自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・アレゲニー セントラル鉄道:CPRのライト パシフイック機たち
(CPR:カナデアン ぱしフイック鉄道)
034. 初秋のアレゲニー山地を行く高原列車・バージニア州
〈0001:ライト パシフイック CPR1286〉
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〈紀行文〉
このアレゲニー・セントラル鉄道(Alleghamy)を知ったのは、私が1980年の初夏に世界最大規模のSLコレクションを誇る“スチーム・タウン・USA”をニューイングランドに訪ねた時のことであった。この博物館が運営する保存鉄道のグリーン・マウンテン鉄道には4輛ものカナデアン・パシフィック鉄道(CPR)のSLが動態で保存され活躍しているのであった。驚いたことに、ここのSLの姉妹機がバージニア州にあるアレゲニー・セントラル鉄道と云う保存鉄道で二輛も活躍していることを教えられたことであった。アメリカにはカナダのSLを保存運転している箇所が多くあると聞いたのだが、これはカナダのディーゼル化がアメリカより数年遅かっただけの理由ではなく、旅行や通勤における鉄道の地位が高く、特にCPRは多くの支線に使用された近代化SLを持っていたことにもよるだろうとのことだった。
この名前の示す“アレゲニー”と云う名称は、アメリカ大陸の大西洋岸に平行に南北に長々と連なるアパラチヤン山脈の一部の地域の名であることは知ってはいたが、その地域はペンシルバニア州からバージニア州に掛けての台地状の複雑な地形の広い地域を指していた筈であった。
確か、デトロイトのフォード博物館の奥まった所に天井に届くばかりのマンモスSLが鎮座しており、その名が“アレゲニー”であったことが頭に蘇ると、アレゲニー台地を貫いてC&O鉄道の首府ワシントンから、シンシナティ、シカゴへ至るメインルートが通っていることも連想された。
このルート上には余りにも有名なリゾート地で知られるホワイト・サルファー・スプリング(white sulfer spring)があり、アレベニー台地の西の標高580bの山麓にあって、ウエストバージニア州の東南の一角にあった。この地域で最も早く開けたのはグリーン・ぶらいやー河の川岸で白硫黄泉の湧出しているのがが発見され、リューマチの治療に効くことが判ってから保養地としての発展が始まり、ほてるも建てられた。そして南北戦争の時には、野戦病院として大いに用いられたと云う。
1930年代には大鉄道会社による沿線での大リゾートの開発競争が始まった時期であり、C&O鉄道はこのリゾートホテルを買収した。そして、このホテルを更に拡充し高レベルの満足を顧客にもたらすサービスを実現させる努力を払う一方、ここにコンベンションなどで集う政財界の大立て者達を乗せたプライベートカー(私有客車)の運用にも最大限の安全と快さを提供する方針で高い評価を得て、著名人の集まるリゾートとしての名声を得ていたのであった。このホテルの前には昔の賑わいを彷彿(ほうふつ」させるレンガ建てのC&O駅があり、今は無人駅だがアムトラック(アメリカ旅客輸送公社)のニューヨーク−しんしなてぃ−インデアナポリス線の列車が走っている。この派手な役割きはともかくとして、ここを通過するC&O鉄道はアパラチヤン山中の各地で産出する豊富な瀝青炭(れきせいたん)を大西洋岸の港湾や工業地帯への輸送と云う大切な使命も果たしていたのである。何しろ、州都チャールストンから1時間半、首府ワシントンから3時間と云うそれほど遠くない地の利の上、夏でも20℃を越えない避暑地を兼ねたリゾートであり、コンベンションなどの社交の中心としてのだぶるういん グリーン ぶらいやー りぞーと ほてる、ゴルフ場などが更に開業し繁栄の道を進んだ。その後も、太平洋戦争では捕虜収容所、陸軍病院として活用されたり、冷戦中の1961年にはホテルの地下にアメリカ政府の首脳部がすっかり収納できる核シェルターの機能を持つ地下壕が完成するなど注目を集めている土地柄である。
さてこのホワイト・サルファー・スプリングから南下して隣のバージニア州のコビングトン(covington)を経て、クリフトンふおーじ(clinton forge)に延びる元C&Oのホット・スプリング支線を使って保存鉄道を運行しているのがアレゲニー・セントラル鉄道であったのだった。
この鉄道の始まりは、クリフトンフォージにあるC&O修理工場に勤めていたjack showalterさんが自分のSLを持つことを望んでいたことからであった。そして、最初にCPRの軽量パシフィック型のaD1238を手に入れたようである。
その後1972年になって、アレゲニー セントラル鉄道を組織することにせいこうし、1975年からコビングトンに基地を構えて元C&O鉄道のホット スプリング支線を借りて列車の運行をアレゲニー郡で始めた。
1983年にクリフトン フォージの近くで洪水が起こり路盤が流失してしまった。
そこで1987年までは隣のメリーランド州に疎開して活動していたが、更にC&も傘下にしている大鉄道システムのCSXの支援を受けて再開に進んでいるようだ。
このアラゲニー・セントラルと云う名前は鉄道発展期にバージニア州の大西洋岸からアパラチヤン山脈を越えて西部へのルートを建設していたバージニア・セントラル鉄道の支配下で、
バルチモアからポトマック河の上流を上ってオハイオ河流域に抜ける事に成功していたバルチモア・アンド・おはいお鉄道(B&O)との連絡を目指して ホワイト・サルファー・スプリングを経由するアレゲニー・セントラル鉄道が建設された。この由緒ある名前を受け継いで設立されと云うのであった。
秋も深まりSLの運行シーズンも終わりになりかけた頃、隣州のウエストバージニア州にあるホワイト・サルファー・スプリングを目指した。この州の高速道路の網の目は未だ粗いので狭い一般の国道をひたすら走らねばならないし、まして鉄道の沿線となると全く田舎道で線路に沿った道は希である。早朝の温泉リゾートはひっそりとしていたし一方のコビングトンの町に入るとユニオン・カーバイド社の活性炭工場だけが、化学工業らしい雰囲気を漂わせて操業をしていた。所が、アレゲニー・セントラルの出発点に当たる売店も開くのは昼頃とのことでひっそりとしていた。
ハイウエーサイドにある州の案内書でもらったウエストバージニア州の公式まっぷには鉄道線路が記入されていたので、それを穴の開くほど見つめながら沿線の様子を探りに出掛けた。どうも列車の運行はホワイト・サルファー・スプリングまでは行かないらしく、州境の原野のただ中で、そのまま、逆行推進運転で帰途につくらしい。この沿線の牧場も農地も放置されてひさしいらしく、荒れ地に戻っているところが多かった。
基地に戻って見ると、それでも昼を過ぎる頃になると、どこからか人々がわき出てくるように売店がにぎやかになり、SLもやっとかめらのショットの洗礼を受けることができるようになった。
出発風景を撮ってからお目当ての撮影地点に向かっていた。
煙室をシルバーにアメリカ流に塗装した.1286が僅か二輌の客車を牽いてゆっくりと州境に続く小さな峠を登ってきた。高原には名も知らぬ紫の実をつけた蔓草が生い茂っていた。次の展示の35.にはSLの準備風景を撮ってあります。
撮影:1980年
発表:「レイル」誌・1980年12月、冬の号、年賀状
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・「アレゲニー セントラル鉄道:CPRのライト パシフイック機たち」のリンク
035. アレゲニー山中のCPR1286・バージニア州