そんな桐嶋の姿には気づかないまま、怜が階段を上りきったちょうどそのとき。
隣室の扉から、足音を聞きつけた倉光が顔をのぞかせた。
「やっぱ怜さんだ。買い物行ってきたの?」
「うん! 夕飯の食材の買出し。今日は崎谷が作ってくれるって言うからさ。俺がお使いに行ってきた」
崎谷と倉光の尽力もあって怜の学習の成果は顕著に現れ、読み書きだけではなく、足し算引き算程度の計算はこなせるようになっていた。部屋の中だけに限られていた生活空間も外へと広がり、アパートの付近はひとりで自由に出歩くようになっている。物の流れ、人の動き、社会の仕組みを感覚的に理解し、日用品の買い物を支障なくこし、怜は実社会そのものに溶け込みつつあった。
「今日の夜さ、俺も料理持参で一緒していい?」
「もちろん」
「じゃ、そっちのメイン何か教えて。かぶらないようにするから」
「オッケー。ちょっと待ってね」
言い置いて、自宅の扉をあけた怜が叫ぶ。
「崎谷! 崎谷!」
「あ、怜さん、お帰り」
「ただいま! あのさ、今日の夕飯、倉光くんも一緒でいいよね?」
「もちろん」
怜とそっくり同じ返事を返した崎谷に、怜はなおも玄関先から声をかける。
「倉光くんも何か料理作ってきてくれるって言うんだけど、ウチのメインって何?」
「え〜!? ちょっと怜さん! 買い物頼むときに言ったじゃん」
「うっそ。聞いてないよ」
「ひどいよ! 俺ちゃんと言ったって!」
と、玄関先まで移動してきた崎谷が抗議の声をあげる。
「ごめんごめん。じゃ、もう一回教えて? 今日の夕飯なに?」
上目遣いで小首を傾げる怜に「まったくもう〜」と文句を言いながらも、素直に夕飯のメニューを上げていく崎谷の姿に倉光がふきだした。
「ちょっとなによ、倉光くん」
「いやいや」
「なんか感じ悪くない?」
「ぜんぜん」
おどけて笑い、それ以上絡まれる前に、倉光はそそくさと自室へと引き上げていく。
「1時間くらいしたらそっちいくから。あと、すっげぇおもしろいって評判のDVD借りたの。食事の後でいっしょに見ようぜ」
「何々? 何のDVD?」
目を輝かせた怜に「内緒」と片目をつぶってみせる。
「あとでのお楽しみだって」
「わかった」
「じゃ、またあとで」
「うん。あとで」
手を振る倉光を見送った怜も、洗面所で手を洗ってキッチンの崎谷の隣に立った。
「何か手伝うよ」
「あ、じゃ、そこの野菜洗ってくれる?」
「了解」
そのとき。
ピンポーン
鳴らされたドアのベルに二人は顔を見合わせた。
「誰?」
二人の家を訪ねてくる者がいるとすれば、それは倉光しかいない。だが、倉光とはいまさっき、別れたばかりだ。今ごろは料理の腕を振るう下準備に取り掛かっているだろう。
では、誰だ?
訝しげな表情で視線を交わす。
ピンポーン
再び鳴らされたベルの音に、崎谷が動いた。不安そうにシャツの裾をつかんだ怜の肩に「大丈夫だから」と手を置き、鍵を外してドアノブをまわす。
開かれた扉。
そして。
そこに立っていた思いがけない人物の姿に、息を呑んだ。
「桐嶋さん……」
身体をこわばらせた崎谷の背後から、怜も桐嶋を見つめている。
だが、以前のような人懐っこい眸で駆けては来ないことに一抹の寂しさを覚え、桐嶋の胸が軋む。
「話がある。中に、入れてくれないかな?」
「……………」
「……………」
あまりにも唐突な桐嶋の来訪に動けないままでいる二人に桐嶋は続ける。
「崎谷。俺がここに来たってことは、おまえたちの居所は研究所側に知られているってことだよ。俺だけじゃなく、そのうちやつらも間違いなくここにくる。その前に、俺はどうしても………」
予測し得なかったことではないけれども。
突きつけられた事実に、崎谷の足先から震えが走る。
「いつから? いつからわかってたんですか?」
「最初から」
「―――――!!」
崎谷を打ちのめすには十分な一言だった。
ようやく合点が行く。自分たちに対する追跡がなされていなかったわけではない。する必要がなかったのだ。
桐嶋の言葉の通りなら、自分たちは彼らの監視下で、闇雲に走り回っていただけなのだから。
では何故? 何のためにそんなことを?
