思えば、俺たちのバンドが順調に活動をはじめられたのは、ヴォーカルのポジションに純が収まってからだ。
俺と純の兄貴の廉は小学校からの腐れ縁で、廉にくっついてきては俺たちと遊んでいた五つ下の純とも、幼稚園鞄を背負っていたガキの頃からの付き合いだ。
あれは今から三年前のことだ。
バイトに明け暮れながらいつかプロになることを夢見て活動を続けてきた俺たちのバンドにとって、その日のライブは今後の活動の在り方を左右する、と言ってもいいほどの、重要なライブだった。
ところが、だ。
その大事な日に肝心のヴォーカルが姿を眩ました。
怖気づいたのか、ただの気まぐれか、もしくは嫌がらせか。
今となってはわからないけれども、とにかく一向に現れないヴォーカルの全く連絡が取れない携帯を何度も何度もコールしながら、刻々と迫ってくる開演時間に青くなり、こうなったら残った四人のメンバーのうち誰かが歌うしかないかと押し付け合っていたその時、チーッス、と、暢気に楽屋に入ってきたのが純だった。
例えばこの時現れたのが兄貴の廉の方だったとしても、俺たちは同じことをしただろう。
そのくらい、切羽詰まっていた。
一瞬で同じ考えを巡らせた四対の血走った眸を一斉に向けられた純は、ただならぬ雰囲気を感じ取ってその場に足を止めた。
「え? な、なに?」
「おまえ、俺らのバンドの曲、全部歌えるよな?」
尋ねたのはドラムの龍太郎。
「歌えるけど……」
「よし。決まり。よろしくね」
有無を言わさぬ笑顔でベースの陸が純の肩をたたく。
「は?」
「大丈夫。俺ら、しっかりフォローするから」
その役どころが一番似合わない雅紀はキーボード。
「え、ちょっと……」
「おまえのクソ度胸は俺が保証する。カラオケ大会で優勝するつもりで歌いきれ」
おまえに選択肢はないと言い切ったのは、ギターの俺。
そう。
幼馴染だからこそ知っている、おまえの思い切りの良さ。それはここではうまい下手以上に心強い武器になるはずだ。
「紫苑さん、目がものすごーく怖いんですけど……」
「大丈夫。できないことをやれとはいわない」
「何それ。ハードル高すぎるんですけどっ! ってゆーか、どういうこと? 宏史さんは?」
「その名前は金輪際口にするな」
ぴしゃりと言って今日のセットリストを叩き込んだ俺たちは、純をスポットライトの下に立たせたのだ。
土壇場でヴォーカルが消えたことはありえない不運だったけど、白羽の矢が純だったのは俺たちにとっては相当な幸運だった。
この時の純は16歳。
唄い方なんて荒削りもいいとこで、声量だって十分に足りてるとは言い難い。派手なパフォーマンスなんて端から期待してはいなかった。
実際パーフェクトに歌いきれたわけじゃなかったけれども。
純の唄をステージで聴きながら、宝の原石を引き当てたことに気づいたのは俺だけではなかったはずだ。
自分の作った曲を歌われて、こんなふうに鳥肌が立ったのは初めての体験だった。
その日のライブ以来、俺たちはヴォーカルに純を加えてバンドの活動に更に邁進した。
と言っても、まだ高校生だった純には裏方的なこと、雑用的なことは一切やらせずに、ステージで歌うことに専念してもらっていた。本人的にはそんな扱いを折に触れ申し訳なく思っていることは十分伝わってきたけれども、無関係の純を巻き込んでしまったという意識の強かった俺たちは、高校卒業までは特別扱いにしてやるよ、と、冗談めかして言っていた。
「そのかわり、その後は俺たちの倍は働けよ」
「今だって、力仕事だったらリッくんの倍はできますよ……って、痛い! ちょっと! なんで蹴るんですか!」
「俺が非力だって言ったからだ」
「自分で言ってるんじゃないですか! 俺何も言ってませんよ」
「同じいことだろうが」
「違いますよ!」
「俺よりでっかいからっていい気になるなよ」
「だからそんなこと思ってませんってば!」
濡れ衣だ! と叫ぶ純を、陸が笑いながら蹴っている。
賑やかなのはいつものことだ。
ヴォーカルになる前から俺たちのバンドメンバーとは付き合いのあった純は、すんなりと俺たちの中に溶け込んだ。
