自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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156.  金子坂 俯瞰 D51重連 八高線 東飯能−金子

〈0001:〉
八高線 金小坂俯瞰 D51

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〈紀行文〉
 首都圏の西の山すそを南北に走る八高線では、途中の高麗川駅の近傍に大規模のセメント製造工場が立地していた。ここへ持ち込まれる石灰や粘土、石膏、燃料などの原料や、ここから出荷されるセメントなどの製品は工場の専用線を通じて高麗川駅から発着されていた。そのためか、毎年発表されている全国鉄貨物取り扱い量番付では、高麗川駅はいつもベストテンの常連に入っていると云う繁忙駅であった。そしてD51が重連で牽引する重量貨物列車が八王子駅との間で頻繁に運行されていたのだった。そのルート上には20パーミルの急勾配のある加治丘陵を横断する 通称「金小坂」(鉄道フアンだけに通じるなまえで、地元で云う金子坂は西武鉄道仏子駅付近にあった)があって、素晴らしいSL撮影ホイントとして愛好されていたのだった。
今回の作品は、D51重連が牽引する八王子行き貨物列車が入間川橋梁を渡り切り、高い築堤を加治丘陵を横断する金子坂の切り通しに向かって登坂して行く姿を丘陵の東の最高点で亜るっる阿須山(標高 188m)に通じる支脈の中腹から俯瞰撮影したものである。
この列車は高麗川駅から鹿山峠を越えて、東飯能駅で交換を済ましてから発車すると直ぐに登り勾配の長い築堤に掛かり始める。まもなく西武鉄道池袋線を元加治駅と飯能駅の間で跨いで、さらに高さを稼ぎながら長い入間川橋梁で荒川水系の入間川の幅広い河原と埼玉県道195号(青梅富岡−入間線)をひと跨ぎで渡って、そのまま高い築堤に続いて九崖をなしている加治丘陵の横断に掛かって行くのである。この横断ルートは深い切り通しを抜けており、寄り沿うように砂埃を巻き上げている砂利道の県道218号(飯能−東京都みずほ町二本木線)がも仲良く並んで山超えしていると云う昔からの街道筋であった。
この入間川橋梁を渡り切った橋詰めでは、県道同士が交差する阿須(あず)と云う古い町並みがあって、私が登った山の先にある阿須山や加治丘陵の古い名前である阿須山丘陵の語源となっている集落であった。
ご覧のように、八高線の築堤の左手前には丘陵を切り崩した山砂利の採取場が口を開いており、その取り崩された急斜面の山肌のほとんどが川砂利の地層だったのには驚いた。これは約8から5万年前に多摩川が運んできて作った青梅扇状地の北端の地層だということを知った。このような山砂利が盛大に採掘、利用されるようになったのは昭和42年(1967)に施行された入間川の川砂利採取の全面禁止からであったようだ。それまでは、目前の入間川の対岸にある西武鉄道の元加治駅から入間川の岩沢河原にある川砂利採取場まで側線が伸びていて、都内へ大量の建設資材である川砂や砂利が発送されていたのだった。また下流の川越でも、西武鉄道新宿線南大塚駅で分岐する砂利運搬用貨物線である安比奈線が活躍していたし、その対岸でも数年前まで東武鉄道東上線の霞ヶ関駅に接していた埼玉県営専用鉄道が入間川砂利採取場まで運行していたほどの盛大振りであったのだった。