かつての疑念が再びよみがえる。
その答えを、いま、桐嶋が運んできたのだろうか?
「最初からわかってたのに、今になってここに来たのは、何か理由があるの?」
「ああ」
今のこの日常が楽しくて、満たされていて、幸せで。
そんな毎日があまりにも当たり前のように行き過ぎてゆくものだから、忘れかけていた。
自分たちが逃亡者であることを。
置き捨てて来たはずの過去に今なお縛られているという現実を。
その過去の象徴であるもののひとつが桐嶋の存在だ。出来ることならかかわりたくはないと思いながらも、ここで邪険に扱うには、彼から受けた恩義は篤すぎた。そして、いまの自分たちの置かれた状況を把握するためには、崎谷の知りうる情報量はあまりにも乏しかった。
彼からなら、何かを聞きだすことが出来るかも知れない。話し合いの余地はある。そう、判断した崎谷は、桐嶋を招き入れるために扉を開けた。
「あがってください」
「ありがとう」
足を踏み入れた室内は食事の準備の最中にあり、あたたかな生活感にあふれていた。多少散らかっている箇所はあっても、だらしのない乱雑さはなく、全体的にきちんと片付けられている。
「ずいぶんきれいにしてるんだな」
それは、怜がこまめに掃除や整頓を手がけているからだ。ここで暮らし始めたとき、仕事に疲れた崎谷がゆっくりとくつろげるようにと、帰りを待つ間に怜が己に課した責務のひとつだった。中古品でそろえた家具も、傷みの目立つものは修理したり、塗りなおしたりと、ずいんぶんと手を加え、見違えるように生まれ変わっている。
そうやって二人で、時に倉光の手を借りて、一つ一つ丁寧に、大切に築き上げてきた結果がこの部屋だ。居心地の良い穏やかな空間。
「桐嶋さん。今いるこの部屋が俺たちの楽園です。研究所を出てから怜さんと二人で作ってきた俺たちの本当の楽園」
誇りたかった。
そして、認めてもらいたかった。
怜は外の世界でも十分にやっていけるということを。S級の因子などにとらわれることなく、他人と上手く折り合いをつけ、世間一般の人たちと変わらない日常を送ることができるということを。今この場にいる桐嶋にこそ、認めてもらいたかった。
「俺たち、きちんと生活しています。俺も怜さんも、ちゃんと働いて稼いで、社会の中で不自由なく生活している」
「働いてる? 怜が?」
その問いに、怜が答える。
「うん! 倉光くんの仕事、イロイロ手伝ってるんだ。梱包の作業は全部ひとりでできるよ。買い物だっていけるし、郵便出しにもいけるし、パソコンはまだあんまり上手く使えないけど、でも、これからがんばって覚えるし………。俺、ちゃんと働いてるよ。この間はじめて給料だってもらったんだ」
「怜…」
驚いたように眸を見開いた桐嶋の相貌の中に柔らかな微笑を見て、怜は眸を輝かせる。怜の知っている桐嶋らしい表情を、ようやく見つけることが出来たから。
いつだって桐嶋は自分を褒めてくれた。
初めて花を咲かせたときも、ギターを弾いたときも、いつだって。
だから今度も桐嶋はきっと褒めてくれる。いつもみたいに笑って。
今もそうなのだと。そのために彼はここに来たのだと、そう思いたかった。
「すごいな」
「でしょう!」
「びくりしたよ」
「へへ……」
照れたような笑いを浮かべた怜の前髪をくしゃりとなで、しかし、桐嶋は、怜が期するものとはかけはなれた言葉を口にした。信じがたい言葉を。
「怜」
「何?」
「俺ね、おまえを迎えに来たんだ」
「……え?」
「一緒に帰ろう」
やはり、桐嶋の用件はそのことか、と、崎谷はやるせない思いで拳を握りしめる。
どんなに話しあったとしても、研究所に属する者たちとは決して歩み寄ることは出来ないのだと、改めて思い知らされた瞬間でもあった。永遠に平行線であるならば、せめて、永遠に放っておいて欲しかった。誰にも迷惑をかけることなく、こうしてひっそりと暮らしている自分たちを、放っておいて欲しかった。
たったそれだけのことが、なぜ、許されないのだろう?
