自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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105. 「夕暮れの入間川橋梁にて」 (八高線・東飯能〜金子)

〈0001:夕暮れの入間川橋梁・金子−東飯能〉


〈0002:春の淡雪/拝島〜高麗川間の石灰咳専用列車、入間川橋梁〉

〈0003:bO90725:富士山遠望・東飯能付近にて〉




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〈紀行文〉
 私がSL写真を始めて間もなくの1950年代は八高線の高麗川駅のSLの活動は最盛期だったような気がする。確かに、高麗川駅の貨物扱い量は全国ランキングで常に“ベストテン”に入っていたのであった。その主体は隣接する日本セメントの専用線を出入りする奥多摩からの石灰石、東松山から東上線経由で入って来る粘土を初めとするセメント原材料や石炭燃料などの到着と、出荷されるセメントの発送であった。そのハイライトは、1965年からはじまった東京の下町にある隅田川貨物駅との間を新しく開発されたホッパー車で牽制したセメント専用列車によるピストン輸送であって、平均11,700トン/月に達する実績を挙げていたと云うのだった。それに加えて、長野県で始まった巨大発電ダムの建設用のセメント需要に応ずるために、1956〜63年の大糸線信濃大町駅から関西電力専用線の北大町駅建設資材基地へ向かう黒黒部川第4ダム(クロヨン)用であり、1964年頃の篠ノ井線の松本駅から松本電鉄 赤松駅へ向かう梓川水系の安曇(あずみ)ダム用のセメント専用列車が中央東線経由で仕立てられた。セメント工場の専用線から吐き出されるセメントを満載したタキの群れはD51重連牽引の高麗川発八王子行きのセメント専用列車に編成され一日に5本ものダイヤが組まれていた。
 高麗川駅を発車した列車は直ぐに勾配25パーミルとSカーブの続く鹿山峠を越えて東飯能駅を通過し、再び20パーミルの勾配を保ちつつ築堤を駆け上がって高度を稼ぎつつ入間川鉄橋を渡り、そのまま“金子坂”の切り通しで加治丘陵を横断すると、その先には緑したたる茶畑が広がる金子台を横切りながら駆け抜けるようにして八王子へと急ぐのであった。
その頃私は東京都に近い埼玉県の和光市に住んでいたから比較的地の利が良かったので写真の腕試しに通ったのが川越線と八高線であり、その接点である高麗川には足しげく通っていたのだった。この夕暮れの入間川橋梁も何度も試みて失敗しながら狙った結果の一枚である。それにしても、この鉄橋のすばらしさは、美しいレンガ積みの高い橋脚、そして架橋の位置が良くて、美しいシルエットが遙か秩父連山に吸い込まれてゆこうとする夕陽をバックに見せてくれたことであった。この鉄道橋から下流のほどよい距離に巾の狭い道路橋が架けられており、この橋の下に入って3脚をたてると逆光をうまく処理することができて大変有り難かった。
また、関東の南部にも時には冬の終わり頃に低気圧が太平洋岸を通過すると雪がふることがあって、それが幸運にも休日に当たれば遺産で八高線に出掛けたのだった。そんな時の一枚が、ここにアップした「春の淡雪」と題したスナップである。珍しく拝島折り返しのバック運転の高麗川駅に向かう鉱石列車であった。このころには奥多摩や五日市での石灰石の発掘も最盛期だったのであろう。
こんなことだから、八高線に数多くある橋梁の中でのピカイチだと常々思っていたのだった。 この橋梁は1931年(昭和6年)に竣工した上路プレートガーダー形式の橋長が 257.2mであって、スパンの長さ 19.2mの桁が13連でこうせいされていて、一見単純に見えるのだった。ところが、その13連目が橋梁用特殊桁の試作桁が使われていることで有名なのであった。ちなみに、その内容は次のようになっている。