 撮り終わって、入間川方面を眺めおろすと、入間市へ向かう県道と入間川の堤防との間に土管をつないで作った古めかしい数本の煙突から黒い煙が吐き出されている光景が目に入った。近づいて見ると、成形された練炭や豆炭を高く積まれた棚状に並べて乾燥している工場が姿を現した。おそらく原料を練り合わせて、整形してからの一次乾燥をするための熱風乾燥のための炉の煙なのであろうかと推測したのだった。この時代にはSLの燃料の石炭にも豆炭を混ぜて使われていたことを思い出したのだった。そこで、この風情のある煙突を前啓に入間川を渡る列車をスナップして引き上げに掛かった。所で、何故こんな所に、こんな工場があるのかが不審に思えてきたのだった。恥を忍んで工場の人に尋ねて見た。驚いたことに、「江戸時代の昔から、この辺りの入間川流域に住む人々は地元の山すそで見られる亜炭層中に含まれている炭化した木の皮などを燃料として利用していたことがしられており、太平洋戦争中に不足している燃料として亜炭を坑道を使って採掘する炭坑が創立され、現在も操業を続けているとのことだった。その掘り出した亜炭は、この練炭・豆炭の原料の一部としても使われており、また工場の燃料にも使っているのだ」とのことだった。それで、やっと目から鱗が落ちた気がして帰途についた。
その後に、山の中にあった川砂利や亜炭のことが気になって、加治丘陵にまつわる話題を郷土史などをひもどいてみて納得したので、その一端をご披露しておこう。
  加治丘陵(阿須山丘陵)は埼玉県飯能市の南側と入間市の南西ぶに位置しており、それに続く青梅市東北部の丘陵は東京都側では霞丘陵と呼んでいる。この丘陵は関東平野の西側に控える奥武蔵の山地から北東に約10.5kmも長く突き出した形をしていて、山地とのつながりの強いのが特徴であると云うのだった。その周りの水系には、南側を青梅市の山奥から東へ流れ出て、加治丘陵と隣り合っている茶畑の広がる金子台との境を北に回り込んでから、入間市の市街を抜けて入間台地の北側で入間川に合流していると云う全長が約15KMにも達する川だった。一方、北側は上流の名前が名栗川と呼ばれる入間川が飯能市街の乗っている高麗丘陵とを分けて流下しているが、加治丘陵の地層が入間川の対岸までも続いている所もあることから、昔の多摩川のもたらした扇状地の最北端が、この入間川流域当たりに位置していたものとの推定がなされているとのことだった。この丘陵は西の方が250mと標高が高く、東に向かって100mとゆるやかに低くなっているのだが、これは西方の山地が盛り上がり、平野の方が沈み込んと云う地殻変動の影響であろうとされている。それに入間川に向かって谷が発達しているので、丘陵としてはかなり急傾斜の地形が目立っているようだ。その加治丘陵を成り立たせている地層から、その形成の様子が次のように説明されていた。
今から約200万年前に関東山地から流下して来ていた古多摩川は今よりもかなり北を流れていたようで、運んできた砂や礫(れき)などが基盤上(例えば秩父古生層など)に堆積した「飯能礫層」が加治丘陵から高麗丘陵の東部に分布している。そして、その上に約8から5万年前に堆積した砂や砂利を含む地層が被覆している。これは現在とほぼ同じ位置の多摩川が山から運んできた砂や石によって作った青梅を扇頂とした大きな扇状地の名残であると云う。その扇状地の北西端が加治丘陵の位置なのである。これらが長い間に、地形の大部分が浸食作用を受ける結果となり、現在のように谷が発達し、平坦面のない形となり、その上に十数万年から約1万年前までのの富士山噴火による火山灰の堆積による関東ローム層が覆っているのが今の加治丘陵の姿であるのだと云う。
所が驚いたことに、丘陵の東武では飯能礫層の上に粘土や細かい砂でできた「仏子層」が厚さ約100mも堆積していることが発見された。これは約100〜150万年前に海や湿地だった頃に積もってきた地層であることが判ってきた。最大の特徴は、その地層の中に礫や火山灰、亜炭などの地層を挟んでおり、さらに「ぞう(象)」や植物の化石を含んでいることが発見されたことである。この地層が出来た時代はこの地域は相模湾が関東平野に入り込んでいた時代で、その頃に堆積した地層がこの入間川を挟んだ加治丘陵の東部付近だけに残っていたことは正に奇跡的と云うべきであろう。このような地質学の演習材料に事欠かない加治丘陵は地質フアンのメッカでもあったのだったことを知った。
