自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・北陸の二つのローカル線を訪ねて」
080.  越前平野の中の 足羽川 をさかのぼる ・越美北線/一乗谷〜美山

〈0001:第2足羽川橋梁を渡るハチロク〉
鉄橋を渡る汽車に手お振る子供たち 超美北

 〈0002:野生の藤の花咲く断崖にて〉
単機回想 藤の花のある風景 超美北

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〈紀行文〉
 関東からクルマで北陸へ出かけるのは何故か、東北へ出かけるよりも「おっくう」で、なかなか機械が巡って来なかった。昭和48年5月連休に信州の塩尻近在の妻の実家を訪れた勢いで、家族旅行として「塩の道」を北上して日本海岸の糸魚川へ出て、能登半島と福井の東尋坊や朝倉氏の一条谷や永平寺を訪れた。この旅で、たまたま撮ることのできたスナップ3枚をお目に掛けたい。最初の二枚は福井から南の山裾へ伸びる越美北線の沿線での風景である。私が、このローカル線に興味を覚えたのは、確か「蒸気機関車に敬礼」(1972年交友社刊)と云う写真集の中にあった越美北線の第2足羽川(あすわがわ)橋梁を渡るお召し列車を牽くハチロク重連のロイヤルエンジンの素晴らしい姿の印象であった。それは昭和43年(1968)10月に行われた「第23回福井国体」記念植樹祭に御臨席された両陛下を越前大野から福井へとお送りするお召し列車の勇姿であった。
この舞台となった足羽側は北陸の日本海に沿って並行に連なる輛白山地の南半分に当たる越美山地の一角に位置する標高 1,256mの冠山に源を発し北へ流れ下って美山町の先で西へと流れを変えて福井平野に出て蛇行を繰り返しながら福井市街が近づくと国道158号(福井から岐阜県へ抜ける昔の美濃街道)に沿って市内の中心部を通り抜けて、西の武生盆地からの日野川に合流し、やがて九頭竜(くずりゅう)川に合流して日本海へ注いでいる全長約60qほどの河川であって、多量の土砂を運んで低地をうめて豊かな福井平野を育んできたのであった。
 ところで、この越美北線は大正の初期に中京と北陸を結ぶ太平洋−日本海連絡鉄道として計画された延長 約148.6kmの越美線の北半分に相当している。この福井から越前大野を経て九頭竜湖に至る間は、先ず足羽川をさかのぼり、継に坂戸峠(花山峠)を越え大野盆地へ下りてから九頭竜川に沿ってさかのぼっていて、数多くの橋梁を渡りトンネルを抜ける勾配路線である。北陸本線の南福井駅を起点に並行して走り、現在の起点となっている越前花堂駅で左カーブシテ北陸本線から離れて福井平野の豊かな稲田地帯を南下する。間もなく越前東郷駅の辺りを過ぎると足羽川の堰堤が見えて、しばらく進むと朝倉氏の城下町遺跡のある一条谷への入り口にある一乗谷駅に着いた。
ここまで来ると、あの広々とした福井平野も尽きようとしていて、左手から正面には岐阜との県境である標高 1,200〜1,300m級の越美山地の山すそが、右手からは越前中央山地の低い山地が迫ってきて、いよいよ山間部に入って行くことになる。ここからは蛇行する足羽川を縫うようにして第1から第7までの鉄橋を渡って行く。その先の越前高田からはけわしい屈曲する峡谷を通り抜けて、山間の「足羽杉」の美林で知られる美山町からは足羽川に別れを告げて左に伸びてりた尾根の坂戸峠(花山峠)を目指して山間の集落を通過して行く。
越美北線で最も急な25‰の坂を上って列車は進み、足羽川と九頭竜川との分水嶺を坂戸峠(花山峠、標高約220m)にある402メートルの坂戸トンネルを抜けた。
山あいから広々とした田んぼの広がる大野盆地が眼前に飛び込んできた。右手に亀の甲羅のような亀山の頂きに復興した天守のシルエットがみえて来た。
私の訪ねたのは、DL化を目前に控えた昭和48年5月連休中のことだったから、南福井−越前大野間に設定されている二本の貨物列車の運休を心配しながら、福井から昔の美濃街道に当たる国道158号を東へ約10q先にある一条谷を目指した。やがて寄り沿って来た足羽川の流れはさほど荒々しさはないが、川の周囲の景色が連続して変化するのを楽しむのもつかの間、お目当ての第2足羽川橋梁の見える下流側の水辺を探し当てた。そして、水遊びをしている子供たちと共に列車の通過を待っていた。この頃の越美北線を走る貨物列車の主な役割は大野市の山すそにある中竜鉱山で産出される亜鉛鉱石の輸送であったようだ。案の定、亜鉛鉱石を積むための空車の無蓋貨車を連結したハチロク牽引の貨物列車は、岩の上で手を振る子供たちの頭上を軽快に走り去って行った。この子供たちも大学生となる二児の親となっているから、随分と古い話をしていることに気づいて唖然としたのであった。 後日談だが、この亜鉛鉱石の輸送も円高のために海外からの亜鉛鉱石に押されて1998年に終わりを迎えてしまったようだ。また、この穏やかに見える足羽川なのだが、2004年7月18日の福井豪雨による大洪水によって、足羽川に架けられていた越美北線の五つの鉄橋が流失してしまって、再起不能が懸念されたのだったが、三年にわたる復旧工事により新しいトラス橋として蘇り、今では上流にある九頭竜湖の景観を求める多くの旅人を運んでいるとのことだ。
