それは、彼が19歳の誕生日を迎えてから少ししてからのことだ。
音楽番組の収録を終え、うっかり話し込んでしまったプロデューサーとの話を切り上げて帰ろうとした俺の前に、純が立っていた。
「…………」
けれども、立ったままで、何か話しかけてくるわけでもない。
沈黙がどうにも気まずかったけれども、壁際にいる俺がこの場を離れるためには、彼の横をすり抜けて行かなければならない。
無言で立ち去るわけにも行かず、俺は口を開いた。
「――――何?」
まっすぐに俺を見つめていた純が、ためらいを振り切るように軽く息を吐く。
「紫苑さん、このあと時間ある? 話あるんだけど?」
その声音と、眸の真剣さに、頭の中で警鐘が鳴る。
ヤバイ、と。
本能が叫んでいる。
その話を聞いてしまったら、もう、後戻りは出来ないと。
そんなふうに思わせる何かが、純の全身から滲み出ていた。
縋るように周囲を見回したけれども、片づけ作業に勤しむスタッフの姿が見えるだけで、他のメンバーの姿はなかった。そういえば、龍太郎は調子悪いから先に帰るって言ってたっけ。陸と雅紀は他のバンドのメンバーたちと飲みに行くって言ってたな。
よりにもよってこんな時に、と、悪態をつきたくなったけれども、そうじゃないことを俺は知っていた。
順番が逆だ。
こんな時だからこそ、純は俺を呼び止めたのだろう。
乱れた鼓動を悟られまいと、俺は滑稽なほど必死で笑顔を張り付かせた。
「あ、悪い。このあと俺、ちょっと約束あるんだわ」
もうすぐ深夜になろうという時間帯にこんな苦し紛れの言い訳しか浮かばない俺に、純は表情を変えずに言った。
「じゃ、それ、終わるまで待ってるから」
「え? でも何時に帰るかわかんないし……」
「いいよ。待ってる。どうしても今日、話したいことがあるんだ」
引くつもりのないらしい純に、パニック寸前の俺は勘弁してくれと、わめきたい気持ちを必死で押し殺した。
「ホント、今日はダメなんだ。もう遅いし……別の日でもいいかな?」
言った瞬間、俺を見る純の眸に嘲るような皮肉な色が宿り、そして彼は俺に視線を絡めたまま、凄みのある笑みを浮かべた。
燃えるような眸に宿るのは――――静かに湧き上がる怒り。
それが、獰猛な大人の雄の顔だということを本能的に悟った俺の足元から、絶望的な震えが走った。
やめてくれ、と。
この日常を壊してしまわないでくれ、と。
だけど俺は、逃げる余地のない言葉をぶつけられ、純の覚悟の重さを知ることとなる。
「別の日っていつ? ここできちんと約束できるの? 大体俺が何度紫苑さんに声かけたか知ってる? 何度ごめん、って断られたか覚えてる? その回数、きっちり教えてあげようか?」
本気でいちいち数えていたとは思えない。
けれども。
冗談にも聞こえない声に俺は純から視線を逸らして俯いた。
「……悪い。でも、今日はマジで都合つけらんなくて……」
歯切れの悪い俺に深いため息をついた純は、「仕方ないね」と呟いた。
「ホント、ごめん……」
これで開放されると、ほっとして顔をあげた俺は、次の瞬間奈落の底に突き落とされたような気分を味わうことになる。
「いいよ。じゃあ、手短に、いまここで話すから。聞いて」
「――――!?」
「俺ね、」
「やめろっ!!」
思わず迸ったそれは、それは悲鳴にも似た叫びだった。
声のトーンを落とすことが出来たのは、奇跡に近い。
後ずさった俺の手首を逃げるなと言わんばかりの強さで純が掴む。
聞きたくないと。
言葉にするかわりに頭を振る。
暴いてしまわないでくれ、と。
切羽詰った俺と同じように、純の口調からも余裕はなくなってしまっていた。
「どんな内容かもわからないのに、俺にやめろって言うの? それっておかしくない?」
