自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・デトロイト・シチズン・レイルウェイ:デトロイト市/ミシガン州
076.
サマー・なろー・トロリーの季節
・市内ダウンタウン
〈0001:〉
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〈紀行文〉
自動車工場の閉鎖とレイオフによる失業、黒人暴動などの暗いイメージのつきまとった自動車の都(モーター・タウン)デトロイトは、私がアメリカ工場ケンセツのために出かけた1977年頃には既に不死鳥のように蘇っていた。
この呼び方が「ナウいんだ」とされた“モー タウン”の話題には明るいものが多い。
それは1960年代の末頃に行われたデトロイト・ダウンタウン再開発の第一弾である河に面したウオーターフロントのショッピングモール・ホテルの集合したルネッサンスセンタの完成であった。
また、ここの“MotoR・TOWN”から名付けられたモータウン・レコードは、1958年にフォードでパートタイマーとして働いていたペリー・ゴーティ青年が、家族から集めた700ドルを資金に創立した会社であった。デトロイト・サウンドと呼ばれ、定評あるモータウンの音楽は、ポップ色の濃いブラックミュージックである。それはアーティストやミュージシャンの創造性というよりも プロダクション・ワークを重点とするモータウン・スタイルは、あまりにも商業的に過ぎると非難されたが、確かに、この音楽の作り方は自動車工場の組立ラインの流れのように画一的なところがある。しかし、100人を超えるスタッフが競争と協力を繰り返しながら生み出す音楽は、その制約を打ち破る強烈なエネルギーを持っていたと言われる。
アメリカ、イギリスのポップスに大きな影響を与え、黒人だけではなく白人にも受け入れられた。この音楽は、モータウンの大躍進の原動力となった。その創立記念パーティーには、ステイービー・ワンダース、ダイア・ロス、マイケル・ジャクソンなどの人気歌手が出席したとある。
それに加えて、デトロイトのダウンタウンに南ヨーロッパ調の赤い細身の車体のトロリーが走りはじめたことであった。それは30年以上前に行われたデトロイトのダウンタウン再開発の第一弾であった、川沿いのショッピングモール/ホテルの入るルネネッサンス・センターから、ダウンタウンのビジネス街の中心のグランド・サーカス公園までの3.2マイルに昔懐かしい路面電車が復活したことである。特に、ウオーター フロントの公園の樹木に新緑と花の季節がやってきて、強い紫外線の陽光がが戻ってくる6月の頃になると、名物車輌の“サマー トロリー ♯247”が半年ぶりの姿を見せるようになる。このトロリーは普通の車体の側板を取り払ってしまったような姿で、りが出来るように椅子を並べた遊園地の電車のような珍しいスタイルで、1輛だけが南ヨーロッパから導入されたトロリーをデトロイトで変身させたのだと聞いた。これをみると、回転するメリーゴーランドに跳び載る時のような快感がえられる遊び心満点の人気史者なのである。しかし、ラッシュアワーの動車の波の中ではいささか心配だが、公園脇の川風が吹き抜ける心地好さは素晴らしいものがある。
処で、デトロイトの人々がストリート・ーの復元に賛意を示すのも、ストリート・カーが、市内はもとより、隣の都市にまで軌道をを伸ばして連絡し合っているのがあメリカの都市の風景であった頃へのノススタルジーでもあるのだろうか。今世紀の初頭、自動車が普及していかった時代のデトロイトは、周辺の都市との間にくもの巣のようにストリートカーが運転され、こまめに停車しては新聞、ミルク、旅客などを運んでサービスをしていた。
このインターアーバンと呼ばれたストリートカーは、大発展を遂げ、デトロイトはその中心となり,遠くは隣のオハイオ州のクリーブランドやシンシナチィ、インデアナ州のインデアナポリスにまで直通電車が走ったり、夜間電車や貨物電車も登場した。これがインター・アーバンと呼ばれた路面電車王国、“Detroit United Railway”が君臨していたことを忘れてはなるまい。しかし、自動車の普及とハイウエー時代の到来で、おびただしい数のストリートカーが行き場を失ってしまった。今、アメリカには数多くのストリートカーを保存再生し、生きた博物館として運転している所が非常に多いことに気がついた。この古いストリートカーには、木造の物も多く、軽量で仕掛けも余り複雑ではない。電源さえあれば、石炭や水は不要で、環境を汚染する心配もなく、何よりも車体にペイントされた豊かな色彩を街にもたらすと云う楽しさもあり、軌道さえあれば住民街の一角に容易に設立することが出来るようであった。我々が滞在していたオハイオ州都,コロンバスの衛星都市の一つであり、埼玉県狭山市と姉妹都市関係にある高級住宅地で知られるウォージントンしには、オハイオ鉄道博物館が高級住宅地の一角で運営され、その終点は住宅街の広場になっていると云う次第である。ここも朽ち果てた古典的なストリート・カーを蒐集してきて、多くのボランテアーの手によって再製の仕事が数年係で進められていた。そして、このような古典的存在の電車を動かしておく博物館運動は,立派な社会教育活動として,高い評価が与えられているのである。
そのバックグランドにあるものは、アメリカ人の“Do ityourself”と云われる、ライフスタイルの真骨頂であると思われる。最近の建売住宅でも小規模ではあっても地下室が大抵備えられているのが通例であるようだ。人々は親から受け継いだ工作工具や、工作機械などの類(たぐい)を持ち込んで使うためにはどうしても必要な場所なのであるからであろう。自分で家の保全や調度を作る趣味を持つ人がいかに多いかが知られる。彼らが自ら日曜大工になって家の保全に精を出すのも、単に職人が少ないからとか、出費が惜しいからとか云う理由ではなくて、自助努力をモットーとした開拓時代のスピリットが、ライフスタイルとして価値があるとされているからであろう。
このようなライフスタイルは、とりもなおさず、個性を伸すことを尊重し、豊かな社会生活の活力の根源になっている。
スーパーマーケットと並んで日用雑貨店には,工作に必要な工具,部品や材料、または半製品の金物や家具など珍しい掘出し物が並べられている。家庭用塗料も大きなスペースを占め、調色センターを設置する店も少なくないし、おなじみの塗料メーカーのロゴ看板が、ひときわ大きく目につくのは私の仕事柄だけではないようだ。そして,アメリカ人は日曜大工ではなく、日常大工であることには驚かされる。ちょっとした時間を見つけては、作業に精を出しているのである。
そんなことから、保存鉄道の基地の片隅には車体復元工場があって、個展車輌の木造部分の復元や、ペイントを行うボランテアーの人々が喜々として作業に精を出しているのに出遭うことが屡々であった。この大凶核がストリート・カー博物館であり、家のペインテングで鍛えた腕で見事な車体の朝食をして見せているのであった。
撮影:1978年
発表:「塗装技術」表紙・1990年
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017. モータウンのトロリー路面電車の復活・市内ダウンタウン