俺と龍太郎が純の兄の廉と高校が一緒で、とにかく俺たちは仲が良かった。バンドを始めた時も廉を誘ってはみたものの、当時の廉はサッカー一直線で、バンドには欠片も興味がなかったようだ。むしろ、廉に連れられて時々俺たちのところに顔を出していた純の方が、気づけば、廉がいないくとも、ひとりでフラリと俺たちのところに来るようになっていた。
だから純は俺たちの唄が歌えたし、あの日のピンチヒッターをこなしきることができたのだ。
純を加えたバンドスタイルが定着し、インディーズでそれなりの評価を得た俺たちにデビューの話が舞い込んできたのが二年前。
迷ったけれども、純が高校を卒業するまではデビューを待ってもらうように掛け合ったのは、純以外の俺たち四人の総意だ。ちなみに、純にはデビューの話があったことは知らせなかった。
時間をおくことで流れるような話なら、最初から縁がなかったと思えばいい。
龍太郎の言葉に、その時の俺たちは頷いた。
だが、幸いにもそれが理由でデビューの話が流れることはなく、純の高校卒業と同時に俺たちはメジャーデビューを果たした。
それが一年前のことだ。
高校生だった純の送り迎えは主に俺がしていた。当然、一緒に過ごす時間は自然と増え、それまで見えていなかったお互いのいろいろな面が見えてくるようになる。気づけば俺たちは、今まで以上にいろいろな話をするようになっていた。
バンドのこと。家族のこと。他愛もない日常の出来事。
おもしろかったこと。ムカついたこと。悲しかったこと。
将来への不安。抱いた夢と希望。
思えば、ひっきりなしに喋っていた気がする。
バンドメンバーは家族とはまた違った意味で俺の人生の核を成す存在になっていたし、その中でも純は特に俺の近いところに常にいたような気がする。
メジャーデビューしてからも、俺たちの距離感は変わらなかった。
むしろ、より近くなったと言った方が良いくらいだ。
俺は年下の純を手放しで可愛がったし、仕事を離れたプライベートでもつるんでまわるようになり―――――いつからだろう?
純がその好意を場所を選ばずに全身でぶつけてくるようになったのは。
雑誌の取材でも、ライブのステージ上でも、私的な会話の中でも。
『紫苑さん大好き』
臆面もなくそんな台詞をサラリと唇に乗せるようになった。
『え? だって俺、紫苑さんのこと愛してるし』
もちろん、言葉通りの意味にとる者は誰もいなかった。
インタビュアーはバンドメンバーに向けた微笑ましい言葉遊び程度にしか受け取らなかったし、黄色い歓声を上げる客たちも、リップサービスくらいにしか思っていなかったはずだ。
ゴールデンレトルリバーを従えて歩くロシアンブルー。
誰かが言った俺たちを表す言葉はあまりにも的を射ていると、陸が腹を抱えて笑っていたことがある。
「紫苑が血統書付のロシアンブルーって……超ウケる」
「どこにも書いてないだろ! 血統書付って」
「いや、でも紫苑、育ちはいいじゃん」
「“は”ってなんだ、“は”って! そこだけ強調するな」
「じゃ、ほかに何がいいんだよ?」
「全部!」
面白そうに尋ねる陸にすかさず答えたのは純だ。
一瞬の間をおいて、笑いはメンバー全員に波及した。
「全肯定かよ。おまえ、ホント紫苑のこと好きなんだな」
「うん。好きっスよ」
無邪気に笑いながら囁かれる言葉は、ひどく甘く優しく俺の心に響いた。
だけど、俺もそんな純の言葉を、ただのガキの戯言だと思っていた。
挨拶程度の軽い意味しか持たない言葉だと思っていた。
いや、本当はそう思い込もうとしていただけなのかもしれない。
だって俺は気づいていた。
そのたびに俺の心臓がトクン、と、大きく跳ね上がることに。
そして俺は、笑顔の陰に見え隠れする純の真摯な眸に気づいていながら、気づかないふりをしていた。
その眸に、呑み込まれてしまうことが、怖くて。
否。
傾倒していく想いに歯止めがきかなくなってしまうことが、怖くて。
そう。
怖かったのは、強く向けられる想いではなく、自分の中から溢れてくる想いの方だ。
俺の心の奥には決して悟られてはならない想いがあることに、この時の俺はすでに気づいていた。
それは、好意などと言う可愛らしいものではなく、自然の摂理に背いた禁断の想い。
けれども。
あとからあとから溢れてくる、決して枯れることのない想い。
いつから?とか。
どうして?とか。