一方の怜は、桐嶋の言葉の意味がまったく理解できないまま、訝しげに首をかしげる。
――――帰ろう。
桐嶋はそう言ったけれども。
でも、どこに?
「何言ってるの? 桐嶋くん。俺の帰る場所はここだよ。ここ以外、俺の帰る場所なんてどこにもないよ」
自分の居場所は崎谷と共に作り上げたこの場所以外にありえない。それなのに、半年以上も音沙汰がなかった桐嶋が、なぜ今になってそんなことを言いに来たのか。まるで理解できない。
戻れ、というのか。
何もない檻のような空間へ。
誰もいない、寂しい空間へ。
一人ぼっちの箱の中へ。
そして、誰かの訪れをひたすらに待ちながら、一人で生きていけと?
そう、言うのだろうか?
なんで?
見知らぬ人間を見るような眸で、怜は桐嶋を一瞥する。
ここには、崎谷がくれた世界がある。
あの小さな箱の中とは比べものにならない世界が。
その世界で、誰もが自由に暮らしていることを知った。
箱の中にいたころは考えも及ばなかったほど、自由に。
雨に打たれ、海の美しさに魅せられ、太陽を浴びて走り回ることの喜びを知った。料理を覚え、仕事を覚え、実社会で生きていくことの大変さとそれを上回る楽しさを学んだ。そして、友人と語らい、崎谷とぬくもりをわかちあい、共に支えあって生きていくことの幸せを。そうして満たされる想いを。この世界に連れ出されて、初めて知った。
それなのに。
なぜ自分はあの箱の中にもどらなければならないのだろう?
なぜそんなひどいことを、桐嶋は平気で口にするのだろう?
納得なんて出来るわけがなかった。
「嫌だよ。俺、絶対に戻らない」
「そういうわけにはいかないんだよ。このままここにいたら、いずれ傷つくのは怜自身なんだ」
「どういう意味?」
問う崎谷に、桐嶋は探るような視線を向ける。S級の因子の存在を、あの場所に怜が閉じ込められていた訳を。崎谷は怜にどこまで話をしているのだろうか。
迂闊なことは口に出来ないと、口をつぐんだ桐嶋の沈黙を怜が責める。
「何で黙るの? 桐嶋くん。俺、平気だよ? ここにいて何で俺が傷つけられるの? そんなことあるわけないよ。だって俺、幸せだもん。崎谷と一緒にここにいて、すっごい幸せだもん」
「怜さん……」
「だから、行かない。どこにも行かない! 絶対に!!」
「怜! わかってくれ。それがおまえのためなんだ」
「そんなのうそだ! 何でそんなこと、言うんだよ!?」
「だっておまえ、いままで俺たちと暮らしてきて、ずっと……ずっと楽しかっただろう?あそこにいれば、何も困ることなんてない。おまえの置いていったギターだってちゃんととってある。花壇だって綺麗に手入れがされたまま、いろんな花が咲いているよ。にぎやかにおまえを迎えてくれる」
切々と訴える桐嶋に、怜が冷たい眸を返す。
そんな言葉にはだまされないと、拒絶の色も露な眸を。
「桐嶋くん、それは、俺が何も知らなかったからだ。誰も何も教えてくれなかったから。だから、俺はあの中で平気で笑っていられたんだ。でも違う! 崎谷が教えてくれた。本当の世界が、どんなにすばらしいかってことを」
そう。自分は知ってしまった。
この世界を。
無限に広がる世界を。
「みんな、………みんなこの世界で生きてる。いろんな場所に自由に行って、いろんなものを見て、楽しそうに生きてる。なのに俺だけ……何で俺だけまたあの場所に閉じ込められなければいけないんだよ!? 桐嶋くん、なんでそんなひどいこと、平気で言うの? 俺が何をしたって言うんだよ!」
「―――――」
答えられるわけがない。
何もしていないんだから。
まだ何も。
だからこその隔離。
だからこその幽閉。
怜がこの世界で生きていくことが出来ないのは持って生まれた因子のせいだと、どうして伝えるこができるだろう?
