自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・ブラック リバー & ウエスタン鉄道(BR&W RR)を訪ねて・ニュージャージー州
050 最徐行で鉄橋を渡る♯60 ・ニュージャージー州

〈0001:
Black River & Western RrのbU0、鉄橋を渡

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〈紀行文〉
 今回はニュージャージー州の南、デラウエア河に接しているフレミングの街に走るショートライン Black River & Western ailroad(BR&W、ブラック・リバー・アンド・ウエスタン鉄道)を初夏に訪ねた。フィラデルフィア空港でレンタカーに乗って、北上、でラウェア河を渡ってから、それに沿って遡るように古い州道を北上することになった。すると間もなく右手の高台の上にワシントン・クロッシング州立公園の標識が見えた。独立戦争の頃、ワシントンの率いる植民地連合軍が港町ボストンをイギリス軍から解放した.その後,イギリス本国から応援軍がニューヨーク港に到着してからは,独立軍は追われるように敗け続けて、ニューヨークを捨て、ニュージャージイを南下退却中のことであった。1776年のクリスマスの夜半、それはテレントンの戦の前日で、ワシントンの率いる中隊が凍りついたデラウエア河を渡ったのがこの場所であるという。フィラデルフィアまで占領されてしまったワシントンの独立軍ではあったが、そのうちに植民地連合とフランス軍との同盟に成功したことから独立を勝ち得たと云うのである。
やがて運河と共に走り、しばらくしてフィラデルフィアとニューヨークを結ぶ裏街道に当る静かなランバートビルの村に到着する。この運河はデラウェア河と
ヨーク湾に注ぐラリタン河を結ぶもので、アイルランド移民によって開削され,鉄道以前の重要な交通ルートであった。この
崖下の村には州の孵化場があって、長い間魚影の絶えていたデラゥェア河にも再び魚が戻って来たとのことだ。明るいうちにBR&W沿線のロケハンをめざして、この崖を登ると、河岸段丘の上に出ると、上は肥沃な農業地帯が拡がっていた。BR&Wの基地の所在を示す黒い SLのシルエットの看板に案内されて砂利道に入ると、突然都会風の黒塗りのガードが現れ、SLが身を半分乗り出すようにしてガードの上にとまり、盛んに黒煙を根挙げている光景に出くわした。ここをアンダークロスした左手がRingoes駅であり、ょうど今日の第3便が出発待ちの最中だった。グリーンの客車に地図とカメラバックの軽装で飛び乗って、BR&Wの第一日が始まった。
 どこかで読んだのだが、『アメリカでは金持が自分の牧場に鉄道線路をを敷いて、SLを走らせている……』との話をきいたことがあったが、保存鉄道巡りを始めてみると、そのような起源を持つような所は希で、苦節十数年を経てやっと運転まで漕ぎつけられたと云うのが殆どであった。成功を勝ち取るためには努力だけでは足りず、神のお恵みが無ければ不可能だと云わんばかりの劇的な因子が必要なのである。BR&Wも、そのような誠に運の良い人 Whitehead氏の強いリーダーシップと、その家族を中心に多くの同志の参加によって成功を勝ち得たと云えるだろう。詳しいことは割愛するが、私がここを訪ねる前に、地元の地図をいくら探しても“BLCK RIVER”と云う川が見つからないので不思議に思っていた所、この川の名は、そのの昔に保存鉄道の準備をしていた北ニュージャージーのチェスターと云う所が鉄鉱石地帯の南端に属していて、付近を流れる小川の川底が鉄砿石の黒泥であったことから“Black River”と名付けられていたものを鉄道名としていたのであったことが判った。その予定していた土地は高速道路の建設で接収され、新たな線路を探す苦難の道が続いたのであった。彼らが既に成功している保存鉄道の条件などを参考にして土地探しをした結果、ニューヨークのマンハッタンンから“フレミングトン行”として買い物ツアーのバスが出るほど有名な古い歴史の街がアルコとを探し当てた。