この気持ちに対してそんな問いがけほど無意味なものはない。
気付いたら俺の胸の中にはその想いが芽生えていた。
絶望的なほどに明確な欲を伴って、しっかりと俺の心に根付いていた。
どれだけ打ち消しても否定しても。
ダメだと己に言い聞かせても。
一度自覚してしまった想いを殺してしまうことはどうしてもできなくて―――――俺はひたすらに脅えていた。
「大好き」と言われるたびに、「俺も」と、返してしまいそうな自分に。
そんな俺の内面を見透かしているかのような純の眸に。
本当の自分を暴かれることが怖くて、人懐っこい笑顔を向けてくる純を邪険に扱い、時に年上ぶって諭すようなことを言い、わざと突き放して自分の気持ちに蓋をした。
意図的にそんなことを繰り返しているうちに、いつしか俺は、純が俺に対して心から笑いかけることがなくなってしまっていることに気付いてしまった。
身勝手なもので、その瞬間、心が凍りつくような痛みを覚えた自分を俺は嗤った。
これは俺自身が望んだことなんだと懸命に言い聞かせ、胸の奥で疼く痛みを噛み締める。
これで良かったんだと。
けれども、それは純の想いを完全に無視した、ひとりよがりの思い違いに過ぎなかったことに、俺は程なくして気付かされることになる。
それは、俺と純とが待機していた楽屋でのことだ。
思うようにきまらない髪と悪戦苦闘をしていた俺は、鏡越しに向けられた純の視線に気付いた瞬間、息が止まった。
内面に渦巻く激しい想いのすべてを、両の眸に凝縮させたような視線。
俺の嘘も、強がりも、年上としての矜持も、すべてを剥ぎ取られ、生身で晒されているような、そんな心もとない感覚に捕らわれ、次の瞬間俺の全身が総毛だった。
鏡越しに絡まる視線。
強烈な引力を備えたかのような眸から、俺は目が離せなくなる。
小刻みな震えが全身に走った。
血の気が引き、指先が完全に冷たくなってしまっているのに、腹の底は燃えるように熱くて。
鼓動が早鐘のようにドクドクと脈打っている。
全身に絡みつく視線が痛いのか熱いのか。
痺れた思考では判別がつかない。
ゾロリ、と。
俺の中で押し殺してきた獣が頭を擡げた。
―――ダメだ。ダメだ、ダメだ!!
俺はソイツを懸命に押しとどめる。
眩暈がしそうなほどの緊張を強いられる中、純の唇が開きかけ、本気で意識が遠のくかと思ったその瞬間。
「ちょっと聞いてよ! 今日の俺の撮影さ、超タイヘンだったんだよ!」
張りつめていた緊張感を断ち切ったのは、大変さなど欠片も感じさせない雅紀の暢気な声だった。
「おまえが勝手にタイヘンにしてただけだろ」
続いていつも通りの突っ込みを入れながら、陸が入ってくる。
「そんなことないって! ねぇ、龍ちゃん、タイヘンだっただろ?」
「さぁ?」
俺に振るなと、龍太郎が迷惑そうに肩をすくめる。
「はいはい。無理に同意を求めない」
「ちょっと陸ちゃんさ、最近俺にあたりキツくない?」
「何言ってるの?そういうの『被害妄想』って言うんだよ。ってゆーか、雅紀、おまえ被害妄想の意味、ちゃんとわかってるのかよ?」
「は? ソレくらい俺にだってわかってるっつーの!」
「ホントかよ」
ドアを開けるのと同時に騒ぎながら入ってきた三人に助けられたような気分で、俺は安堵の溜息をついた。
そんな俺を責めるような一瞥を投げかけて、純は眸を逸らす。
途端に、砂を噛んだような後味の悪さが胸に広がっていく。
けれども。
「あれ?紫苑まだ用意終わってないのかよ? あと10分くらいしたら集合って言ってたよ」
「あ、ああ。すぐ終わらせるよ」
「ってゆーか、何やってたんだよ。今まで」
「ごめんごめん」
雅紀と陸に今やるべきことを指摘され、そんな想いは霧散していった。
このとき俺は気付くべきだった。
俺たちの思いをギリギリまで溜め込んだ器は溢れる寸前で、表面張力でなんとか保たれているような状態だってことに。
たぶん、もう、限界だったのだ。
見ないふりをするには。
気付かないふりをするには。
そうするにはもう俺たちの想いは、あまりにも深く、そして大きく、育ちすぎてしまっていたんだ―――――
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