一方山の植生はコナラの雑木林と、アカマツ林が枯れたあとに自然に成立したコナラ林と、ヒノキ植林とを合わせると全体の80%以上の面積を占めていると云う里山なのであった。
 所で、飯能礫層であるが、それは入間川の河原に大きな砂利がごろごろしている地層が見えている所で見ることができる。今の入間川が運んできた河原の砂利と、下の方にちょっと色が違う青っぽい礫が見えている所がある。これは今から約200万年前に古多摩川が関東山地から運んできて河原に堆積させた地層である。この礫の形は円い形であり、砂岩・チャート・粘板岩・閃緑岩などでできている。特徴的なのは閃緑岩などの火山の熱によって変成を受けた石が含まれることで、これらは現在の入間川の上流には全く存在しないので、昔の元荒川筋からか、または昔の奥多摩の元多摩川から運ばれてきたと推定されているのである。
次に、飯能市阿須から対岸の狭山市笹井の入間川沿いの地域と加治丘陵にのみ分布していて、飯能礫層の上に堆積している仏子層と云われる地層のことであるが、平野側にゆっくり傾斜しているようである。この地層はかつて海や湿地だった約100〜150万年前の頃に積もった粘度層がほとんどであり、すべすべしていて、ネバネバしているのが特徴であった。その他に細かい砂も含まれている。そして、砂岩で出来た「丸くて小さい石が一層に並んだ”礫(”や火山灰、亜炭などの地層を挟んでいることである。この地層からおよそ100万年前に絶滅たと云う「アケボノゾウ」の牙(きば)や臼歯の化石が発見されており、「メタセコイア」の化石林を初め、動植物の化石も含まれている。
特に亜炭の層の厚さはは1〜3mとされ、実際に現在も商業的に採炭が坑道法によって行われ続けられているのは日本で唯一の例である。
 ここでトロッコマニアの間では超有名な場所である飯能市阿須に操業する日豊鉱業(株) 武蔵野炭鉱のトロッコ軌道の活躍振りについて触れておこう。
武蔵野鉱山は飯能市の端、入間市に近い所にあり、西武線の元加治駅から入間川を渡って徒歩20分の所にある。しかし、『見学は断固お断り』で知られる事業所なので、訪問することが出来ないので、東隣の谷筋に平成9年7月に開園した「あけぼの子供の森公園」に入園して、隣の鉱山との敷地境界に近づいて眺めるのが手っ取りばやいのではなかろうか。境界線となっている山に登ると、かすかに石炭の香りがただよってくるし、いろいろな鉱山の施設や亜炭の山が点在する構内が俯瞰(ふかん)できるアングルも得られるとのことのようだ。
坑口は二ヶ所で、常時搬出に使用しているのは一ヶ所であるようだ。その坑道は2kmも伸びており、亜炭採掘とトロッコを使った搬出作業が行われている。そして、ナローゲージ(軌間 762mm)の炭車トロッコは70台もあるようで、鉱山用機関車は日本車輌の昭和45年製の4トン型のデイーゼル機関車が2両活躍していると云う。
運が良ければ、それらの姿を拝めるかも知れない。
今では亜炭は燃料ではなく新しい用途が開発されて、例えば、肥料成分をしみ込ませて有機固形肥料を作る素材、塩分・ミネラル補給を目的とする家畜の飼料、水槽水の浄化作用の素材や、消臭剤、土壌改良材などへと広がっている。何と云っても天然素材であることの評価が高まりつつあると云うのはうれしいことである。これからも末永くトロッコ軌道が活躍してもらいたいと願っている。
そして今は、WEB上でも、昔からの報告に加えて、新しい情報が見られるようになったのは大変喜ばしい限りである。たとえば、
〈日豊鉱業武蔵野炭鉱 http://www.geocities.jp/hachiko_line/nippou/nippou.html〉には詳細な探訪記が載っている。

撮影:昭和45年