越山に祭られた鳥越観音」である。ここから下り道が続いているが、やがて浪打峠の下には長さ 629mの市道の末の松山トンネルが通じていた。
この先の福岡宿は中世の九戸城の城下町として繁盛していた所である。
 ここで、統治を戦乱に巻き込んだ「九戸の乱」に寄り道したい。ここに登場した“九戸氏”は現在の九戸郡を治めた南部氏の一族が九戸氏を名乗り、その後勢力を伸ばし福岡地方を統治するようになった。そして、九戸光正が明応年間(1492〜1501年)に福岡の地に築城し、馬淵川を上下する収運を支配して着実に勢力を拡大した。その九戸城は東を白鳥川、西を馬淵川、東に白鳥川の支流猫淵川に三方を囲まれる断崖に面した南西方向から延びた台地の北東端部の標高137m(比高 35m)に築かれた中世的な平山城である。その城の規模は東西700m×南北500mで、東京ドーム10個ほどと広かった。その城縄張りは本丸・二の丸の中枢部を外郭が取り囲む東北に多く見られる形式の城である。
さて、南部では4代晴政の死後、南部の跡目騒動が起こった。この混迷の中で信直が南部26代目を継ぎだ。
そして天正18年、秀吉は小田原城攻略を終えて残っていた奥州仕置を開始した。ここで秀吉は小田原攻めの際に不参陣であった奥州のの諸氏を追放したのだが、仕置軍が去ると残党が騒動を起こしたことで、欧州北部は不穏な状況になった。この機に乗じて、
九戸城の九戸政実は翌年3月に挙兵する。秀吉傘下に属していた南部宗家の南部信直は苦戦を強いられたが、9月に入ると奥州再仕置軍が馬淵川流域に到着した。
城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。九戸政実はこれら再仕置軍6万の攻撃に、僅か5千の少数の兵で健闘したが、城兵の半数が討ち取られた。そこへ浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた。九戸政実はこれを受け入れて、弟・九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国などと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏する。浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、しかし助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられた。その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。これが1591年(天正19年)に起こった九戸の乱の経緯である。
またこの乱を扱った作品には、渡辺喜恵子『南部九戸落城』、高橋克彦 『天を衝く - 秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実』、安部龍太郎『冬を待つ城』などがある。
九戸の乱が終わって、秀吉の奥州仕置により秀吉配下の諸国大名となった南部信直はに和賀・稗貫・志和の三郡が加封された。この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を豊臣流に改修し、南部信直に引き渡した。信直は南部家の本城として三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた。その子の利直の時の元和元年(1615年)に、不来方(こずかた)の盛岡城に移り、寛永13年(1636年)に福岡城は僅か30年で廃城となった。そして、その遺構は中世の城のあとを良く残していることから
国の史跡となり、名勝も九戸城とされている。
さて、話をもどそう。一方の国道4号線は取越え山の西側を鳥越峠(標高 137m)で越えて、馬淵川の峡谷美を見下ろしながら通り抜けて二戸へ通じていた。
これに対して日本鉄道では馬淵川左岸を北上して来た線路は対岸の二戸宿の街並み途絶えた先で右岸に渡って鳥越山の直下に隧道を貫いて再び左岸に渡って二戸の宿場の街並みを避けて北上するルートとなった。この日本鉄道が東北線を建設にするに当たっては、多少の勾配や迂回をしても極力隧道の掘削を避ける方針をけんじしていたのであったが、この局面では延長 1,056mの鳥越隧道の掘削も止むを得ないと判断されたのであった。そして、明治22年(1899年)3月に着工し、約2年弱の難工事に突入した。この工事を難しくしたのは、隧道が10‰の片勾配であったこともあって、百間(180m)も掘ったら空気が入らないので苦しくて仕事ができなかった。そこの換気を維持するために、約30cm角の木製の樋を設けて、坑口から4人掛りで空気を送り続けたと云うのだった。この坑口には石組みのポータルが造られ、上武には「鳥越ずい道」の扁額が据えられ、内部は煉瓦で巻き立てられていた。現在は両脇に電化時に新設された上下の単線トンネルに挟まれて存在している。
 ここで、私の訪ねた昭和42年頃の
一戸駅から北福岡駅(昭和62年から二戸駅)までのルートをたどってみよう。
一戸駅を出た列車は街中をぬけて馬淵川を長さ 102.2mの第10馬淵川鉄橋で右岸に渡り、3.1qほど来ると鳥越信号場となり。この先は単線で長さ約1qの鳥越トンネルに入る。ここを抜けると左車窓には馬仙峡の一端をながめられよう、やがて長さ 70mの第9馬淵川鉄橋を渡り再び左岸にもどって、ちょうど旧 奥州街道の福岡宿の街並みの対岸に位置する北福岡駅に到着した。ここの標高は 111mだから一戸駅から約35mほと下って来たことになる。この第9馬淵川鉄橋は1956年(昭和31年)に開業当初の鉄橋を架け替えたものであった。この1891年に開通した初代の鉄橋の形式はプレートガーターであった。そして、この桁を直接支えているのは高さ15mの錬鉄製トレッスル(鉄構橋脚)は切石の
橋脚の上に固定されて足を開いて「ふんばった」姿であった。この形式は馬淵川の峡谷に多く使われており、そのいずれかが元 足尾線の足尾−間藤 間の第2松木川鉄橋に流用されて、現役で活躍中である。このトレッスル鋼材に取り付けられた銘板には
(PATENT SHAFT AND AXLETREE CO.LD. ENGINEERS 1889 WEDNESBURY)
の模試が判読され、遠くイギリスがら輸入されて日本鉄道の東北線につかわれたのであることを物語っている。この現存する鉄橋については、
〈283. “あかがね”の故郷への道・足尾線/足尾−間藤−足尾本山〉  
をご覧下さい。

撮影:昭和42年(1967年)11月4日。