自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・厳冬のオホーツク海岸を訪ねて(釧網本線)
249.  積雪の斜里岳をバックに ・釧網本線 /止別−斜里 間

〈0003:bR17115:斜里岳遠望・斜里−停別〉


〈0001:bR1−70−6:積雪の海別岳遠望・浜小清水−停別〉


〈0004:「わが国鉄時代」掲載の写真〉





〈撮影メモ〉
現像してみたら、縦画角を効果的にって、雪原にカラマツ並木の影が伸びる印象的な美しい写真となっていた。牽引機はC58 33で、後藤式切り欠きデフにはJNRの文字が知られた。

〈0002:31−7−5:雪原のなかに防風林を探して〉
釧網本線・止別→浜小清水

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〈紀行文〉
 早朝に沖の流氷の上から北浜駅を発車する列車を1本撮ってから、次の列車で斜里駅まで乗り鉄をして広大な雪原を前景に長くすそ野を引いた斜里岳を程よく遠望できそうな場所を車窓から探してみたところ、止別駅を過ぎて車窓右手の砂丘が終わった先当たりで狙うことにした。地形図を眺めると、今までオホーツク海岸に沿って知床半島の付け根にそびえてる海別岳(うなべつだけ)を目指して東北へ向かって走ってきた釧網本線の線路が向きを西南に変えて斜里岳の方を向かおうとする所があるようで、そこなら海辺から線路までは草原に雪が積もっているはずと思われたからであった。やがてしゃり川鉄橋を過ぎ築堤を下ると斜里駅に着いた。
北海道時刻表で駅前から止別駅前経由の原生花園行きがあることを知っていたので、すぐさまバス停留所へ行ったのだったが冬季運休であった。その辺りをウロウロしていると、停留所の切符を売っている店の建物の壁にとてつもなく大きな魚拓(釣った魚の形を、墨を使って紙などに転写して記録したもの)が飾ってあるのを見付けた。驚いたことに体調が1mはありそうな菱形をした巨大な「エイ」であった。説明文によるとピアノ線を使った釣り糸に「いか」を餌にして知床沖で釣り上げた代物(しろもの)であるとのことであった。まさにオホーツク海の自然の大きさに驚きながら説明板を眺めていたことを今でも鮮やかに思い出すのであった。
やおら、駅前にたむろしているタクシーの運ちゃんに「線路が波打ち際から少々離れてもよいから、斜里岳をバックにSLを撮りたい」と云って、止別駅の方向へ向かって送ってもらうことにした。既に流氷は北浜で撮っていたから、今日はもっぱら斜里岳に集中して、半日を歩き回って過ごしたのだった。
この辺りは斜里平野の畑作地帯の北辺に当たるはずで、一面の雪原が広がっていた。なんとか北海道の風物詩である防風林をポイントにしたいと探し回った。この地方では農家の人たちが畑を風から守るために、あるいは境界のためにカラマツやポプラ、シラカバを植えて育ててきていたし、それとは別に、開拓の人たちが入植する前に、この斜里平野を覆っていた原生林を帯状に残して防風林として利用している部分が多いと聞いていたからであったが、線路の通じている海岸の近くでは見付けることは難しかった。
さて、ここで山の話題に入ろう。先ずオホーツク海と太平洋への川の流域を分ける大分水嶺の山の連なりを石狩山地の三国山(三国山(標高 1541m)より東へ追って行って、弟子屈(てしかが)から網走へ抜ける美幌峠(標高 496m)から始めるとしよう。ここを東へ藻琴山(標高 1000m)、野上峠と屈斜路湖のカルデラとなり、摩周岳(標高 857m)に続く。摩周岳の北より清里−中標津(しべつ)間の清里峠(標高 438m)を通り標津岳(標高 1,061m)、そして斜里岳(標高 1,061m)を通り、斜里−標津間の根北峠(標高 491m)より東の海別岳(うなべつだけ、標高 1419m)、羅臼岳(標高 1,660m)、知床岳(標高 1254m)などの知床連山に続き知床岬に達していた。
その斜里岳は知床半島の山々から続く半島の付け根から美しい山すそを描いたピラミット型をしていて、千島火山帯に属する火山なのである。これは深田久弥さんの日本百名山にも数えられている。続いて斜里岳の左側で、知床連山の東端にある羅臼岳との間に鎮座する標高の高い割にはなだらかな山容を見せている海別岳についても触れておこう。この「別海」と紛らわしい“海別(うなべつ)”とはアイヌ語の「ウナペツ」は「灰川」を意味しており、約50万年前の大噴火によって全山が灰に埋まったとのころが由来であると云うのだった。この山へは夏は道がないが積雪時には山スキーのメッカとなるそうだ。
これらの山々のオホーツク海に面した広大なすそ野は斜里平野と呼ばれ、斜里川(延長 54.5km)と止別川(全長 40km)に囲まれたほぼ三角形の小清水台地であって、その表面には厚く火山灰が覆っており、奥は深い森林、それに続いて牧草地や畑の風景が広がっていて、ビート(てんさい)、馬鈴薯、にんじんや麦類などを大規模農業で生産し、や牧畜・酪農も盛んである。そこを潤しているのは、斜里岳の南麓に源を発して時計回りに流露路を取って流れる斜里川、屈斜路湖の東麓を源とする止別川などが多くの湧水を集めて流下しており、その流れは鮭、カラフト鱒などをはぐくみながらオホーツク海へ注いでいる。この山の名となった“斜里”はアイヌ語の「サル」、または「シャル」より転化したもので、「芦(あし)の生えている所」に由来しており、斜里平野や斜里川の河口付近には葦が茂っていたのであろうか。
さて、網走からの網走本線は大正14年に斜里まで開通していたが、釧路側は釧路湿原を縦断する工事が難航し、標茶(しべちゃ)に達したのは昭和2年であった。さらに摩周(今の弟子屈)までは明治時代に硫黄山の硫黄を運んだ釧路鉄道(安田財閥が創立)の路盤を活用して昭和4年に開通し、根釧路と北見の国の
境を釧北トンネル(延長549m)で貫通して、昭和6年に斜里へ到達して全線開通した。そして網走−釧路は釧網線となった。その後昭和11年に釧網本線となり、支線としては根北線(斜里−越川)や標津線の他に、東藻琴村営軌道、北見鉄道(止別−小清水)、小清水軌道(浜小清水−小清水)、上札弦森林鉄道(本流線、オニセップ線)などの地方鉄道、殖民軌道や森林鉄道などが各方面に分岐して、内陸開拓に大きく貢献したのであった。

撮影:昭和44年

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・厳冬のオホーツク海岸を訪ねて(釧網本線)のリンク
84.★ C58:流氷の北浜海岸(釧網本線)
250. 幻想の止別川(やんべつかわ)橋梁・釧網本線/浜小清水−止別 間
253. 雪景色の中の石北本線・網走〜常紋(信)