無言で顔を歪める桐嶋を咎めるような眸で凝視しながら、怜が後ずさる。
「答えられないなら、適当なこと、言わないでよ」
「……………」
「俺はここにいる。崎谷と一緒にここにいる。桐嶋くん、一人で帰れよ! 帰ってよ!!」
「おまえだけじゃない。帰るときは崎谷も一緒だ。場所が変わるだけで崎谷とはずっと一緒にいられる。それなら……それなら問題ないだろう?」
そうだよなぁ、と、目線で同意を求められ、崎谷は静かに首を振った。
「俺は戻りません。怜さんと一緒に外の世界で生きていく。俺たちの望みはそれだけだ。ただ放っておいてもらえるだけでいい。誰に迷惑をかけるつもりもないし、かけるはずがない。誰が何をして怜さんを傷つけようとしているのか、俺にはわからない。だけど俺、守りす。命をかけても怜さんを守る。研究所を出るとき、それだけの覚悟はしたつもりです」
迷いなく語られた言葉に、自分には崎谷しかいないと、この瞬間、怜は改めて確信する。
そんな自分と崎谷をここから引きずり出そうとする桐嶋は、二人の暮らしを脅かしに来た侵略者以外の何者でもない。
ただ、この場所で暮らしていたいだけなのに。
二人で支えあって生きていきたいだけなのに。
たったそれだけの願いを、なぜ踏みにじろうとするのだろう?
どんな権利があったら、そんな勝手なことができるのだろう?
一歩前に足を踏み出した崎谷が、静かに言った。
「悪いけど。帰ってくれませんか? 桐嶋さん」
そうだ。
帰ってしまえ。
今すぐに。
「肝心なことを何も言ってくれないんじゃ、これ以上話し合ったって無駄です」
そう。
意味がない。
「すべてを話せば………納得してもらえるのか? だったら、いま、この場でなにもかもを話しても、かまわないんだな?」
桐嶋が何を言うつもりなのかを察した崎谷の顔色が変わる。
「桐嶋さん、それは……」
「聞くことないよ、崎谷」
動揺しかけた崎谷に、怜が凛とした声をかける。
思えば、とても簡単なことなのだ。
こんな簡単なことになぜ気付かなかったのだろう?
その存在が目障りななら―――――排除すればいい。
そう。
わずらわしいものは、この手で排除してしまえばいいのだ。
「簡単なことだったんだよ。崎谷」
「―――――!」
「―――――!」
次の瞬間、怜がためらいもなく突き出した手の先にあったものに、二人は言葉を失った。
そこに握られていたのは――――まっすぐに桐嶋に向けられたものは、流し台に無造作に置かれたままになっていた包丁だった。
野菜を洗って、この包丁で切って、肉と一緒にフライパンで炒めて味付けて。
これから楽しい夕食の準備をするはずだったのだ。あと少しで倉光だってここに来ることになっている。
それなのに…………出来上がらない料理。募るばかりの苛立ち。困りきっている崎谷。
こんな事態をもたらした原因さえ排除してしまえば、なにもかもがおさまるはずだ。
そう。とても簡単な話。
だから――――――
「桐嶋くんなんか、いなくなっちゃえばいいんだ!」
「だめだッ、怜さん! やめろォォ―――――ッ!」
崎谷の叫び。
伸ばされた腕。
けれども。
それを止める暇も、そして、避ける暇もどこにもなかった。
それはあまりにも唐突で、あまりにもためらいのない行為だった。
底のない深遠のように暗い色を孕んだ怜の眸に絡めとられたその瞬間には―――――痛みよりも、焼け付くような熱さが桐嶋の全身に広がった。
切っ先が潜りこんだ部分から爆片が飛散するような勢いで伝わる灼熱。
容赦なく腹の中を抉りあげられて、強烈な痛みが脳天まで駆け抜ける。
「ぐわッ――――――!!」
大切に大切に作り上げてきた空間に侵入してきた桐嶋は、いま、その何もかもを踏みにじろうとしている。
そんなことはさせない。
絶対に。
「俺はもう、戻らない。あそこには絶対に戻らない」
うわごとのように繰り返す怜は、力任せに引き抜いたナイフを、もう一度桐嶋の身体に突き立てた。
「っっ――――!!」
刃を抜かれた傷口からあふれ出る鮮血。新たな肉が切り裂かれる。
消えてしまえと。
いなくなってしまえと。
怜の思いを受けて、あふれ出る 命。
霞みゆく桐嶋の眸に映るのは、絶望的な表情で蒼白になった崎谷と、そして、怜。
硝子のような眸でただまっすぐに自分を見つめる怜だった。
あんなふうな顔をさせるつもりなどどこにもなかったのに。
大切に、大切に守るつもりだったのに。
どこで間違えてしまったのだろう?