『1931年(昭和6年)にKS−15、支間19.2mの特殊鋼製上路鈑桁1連を試作し八高線入間川橋梁に架設した。主材はドイツ規格St52で主桁の鋲は径19mmの規格品、横鋼、対傾構には当時の日本規格S39 Aまたその鋲材にはSV34を用い、総重量において普通鋼のものに比べ20%節約となった。』(「鉄道技術発達史」第2編その3、p1544から引用、浦和市の志水茂さまより教えていただいた。)。
 話題は変わるが、日本の主な幹線鉄道が完成したことから、1922(大正10)年に鉄道敷設法が改正されることになり、八高線は首都圏内を南北に連絡する交通機関がなかったことによる住民の要望と当時の政治状勢から軍事輸送の目的もあって予定線に加えられた。そして首都外郭環状線としての軍事上の重要度から、早い時期に建設が進められ、八王子と東飯能の間は1931(昭六年)十二月に開通しており、全線が開通したのが昭和17年5月で、当初は八王子〜高崎間を十往復していたようである。そのルートは関東平野とその外側の山地の境目を走り、首都外郭環状線としては東海道本線の茅ヶ崎からの相模線、横浜線(橋本−八王子)、八高線、両毛線、そして水戸線で常磐線につながると云う
環状ラインなのであった。
 そして、この八高線は関東平野の西の奥多摩、奥武蔵、外秩父の山地と関東平野との高度差数百メートルの落差を持つ「八王子−高崎構造線」にほぼ沿っており、それらの山々の北東端はなだらかな丘陵が串の歯のような形で突き出しており、南から「多摩、加住、草花、狭山、加治(かじ)、高麗(こま)、毛呂山、比企(ひき)、児玉など」の数々の丘陵が並んでいる。それらを分けているのが谷を南流する多くの河川である。
この入間川橋梁の付近で云えば、
…高麗川/高麗丘陵(鹿山峠)/入間川/加治丘陵(金小坂)/霞川/金子台…
と云うことになり、八高線のルートはは峠と橋梁の多いことが特徴であることが判るだろう。
そのように丘陵の間の谷を流れてきた川が平野に出たところは、山地の生産物(薪・木炭・繭など)と平地の生産物(米・塩・魚・日用品)の取引の場所として、「谷口集落」といわれる古くからの町が開けている。例えば八王子・青梅・飯能・越生・小川・寄居・児玉、富岡・藤岡・高崎などの町ががそれで、これらの町でかつて取り引きされていたものに、生糸がある。丘陵地帯には桑畑が一面に広がり、町には生糸の店や織物工場もあって、賑わいを見せていた。それだから、今でも八高線のところどころには桑畑が残っているのが車窓から見られる。
そのような背景から、飯能・越生・小川・寄居…と約10kmの距離を隔てて都市が連続しており、これらは互いに八王子から高崎へ抜ける往還(絹の道)で結ばれ、それぞれが独立した商圏を持っつつ繁栄してきたのであった。
この八高線・入間川橋梁のある飯能もそのひとつであり、名栗川(飯能から下流は入間川)の谷口集落であるから、その上流は勿論、直ぐ北の高麗川の上流も商業の後背地としており、「西川材」の製材拠点であると同時に織物の中心地であったのだった。それに付け加えたいのは、日本では貴重な亜炭の産出地であることだった。たこの八高線 入間川橋梁から少し下流の加治丘陵の麓に武蔵野炭坑があり、ナローゲージののトロッコが活躍していることは鉄道フアンには良く知られた存在であることも付記しておく。詳細は
〈156. 金小坂俯瞰 D51重連 八高線・東飯能−金子〉
〈156. 金小坂俯瞰 D51重連 八高線・東飯能−金子〉
をごらんください。

撮影:1973年

注記:橋のデータは下記の資料を引用させてもらったことを感謝いたします。
土木学会の橋梁史年表(入間川橋梁)
http://library.jsce.or.jp/jscelib/h_bridge/22592.htm