「…………」
「本当はとっくにわかってるよね。紫苑さん、頭いいモン」
「…………」
純の身体が一歩、俺に近づいてくる。
捕まれたままの手首が熱を持ったように熱い。
「別に俺は誰に聞かれたってかまわないんだよ?」
純の本気と狂気がない交ぜになった眸。
次の瞬間にでも本気で叫び出しかねない彼を前にして、頷くこと以外、俺にできるはずもなかった。
「わかったから……手、離して。ちゃんと話、聞くから」
誰に見咎められないとも限らない。
何よりも。
底から伝わってくる純の体温に、これ以上耐えられそうにもなかった。
震える声を必死で振り絞る俺の言葉を聞き届け、純は俺の手首から指を離す。
「外で待ってるから」
「ああ」
「言っとくけど。逃げたら今度会った時、その場で話の続きはじめるからね」
逃げ出す気力なんて根こそぎ奪われてしまってるのに。
それでも純は釘を刺すのを忘れない。
俺の返事も聞かずに踵を返した純の背中を見送りながら、その場に膝から崩れ落ちそうになるのを辛うじて堪えた。
全身の震えが止まらない。
往生際悪く、その場にぐだぐだと留まっていた俺だったけれども。
さすがにほとんどのスタッフが撤収してしまったスタジオにいつづけられるわけもなくて。
結局、逃げることもできずに、純に誘われるままホテルの一室に連れてこられてしまった。
「そんなに緊張する意味がわかんないんだけど?」
顔をこわばらせたままの俺を見やる純には、さっきスタジオで覗かせた激情は見受けられない。
けど、この状態で緊張するなって方が無理だ。
備え付けの冷蔵庫からペットボトルを二本抜き取った純が、どっちがいい? と尋ねてくる。
差し出されたのは、ミネラルウォーターとお茶。
いっそアルコールを口にしたいと、俺は切実に思っていたのだけれども、これからの話を酔いに紛れさせてしまうことの方が怖くて、何とか堪えた。
お茶をもらって渇いた喉を潤し、口を開く。
「おまえ、なんだってあんな、脅迫めいた真似……」
「だってああでもしなかったら、紫苑さん、話聞いてくれなかったじゃん。穏便に話をする機会、俺は何度も作ろうとしたよ」
純の言葉が胸に刺さる。
確かにそのとおりだ。
そして俺は、その機会をことごとくはねつけてきたのだ。
「避けてたでしょ? 俺のこと」
ああ、避けてたよ。
こうやってお前と向き合うことが怖くて。
自分の気持ちを吐露してしまうことが怖くて。
だけど。
心の奥の奥では、ねっとりと絡みつくお前の視線に心地よさすら感じていた、サイテイな俺。
「ねぇ、どうして?」
すらりとした指先で頬をなでられ、そうしてはじめて俺は震えているのが自分だけではないことを知る。
ようやく俺は、コイツがまだ19歳のガキなんだってことを思い出した。
年上である俺が、流されるわけにはいかないと、改めて言い聞かせる。
「俺さ、紫苑さん。俺………」
熱に浮かされたような声。
掠れた声に欲望を覚えた自分を恥じながら、彼の紡ぐ言葉を最後まで聞きたいという願いを俺は押し殺した。
「ダメだ。純」
「どうして?」
「ダメなんだ」
俺は男で。
おまえも男で。
とても当たり前のたったそれだけのことで、いろいろなしがらみから逃れることが出来ない。
ましてや、俺たちは五人でやっと一人前のグループだ。
ここに至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
紆余曲折を経てようやく安定した仕事が入ってくるようになったこの時期に。
あえて荊の冠を被る必要はない。
あえて十字架を背負う必要はないんだ、純………
