自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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221. 北辺の96、流氷の北見神威岬を行く ・興浜北線/斜内→目梨泊)

〈0001:35-10:冬の北見神威(かむい)岬〉
流氷の神威岬を行く・興浜北線(斜め内→目梨泊

〈0002:35-41:神威岬をバックに9600ガ行く〉
流氷の神威岬を行く・興浜北線(斜内→目梨泊まり

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〈紀行文〉
 昭和49年の冬、道北のSLを狙って列車で出かけた。夜の音威子府駅で旧知の浦和の志水青年と再会する奇遇に恵まれ、彼に従って宗谷本線の抜海ー南稚内で山からの俯瞰を撮ってから、夕方に浜頓別までやってきて駅の近くの大通りに面した行商人の宿屋に泊めてもらった。その頃は、興浜北線では名寄区の9600の牽く 貨物列車が1往復設定されていたからであった。ねらい目は北見神威岬(かむいざき)の尖った断崖が流氷のオホーツクの海に突き出した絶景を撮ろうとするものであった。
 眼が覚めたのは4時すぎで、少し明るさが見え始めていた。駅の母屋寄りの『1番線』のホームから始発のDCに乗って北見枝幸までの沿線の風景を確かめることにした。
浜頓別から南へのオホーツク沿岸は実に単調な真っ直ぐで、無人の海岸砂丘が続く中を国道238号に沿って南下するのだが、15分も走って斜内駅を過ぎると一変した地形が現れた。それは、右手遠くに眺められていた北見山地北端のポロヌプリ岳(841m)などに連なる斜内山(439m)が海にまでせり出していて、眼前の行く手をさえぎるように立ちはだかったからである。この先の約20kmもの間にはオホーツクの海に突き出した三つの岬が出迎えてくれることになる。その手始めが、この細く鋭く突き出した北見神威岬(かむいさき)と云う沿線のハイライトだったのであった。そして、斜内駅を出ると12.8パーミルの登り勾配となり、線路は山すそに沿うように左カーブを切りつつ少しずつ高度を上げながら、山にへばりつくようにして海に突き出た神威岬の断崖の中腹に建つ灯台直下を急カーブで抜けて行くと云うクライマックスに差し掛かった。その岩山は上にいくほど人を寄せ付けない垂直の断崖になっていたから、線路は海から高さ約35mほどの断崖の上に敷かれていて、そこは国道の一段上にあった。海岸ギリギリを岬の先端に近づくと、V字を描くような急カーブを車輪をきしませて通過して行った。その辺りで曲線標R=200を見かけたが、この線区の最小半径は160mだったから、もっときつかったのかも知れない。また古いレールを利用して作られた落石よけが連続していた。切り立つ岩の岬は、北方の荒々しいオホーツク海とよく調和して厳しい北国の 代表的な景観地をつくっていて、北オホーツク道立自然公園となっていた。この後サミットに出たのだが、ここでは線路は国道より高い所を走っており、岬の周りに浮かぶ流氷を背景に下りの1921レを撮るには良さそうなポイントのように見えた。そしてサミットを抜けると南側の山すそに沿った小さな入り江に沿って18パーミルの勾配を下って平野地に出ると目梨泊駅となる。
この入り江は目梨泊漁港となっており、この名はアイヌ語の「メナシ・トマリ」、すなわち「東風(の時)の・泊地)から来ており、周辺の海岸部に、強い東風に襲われた際、船が避難するのに適当な場所があったこと」から来ているという。それは東側に細長い岩岬が長く出ている目梨泊岬があって、防波堤のようになって東風の荒れる時には正に有難い停泊地になったのである。この小さな入江の砂浜の奥の段丘上に古墳時代のオホーツック文化を栄えさせた海洋狩猟民族の目梨泊遺跡が発見されたこともうなずけよう。
さて、この斜内山から続く北見神威岬は南の襟裳(えりも)岬から日高山脈、大雪山系、北見山地を通って北海道を縦断する脊梁山脈がオホーツク海に沈む場所で、更に遠くサハリンに達しているようだ。この「神威岬(かむいさき)」はアイヌ語の「カムイ・エトウ」から来ていて、「カムイ=神」、「エトウ=鼻」を合わせ、「神の鼻」を意味する地名が元になっているのだそうだ。
そして、神威岬と目梨泊に突き出た岩場は「ウミネコ」の、海上約2km沖のゴメ島は「オオセグロカモメ・ウミウ」の数少ない繁殖地であった。また、ここは冬の1月中旬から下旬に東カラフト海流によって運ばれた流氷群が最初に接岸する場所でもあっ た。目梨泊駅を出ると、から道路とは離れ、森の中を抜けて、その先に崖の中腹に刻まれた線路の狭いスペースに、車輌の半分強ほどの板張りの仮乗降場が現れる。これは山臼乗降場である。このすぐ南にある急斜面の崖上を道路が通っている所で右手の山傾斜面の高い所に岩山がせり出しており、ここからは流氷に閉ざされたオホーツク海が果てしなく続くふうけいをバックに戻りの貨物列車を狙えそうであった。
そして、道路はやがて山側から砂浜側へ移り、線路に並行してなんかするようになる。目梨泊岬から約11kほど来た頃、枝幸駅に付く直ぐ手前のオホーツク海岸は荒波に洗われた巨大な畳を敷きつめたかのような千畳岩の
ウスタイベ岬が現れる。やがて終点の枝幸市街に付いたが、ここは北オホーツの漁業の中心地であり、オホーツク随一の「毛がに」の水揚げ 日本一をほこっている。それに明治30年代のゴールドラッシュの町としても名を残していた。
 直ぐに戻るDCに乗って、目梨泊駅で下車して、約1,9kmほど雪中行軍をしてサミットを少し越えた線路と国道を見下ろせる丘に登った。そこからは流氷に覆われたオホーツク海から起立するように神威岬がそびえ立つており、何故か断崖の下の入り江の水面が現れていて、流氷の破片が浮かんでいた。やっと10時半になると、1991レがそれほど多くない貨車を引いた49643号機が力行しつつゆっくりと眼前を通り抜けて行った。ところで、このサミットは江戸時代には線路と国道の通じている険しい海岸の断崖を避けて山の中を越えていたため「斜内山道(しゃないさんどう)」の難所として名が記録に残っていると云う。この私の訪問後に、国道は内陸寄りを北オホーツクトンネル(全長 1,205m)を通過するようになった。それからは、岬周りの旧国道は夏の間だけ通れる観光道路に変身したようだし、鉄路は廃止され路盤が草に覆われてしまった。

撮影:昭和49年

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