自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・ブラック リバー & ウエスタン鉄道(BR&W RR)を訪ねて・ニュージャージー州
051.  アウトレットのウインドウ越しの♯60 ・フレミングトンにて

〈0001:〉
BR&WのaD50、フレミングトンに

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〈紀行文〉
 BR&Wのフレミングトン駅の広場の周りには色々の店やファクトリーアウトレットが看板を出しており賑やかなことはこの上もない。昔のCNJ(Central of New Jersey、セントラル・オブ・ニュージャージー))の機関区のターンテーブルを利用したと云う“ターンテーブル・ジャンクション”と云う看板が見えた。なんと云う鉄道くさいネーミングなのだろうか。それは鉄道模型の名店街のようなものらしく、ターンテーブルの凹みの上に板を張って建てられているのを見つけた。その時、二番列車が到着して、大勢のお客は広場に吐き出されていた。この終点には駅舎はなく昔のCNJとPRRの支線はCR(Con Rail:連合鉄道)が受け継ぎ、貨物の流通を行う一方、
ューヨーク方面と連絡していることから将来にはニューヨーク発の特別運転も夢ではないだろうか。
さて、反対側の広場の奥には古風なフランス風の陶器窯を持った工場が見え、その前には多くのアンテークの店や土産物店が並ぶ。
もう、転向して出発準備を済ませたaD60のサイドを眺める位置に大きなガラスウインドをもった銅食器店がオープンしていた。内面に錫メッキをした銅の料理用具にも興味もあったのだが、何よりも店の中から銅器類を並べたウインドの棚を通して見えるaD60のサイドの構図の写欲に誘われて、一枚パチリ。あとから考えて見ると、昔トレインズ誌のグラビアで見たことのある写真、D&RGW(デンバーっなかてんアンド・リオグランデ・ウエスタン)のサン・アントニオ駅構内で入れ替えをするナローミカドのいる風景を、通りを隔てたレストランの窓越しに撮った写真を思いだしたのであった。そして、aD60に近づいて眺めていると、漏れる蒸気の音が静かに聞こえて来る。この1930年代のアメリカロコの典型的な面構えをしているaD60のえんしつ側面にはALCO,SCHENECTADY 69021,1937のビルダーズプレートがあり、その下にELESCO社のSUPER HEATER(過熱器)のパテント銘板が誇らしげに取り付けてあったのを見つけた。
ここで、さBR&WがSLの確保に苦労していた経過を述べて置こう。
その昔所有していたDL&W(Delaware,Lackwanna & Western)のモーガルを失なってしまっていたから、再びSL探しに奔走することになった。そして当時、工場SLの古典機のメッカとして知られていたのが、コロラド州のデンバー郊外にあるグレート・ウエスタン鉄道(GWR)であった。この鉄道は秋の砂糖大根の収穫期になるとSLに火が入り、Great Western Suger会社の数カ所の工場とビート畠とを結んで、ビート輸送を行う目的で作られていた。のGWRには役目を引退した数輛のSLを保有していたから、BR&Wではその中から一輛を譲り受けたいと願っていた。この鉄道には2−8−0のSL群の中のaD51,aD75の二輛が動態保存され屡々ペンキ衣装をを塗り替えてTVや映画に出演していたし、また後にペンシルベニア州にある最古ののショートライン保存鉄道である Strasburg鉄道に提供されたaD90も保存されていた。そして、それらの中の一台であるaD60(2−8-0)を買収することに成功したのであった。
そして、美しく磨かれたaD60はビートならぬバカンスを楽しむ人々を乗せたダークグリーン色に塗られたDL&W(Delaware,Lackwanna & Western)のダブルループ造りの三軸台車を履いた客車を牽いて、ニュージャージーの牧歌調の田園を走っている。客車のコレクションの中には、DL&Wの1881年製のコンバインや、プルマン・スタンダードの1910年製の“Boonton"客車(片端がオープンデッキ)を保有するなど.るべきものが多いようである。