 鉄橋での撮影を終えて少し戻った所にある足羽川の支流である一条谷川に沿った谷間に残る戦国時代の朝倉氏の城下町と山城の遺跡の見学に向かった。この谷が注ぐ足羽川に沿いには河港が設けられ九頭竜川の河口で、日本海に面した三国湊に繋がる水運が開けていたようで、大野に通じる美濃街道にもつながっていた交通の便利な場所で、一時は小京都と呼ばれるほどの繁栄を誇っていたと云う。今でこそ『一乗谷朝倉氏遺跡(国指定特別史跡)として復元や博物館などが整備されつつあるが、当時は荒れたままの廃墟と云う印象が強く、織田信長に攻め滅ぼされた朝倉氏の悲劇が目の前に映し出されるような面持ちであった。
 ここからは国道に沿って越前大野に立ち寄ってから、道元禅師が開いた永平寺へ向かうことにした。そして、この先にある足羽川と九頭竜川の分水嶺となっている花山峠の切り通しを抜けた先で、大野盆地が見渡せる崖の辺りで満開の花を付けた野生の藤の薮を見つけて、単機で福井へ戻るハチロクを見送って越美北線に別れを告げた。
この峠からは越前中央山地と両白山地 の間に開けた東西、南北それぞれ10qほどの大野盆地が一望出来た。
この九頭竜川の上流に位置する大野盆地は東に張り出してきた両白山地にある経ヶ岳(きょうがたけ、標高 1,625m)の170万年前の大噴火により生じたカルデラ(陥没地が成因とされる。北から流れ下る九頭竜川など4本の川が土砂や礫(れき)を運んで扇状地や河岸段丘を作ってカルデラを埋めて来たと云う。この標高170から232mの盆地の西に開けた大野の町は奈良時代から越前国大野郡六郷の中心であって、油坂峠(標高 804m)を越えて越前から美濃を結ぶ美濃街道の中間点に位置し、古来から交通上・軍事上の要地であった。戦国時代の天正元年(1573)朝倉義景が滅び、
天正3年(1575)織田信長の武将、金森長近が大野郡内に3万石余で初代藩主となった。やがて、大野盆地の西のはずれ、標高249mの亀山に5年の歳月をかけて越前大野城を築き、城下町を開いた。それが北陸の小京都と呼ばれる基礎となった。東西6筋の碁盤目に整備された通りの中央に町用水が流れ、町家はその両側に建てられていた。清冽な湧き水の豊富な町で、数々の造り酒屋などがあり、昔ながらの雰囲気がただよっているのを感じた。
最後に、この越美北線の前身である越美線の建設の経緯に触れて置きたい。明治の中頃からの鉄道の建設は、国が建設すべき鉄道路線を定めた鉄道敷設法(1892/明治25年制定−1922年/大正11年廃止)によっており、これには今後全国に敷設すべき鉄道路線を33区指定し、新路線の追加や予定線から建設線への繰上げは帝国議会での法改正が義務付けられていた。この越美線は当所の33路線には採択されておらず、この法の廃止が近づいた 1920年(大正9年)に『高山本線の美濃太田から長良川沿いに北上し、白鳥から油坂峠を越えて大野・福井を結ぶ、太平洋−日本海連絡鉄道』が帝国議会において越美線としての建設が可決されている。1921年(大正9年)に岐阜県側(越美南線」から工事着工し、最終的に1934年(昭和九)年に美濃太田−北濃間(72.1q)が全通している。一方の福井県側(越美北線)は1935年(昭和10年)に予算正常、翌年に着工したが日中戦争の勃発による工事中断となった。工事が再開されたのは遅れて、1956年(昭和三十一)年からであった。昭和35年(1960年)に南福井〜越前花堂〜越前大野〜勝原 (43.1km)が開通した。その頃から九頭竜川上流で巨大ダム建設が始まり越美北線を経ての資材運送に多忙であった。その後、昭和47年(1972年)原−九頭竜湖間(10.2q)が開通した。その先の北濃−九頭竜湖間(約24q)は未成のままであったが、1978年(昭和53年)になって列島改造論の時代となり、越美線が整備計画線から調査線を飛び越えていきなり工事線への昇格が認められた。1979年(昭和54年)から公共測量が始まり、未開通部分の越美南線と北線の標高差約120メートルは北濃駅からスイッチバックで南進しながら標高を上げ油坂峠を越えるという当初の案から、北濃駅からはさらに北進して前谷地区から長大なループトンネルで桧峠を越え、石徹白地区へ抜けるという案に変更する、といった具体計画までが示された。しかし2年後には再び中止となって今日に至っている。
 もう一つの蛇足を付け加えたい。それは「改正鉄道付設法(1922年/大正11年)」の別表には、
『74. 岐阜縣大垣ヨリ福井縣大野ヲ經テ石川縣金澤ニ至ル鐵道』
が予定線として採択されていた。これが実現すれば、越前大野駅は鉄道の十字路となる筈であった。

撮影:昭和48年5月連休

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・北陸の二つのローカル線を訪ねて」
011. SL「ふるさと列車“おくのと号”・七尾/能登線