――――怜………
責められない。
誰も怜を責めることなどできはしない。
こんな事態を引き起こしてしまったのは、怜だけのせいではない。
けれども。
抑えることの出来なかった衝動。
血で染められてしまった両手。
これで決定付けられてしまった。
自分がここに来てしまったことで、怜は背負わなければならない。
犯罪者の烙印を。
S級の因子保有者の宿命を。
「悪くない。………おまえは悪くない。何も……悪くない――――」
途切れ途切れに懸命につむがれる言葉。当然だと言わんばかりの眸で桐嶋を見やる怜。
「ごめん……、怜。ごめん、崎谷………」
声を聞くのもわずらわしいとでも言うかのように。
もう一度桐嶋の身体から抜き取った刃を怜が振り上げた。
「怜さんっ!! もう、いいからッ!!」
血に濡れた怜の腕を、たまらず崎谷が掠め取る。
ヌルリ、と。
その腕から滴って伝わる熱さは、桐嶋の命の名残。
桐嶋の――――――
「もう、いいから………」
巻き戻すことの出来ない時間。
取り返すことの出来ない過ち。
「さき……や、
もはや、吐息と判別のつかない桐嶋の囁き。
「ごめ―――――」
指し伸ばされた手を握ってやることもできないまま。
桐嶋の指先がバタリ、と、床に落ちた。痙攣を繰り返した身体は、それを最期に動きを止めてしまった。
「桐嶋さん……」
二度とその眸を開くことのない桐嶋に、崎谷は恨み言をぶつけずにはいられない。
謝られたところで、どうにもなりはしない。
許すことなど…………
「何でここに来たんだよ。桐嶋さん、なんで………」
激しい後悔が胸をかき乱す。
開けなければよかった。
あのドアを。
開けなければよかった。
こんなことになってしまうのなら、開けなければよかった。
これは怜の持つ、因子のせいなんかじゃない。
みんながよってたかって、そんなふうに怜を扱おうとした結果のあらわれだ。
それなのに。
それなのに―――――!!
「崎谷?」
どうして。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
震えの止まらない腕で、崎谷は怜をかき抱いた。
きつく、きつく抱きしめる。
涙が。
とまらない。
手の中をすり抜けていく、幸せな未来。
たった一つの小さな願い。
壊れてしまった。
完全に壊れてしまった。
大切に築き上げてきたもののすべてが。
守りきることが出来なかった。
怜を。
怜の未来を。
「―――――う……っっ」
「何で泣いてるの?」
その涙の意味が理解できない怜は、崎谷を慰めようと、懸命に言葉を捜す。
「大丈夫だよ、崎谷。これでもう、俺たちの邪魔をする者は誰もいない。ね? いなくなったよ」
倒れた桐嶋の死体を見ても表情すら変えることのない怜に、かける言葉が見つからない。
何を、言えば良いのだろう?
「約束しただろう、崎谷。俺たちはずっと一緒だって。大丈夫だよ。また誰かが来たって、俺たちの邪魔をするんなら片付けちゃえばいいんだよ。俺にはできる。いまだって、ちゃんとできたんだから」
崎谷の嗚咽は止まらない。
「俺が、ちゃんとおまえを守る。守るから………だからさ、泣かないでよ、崎谷。ねぇ、……崎谷?」
困ったように崎谷の名を呼ぶ怜は、緩んだその腕の中から抜け出し、そして、自分よりも大きな身体を両腕で包みこんだ。いつでも、崎谷がそうやって自分を抱きしめてくれたように。声をあげて泣き続ける崎谷を腕の中に抱きしめ続ける。
大切に。
大切に。
いとおしむように。
「大丈夫だよ? 大丈夫だから―――だから、泣かないでよ、崎谷………」
「―――――――」
手放しで泣き崩れる崎谷を心配そうに見つめる怜の表情は、血塗れた身体にはそぐわない、途方にくれた子供をあやす聖母にも似た、慈悲深く、慈愛に満ちたものだった。
そして――――――
いつしか。
いつしか、遠くから聞こえはじめたサイレンの音が、崎谷の耳に世界の終わりを告げるのだった。
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