「もうちょっと落ち着いて、まわりを見てみろよ。もっとおまえに合う子、いるかもしれないだろう?」
自分で発した言葉が痛い。
馬鹿な俺。
潤したはずの喉がヒリヒリと渇いて痛む。
「どういう意味?」
一気にフリーズしたような冷たい声音に俺の背中からはいやな汗がじわりと滲んだ。
怒っている。
だけど、ここでやめるわけにはいかなかった。
「ホラ、俺らの環境、ちょっと特殊だし? 忙しすぎてここのところメンバーとべったりだったけど、落ち着いて周りよく見てみたら、かわいい子、いっぱいいるって。今日の収録で共演した子たちだってメッチャかわいかったじゃん。誰かとつきあってみたら……」
「何言ってるの?」
怒りを隠そうともしない声音に俺の言葉はぴしゃりと遮られる。
「…………」
「本気で言ってるの? それ。ねぇ、紫苑さん、それ、本気で言ってる?」
「…………」
「俺に合う子ってなんだよ? つきあうって何? 俺の気持ち、何だと思ってるんだよ。紫苑さんのこと、こんだけ欲しいって、俺の心も、身体も、なにもかもが叫んでるのに。なんで他のヤツ抱けるんだよッ!?」
「――――!!」
激昂する純の言葉が俺の魂を鷲掴む。
掴んで、そして激しく揺さぶっている。
あぁ、と。
底のない絶望と共に込み上げるのは―――――突き抜けるような歓喜。
かつて、これほどまでに激しい言葉をぶつけられたことはなかった。
かつて、これほどまでの独占欲をあからさまに示されたことはなかった。
それを今、最も愛しいと思っている相手から与えられる至福。
罪深い…………俺。
「好きだよ、紫苑さん。俺、何度も言ってるよね?大好きだって。 他の誰もいらない。紫苑さんしか欲しくない。俺には紫苑さんじゃなきゃ意味なんてないんだ」
馬鹿みたいに立ち尽くしたままの俺をそっと抱きしめて、純が搾り出すような声で囁きかける。
「こたえて。ごまかしたり、逃げたりってのはもう絶対に許さない。許さないよ、紫苑さん……」
「純……」
からからに渇いた喉。
ひび割れた声は言葉にならなくて。
ただ、もどかしげに空気を揺らす。
抱きしめても、いいのだろうか?
抱きしめても、許されるのだろうか?
いや。
誰に許されなくてもいい。
そのことを、年下のこの男から教えられた気がする。
葛藤する俺を、決して純は急かさなかった。
散々に迷いながらのろのろと動かした両腕を、純の背にまわした瞬間、彼の背がピクリ、と強張り、安堵したような吐息が零れる。
彼もまた、苦悩と葛藤を抱えていたことを物語るかのような吐息だった。
胸が締め付けられるような想いが込み上げる。
「俺のこと、好き?」
ストレートな問いかけに、俺はただ、頷くことしかでない。
「本当に?」
もう一度、強く頷いてみせる。
「どんなふうに……?」
たまらないほど悩ましい声。
「――――え?」
思わず純を見やった俺に、彼は今まで見たことがないような表情を浮かべて言った。
「答えられないなら教えてあげる。俺がどれだけ紫苑さんを好きか。どんなふうに好きか。ちゃんと紫苑さんに教えてあげる」
「ちょ……」
本能的な脅えに逃げを打つ俺の躯を腕の中に閉じ込めて。
あやすような口吻けが何度も繰り返される。
瞼に。こめかみに。頬に。そして―――――唇に。
舌先でやさしく促され、薄く開いた唇の中に熱い舌が差し込まれる。
歯裏をなぞられ、舌を絡み取られ、ゾワリとした痺れが全身を巡る。
気付けば、彼の口吻けに答えるように自分からも舌を蠢かせていた。
あまりの心地よさに眩暈すら覚えそうな酩酊感に溺れ、俺はベッドにそっと横たえられたことにすら気付かなかった。
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