それはニュージャージー州のほぼ中央にあって、古いタイプの工業の歴史の町で知られるフレミングトンで、ニューヨークのベン・セントラル駅に通じているPC(ペン・セントラル)鉄道の支線に的を定めたものであった。この支線でデラウエア河北岸を走る P Cの亜幹線からランパートヴィルで分岐していて、その頃は週に数便のローカル貨物列車が運行していただけの閑散線であったようである。粘り強いPCとの交渉の結果,週末に蒸気旅客列車の運行を認めてもらうことに成功して、次のステップに進み始めたのである。そして鉄道の名は昔からのBR&Wを引き続き使うことにした。1961年になると基地のあるRingoesとフレミングトンの間12マイルノ間に蒸気旅客列車を走らせる認可を州から得ることができたが、その後6年間を掛けて慎重な準備を行なってからやっと1965年5月に週末だけの運転が行なわれた。その年は運賃2ドルを払って列車に乗った人は26,000人の多くになった。そして PCの運行していた貨物輸送も引受けることになり、これで一人前の普通鉄道のショートラインの仲間入りとなった。この仕事は地元の各工場に対する貨物のサービスであり、その確実な実績は鉄道に対して信頼度を高めて、それが保存鉄道としての大成功にも貢献して、メガロポリスの保存鉄道の草分けの一つとして評価も高いのである。この成功の秘密は、有能なボランティアと従業員の良いチームワークとショートラインとしての賢い経営感覚、それに多大な幸運に加えて,何よりも彼自身の鉄道に対する絶大な愛着の賜であると地元の新聞は特集記事で賞讃を惜しまないのである。
さて、このてつどうの最高の撮影場所にご案内しよう。やや線路に平行して走る街道筋に当たる202号が昔、自然道が採れたと云うカッパーひるの丘を下ると川が安居になっておうだんしていた。そこで直ぐ左折して線路を探しにかかったところ、広々とした低地に牧場がいとなまれ、中を蛇行してきた赤茶色に濁った小川と田舎道を一またぎにしている鉄橋があった。こんななローカルには丸太で組んだティンバー・とれっする(木材架橋)が良くにあうのだが、世界大戦中に、この支線がアメリカ陸軍の鉄道連隊の訓練に活用されたため、路盤や橋梁なども強化されたそ云うので、この橋も立派なトラス橋となったのであろうか。
河の岸辺には水を好むオークの樹木が繁茂していて、汽車の来るのを待つ身にとって格好の木陰を提供してくれた。列車は橋の手前で一旦停車してから、おもむろに最徐行で渡って行った。美しく磨かれた機関車のサイドに陽が当たって水面に映えるのには引きこまれそうになるアングルがあった。再び202号を西方向に折れると,必ず線路に出会る.細いアスファルトの路に続いて,針葉樹林と小さい標識がちらりと見えた所は,ゴルフコースの.9グリーンの辺り、フレミングトンを出発した列車は、Sカーブにさし掛かるのである。真正面の丸い紅いナンバープレートを付けた煙室が右や左にゆれ、aD60は肩を振ってやって来た。休暇を楽しむ人々の笑い声やナイスオンの歓声が賑やかなところに、強いドラフトと気笛が鳴りひびいて、プレーをしたり、客車に手を振ったり、一緒に走り出す若い人のいるところである。投入される石炭,そして強いドラフトによって、吹き上げられたシンダーを降り蒔きながら,ゆっくりとジョイントの音を響りかせながら通り過ぎてゆく。スポーツウェアや首筋に付いたシンダを取り除くのに、またひと騒ぎの歓声が続いていた。聞くところによればBR&Wでは、本格的な瀝青炭を潤沢に使って盛大に煤煙を出すことも売物の一つとしている。正統派でなければ出来ない本物に違いない。aD60が元いた西部コロラドのGWR(グレート・ウエスタン鉄道、甜菜大根の運版用ライン)の悪い褐炭を燃すための工夫をしてあると聞いたが,大粒のシンダーの洗礼には,久しぶりの情感にひたったひとときであった。

撮影:1981年
発表:「レイル」誌・1985年冬の号

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・ブラック リバー & ウエスタン鉄道(BR&W RR)を訪ねて・ニュージャージー州
051. アウトレットのウインドウ越しの♯60・フレミングトンにて