aD60のSL列車の運転は冬期を除いて、毎日数本運行しており、
日曜日にはRingoesとデラウェア河畔のランバートビルの間をBill製のガソリンカーが往復する。aD4666はガソリンエンジン電気式で、PRRのニューンャージイ支線に使用していたもので正に里帰りたものでRingoesの木材で張られたプラットホームでの乗換え風景はBR&Wの得意の構図の一つであろう。
さてここで終点のふれみんぐとんの歴史素描をしておこう。この街は、ロータリーを複数組み合せた市街路があり、三方向からの鉄道とその引込線のために複雑で覚えにくかった。そのメインロータリーの中心にあるモニュメントは独立戦争記念物で,夏空に星条旗がひときわ映えて印象的であった。国道202号を南へ走れば、デラウェア河を高い橋で渡ってペンシルバニア州に入る。ニュージャージーは、イギリス領となったニューヨーク植民地から分離した農業を中心とした地域であった。1758年S.フレミング氏がこの地に宿場を作り,ニューヨークとフィラデルフィアの裏街道筋として栄えてきた。今も旧道沿いに残るフレミングの屋敷とあだ名される旅館兼酒場と、そして駅馬車の宿などが残っている。独立戦争の頃には、ヤンキー共の溜り場は愛国者であふれていたと云われる。この付近は比較的平坦地が続き、肥沃な土地は農業に適していた。初期のイギリスやドイツからの移住者の中には農産品を加工する技を持った人々もいて、製粉や織物などの手工業も始まった。当時から大都会であったフィラデルフィアに近かったことから農産品の供給地として,穀物よりも鶏や七面鳥,野菜類に力が注がれて、フレミングトン産として名を知られていたと云う。
1826年に大火に見舞われ、街の中心である裁判所が焼失するなどの災難を克服して、新しい工業都市として再興されたのである。それは現在も繁昌していてBR&Wの貨物の大御得意様なのである。穀物製粉は世界に名を知られて来たし、鋳物や銅細工,陶器やガラス細工(カットグラス)などが発展した。中でも沿線に産する赤粘土が陶磁器に適していたことから第一次世界大戦中にヨーロッパからの輸入が止ったため、ここのスタングル陶器は有名になり、つい数年前まで古い方法で製造されていたそうで、BR&Wイの終点の近くにある大きな窯は異様な形をしているのに驚かされる。また、Liverty Village と呼ばれる郷土博物館があり、町の65%の面積が州の歴史保存地域となっている。
さて鉄道とのかかわりは1854年にさかのぼる長い歴史をもっている。それは鉄道拡大の時代の頃、フレミングトンでは,デラウェア河北岸に建設して来た鉄道にランパートビルで接続するための鉄道として、フレミングトン鉄道が開通したのである。この鉄道の最盛期の1889年頃で東部各地との間に毎日54本の列車が発着した。しかし、どこにでもあるように、大鉄道が中小の鉄道をその傘下に納めて、次第に幹線ルートに成長して行くと、一方その独自性を失い,支線はだんだん凋落してゆくのが常である。御多聞に洩れず、フレミングトン鉄道も1872年に P R Rの版図拡大の中で吸収されてしまい 、フレミングトン支線と呼ばれた。またデラウエア河の上流とハドソン河岸を結ぶCNJ、lv(Lehigh  Valley、リーハイ・バレー)の二鉄道が通過して、いずれもフレミングトンに支線を伸していた。PRR、CNJ、LVの三鉄道共,現在はCR(連合鉄道)となって、フレミングトンはC Rの亜幹線に北南の両側を挾まれ、BR&Wがその間を連絡する形になっている。
このようにBR&Wが選んだこの路線の一途けが如何に適切で有ったかを物語っていた。

撮影:1981年
発表:「レイる」誌・1985年冬の号

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・ブラック リバー & ウエスタン鉄道(BR&W RR)を訪ねて・ニュージャージー州
050. 最徐行で鉄橋を渡る♯60・ニュージャージー州