自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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222. 北辺の96、流氷の枝幸海岸を行く ・興浜北線/目梨泊→斜内

〈0001:35-14:流氷のオホーツク枝幸海岸〉
チン厳冬の枝幸海岸を行く96・興浜北線(目梨泊→斜内


〈0002:35-42:冬の神威岬の先を回って〈
流氷の神威岬を回って・興浜北線(目梨泊→斜め内

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〈紀行文〉
 昭和49年の冬の道東への旅の一こまである。その日は興浜北線を訪ねて、午前中は斜内駅と目梨泊駅との中間にある「斜内山道」と呼ばれた街道の難所であった北見神威岬(かむいさき)のサミットを行く下り貨物列車を撮影した。そして戻ってくる列車を狙うために目梨泊駅を素通りして山臼乗降場までの約4.5kmの強行軍を敢行した。ここには北風を避けられる小さな待合所があったので一息入れることができて助かった。この辺りは海岸に岬こそなかったけれどども、山の斜面が海際まで続いていて、線路は国道よりもかなり高い所を通っていた。そして山側の迫った急傾斜面を登りに登って大きな岩塊が突き出している下まではい登って、北方向の神威岬が俯瞰できる場所を選んで腰を落ち着けた。ここからは戻って来る貨物列車が流氷にすっかり閉ざされてしまったオホーツクの海浜、それに並行している国道と鉄路が北上しているを姿が遠くから眺められたし、北を振り返れば遠く神威岬と目梨泊の入り江が何とか俯瞰できたのに満足して三脚を据え始めた。ここから枝幸方向はカラーを詰めた6X6のローライフレックスを手持ちで、北の神威力岬方向はモノクロを詰めた6X7のコニカプレスに望遠を付けて、三脚に装着してアングルヲ定めて、時のくるのを待ったのだった。
遠くに煙が上がってから目の前を通過して、岬の先を回って視界から消えるまで一〇数分は掛かったように思われた。もう一台の35ミリカメラはその道程を余すところ亡くショットしたことは云うまでもない。やはり、このような高い場所からの俯瞰では、視界から去ろうとして行く列車の方が風情があるように思われた。
この興浜北線を乗り鉄した沿線風景は別 サイト:SL2 1.HTML〉 に譲ったので、ここでは興浜北線の歴史について触れてみたい。それには興浜北線の親に当たる天北線の生い立ちから始めることになる。
先ず、旭川から稚内を目指した天塩線は北海道鉄道敷設法に基づいて建設がはじまったが、名寄まで延伸したところで、日露戦争で資金難となり工事が中断され、天塩川に沿った音威子府(おといねっぷ)駅に達したのが大正元年(1912)であり、その年に線名が宗谷線に改称された。その先は、そのまま天塩川に沿って幌延を経て日本海岸に沿って北上するルートと、天塩川から離れて北見山脈を越えてオホーック海に出て北上を続けるルートとが検討された。そしてオホーツック海岸経由が北オホーツク原野への入植と開拓の効果が高いと評価され優先されることになった。
この音威子府からオホーツック海岸へでるルートとして鉄道省は当初、宗谷線咲来駅(さっくる、ここは音威子府駅の南約4.6km)から北見山脈を越えて今の歌登あたりを経て北見枝幸から浜頓別を通って、オホーツク海岸沿いに北上して稚内へ至る予定だったとのことだそうだが、実際には後の天北線となる天北峠(標高 190M)をトンネルで抜けて浜頓別駅でオホーツク海岸に出て北上するルートが採用され、大正11(1922)年に稚内まで全通し、線名も宗谷本線となり幹線の中間入りをした。
 一方の幌延を経由する日本海岸ルートの沿線では国鉄によって軽便鉄道方に基づく天塩軽便線の建設水深を行い、僅か4年遅れの大正15年(1926)に稚内まで全通した両者が開通してみると、こちらの幌延経由のルートが距離が大幅に短いことが浮き彫りになり、宗谷本線の地位をオホーツク経由のルートから“宗谷本線”の位置を奪い返してしまった。
そのため、オホーツク経由の宗谷本線が道北を貫く幹線として機能したのは、僅か4年の束の間のことであって、宗谷本線から北見線と云うローカル線に格下げされてしまった。後に北見市の誕生もあって紛らわしさを避けるため天北線と再び名を変えられてしまった。
 一方で鉄道の到着の機械を失った枝幸では、浜頓別への連絡を運動したこともあって、その後の大正11(1922)年に公布された「改正鉄道敷設法」に予定線として『145.北見国興部ヨリ幌別、枝幸ヲ経テ浜頓別ニ至ル鉄道』が規定され、その両端である名寄本線の興部えき、天北線の浜頓別駅の頭文字を取って『興浜線』と名付けられた。そして、昭和8年(1933)に両側から工事が始まった。昭和11年(1936)に浜頓別〜北見枝幸間が開業した。ところが戦争の激化で不要不急線として、レールが撤去されてしまった。戦後、運ばれずに現地に残されたレールを使って復旧に努め、早くも昭和20
(
1945)年に営業が再開された。
一方、 前述のように、その昔、宗谷線の音威子府駅以北の建設ルートが北見山脈を越えて北オホーツクの漁業の中心地であった北見枝幸を経由する予定が立てられたが実現しなかったが、その後に枝幸へは興浜北線が浜頓別で天北線に接続、予定線の興浜線が雄武で興浜南線に接続し、興部で名寄本線に連絡する予定であったが、大消費地である旭川、札幌に出るには遠回りとなることから、宗谷本線へのショートカットルート建設の運動が長年にわたって続けられていた。そして昭和28(1953)になって「改正鉄道敷設法」が再び改正されて、「144の2:天塩国美深ヨリ北見国枝幸ニ至ル鉄道」が予定線に追されるに至った。そして、昭和39(1964)年に第1期線である美深 - 仁宇布間が部分開業し、以遠も日本鉄道建設公団によって建設が進められて、歌登を経て枝幸までの全線開通が昭和51(1976)年に予定されていた。しかし、その後の国鉄再建法により工事が凍結されてしまい、結局開業することがかなわなかった。その名残として、未成区間にある大曲峠の下を貫いていた第二大曲トンネル(1337m)は北海道道120号美深中頓別線の「天の川トンネル」として転用され、枝幸から道央への最短ルートトして活躍しているのは救いであると云えよう。
 話を戻すと、その後の興浜北線の運営は赤字経営の
苦戦が続いていた。1980年成立の「国鉄再建法」により第1次特定地方交通線に指定され、第3セクターによる運営か、バス転換化の判断を求められることになった。
そこで、鉄道路線廃止を食い止めるため、沿線自治体から提案されたのがオホーツク海縦貫線の構想であった。それはオホーツク海沿岸、南稚内〜網走間を鉄道路線で結ぼうとするもので、その中で唯一の未成区間であった
北見枝幸と雄武の間の興浜線を開通させれば網走から稚内まで約335kmが鉄道でつながることになり、オホーツク海側の鉄道を一本化し、直通運転の実施、アクセス向上、観光需要の掘り起こしなどによって経営を改善させ、国鉄路線としての存続もしくは第三セクター化の形での存続を期待したのであった。しかし、昭和55(1980)年には未開通区間の北見枝幸〜雄武間の工事は凍結され、翌年に廃線となり、残りの北見枝幸−雄武は路盤はできていたものの放棄されてしまい、オホーツク縦貫鉄路の計画は夢と消えた。

撮影:昭和49年2月
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