•  両手いっぱいの幸せを君に  
    17 






     ゆるやかに流れる時間が容易に思い描くことのできる風景が、その街には広がっていた。
     大都会のような雑踏はないけれども、適度な人の出入りと活気を感じさせる街。
     そこそこの高さを有するビルはここからたいした距離を走らずに臨めるし、住宅やアパートが隣接している住宅街と思しきこの区域では、商店等もそれなりに充実しているようだ。
     もう少し規模の小さい閉鎖的な地域であったなら、隣近所の交流はより密で、それ故、怜の特異性がきわだってしまっていただろう。逆に、大都会の中では、あふれる騒音を受け止めきれずに途方に暮れてしまっていたかもしれない。
     だが、桐嶋のうかがい知ることのできる範囲内では、怜は実にのびやかに生活をしているように見受けられていた。
     崎谷が選んだのは、怜と共に新しい暮らしを始めるのに最適な場所。
     それが、桐嶋が初めて足を踏み入れた街の第一印象だった。
     半分ほど下ろした車窓からは、心地よい風が吹き込んでくる。だが、穏やかならざる桐嶋の胸の内には、車が目的地へと近づくにつれ、何とも言いがたい複雑な風が吹きつつあった。
     監視カメラの転送データでは何度もその姿を目にしてはきたけれども、それはあくまでも映像の中での姿に過ぎない。実際に研究所の外で怜に接するのはこれが初めてなのだ。
     離れていたのは半年と少し。
     再び自分と出逢った彼は、どのような表情をその眸に浮かべるだろうか?
     少し、怖い。
     いや、共に過ごしてきた時の中で通わせあった想いは、そう簡単に崩れはしないはずだ。ネガティブな方向へと揺れかけた気持ちを打ち消すように首を振った桐嶋は、ステアリングを握りなおした。何もかもが動き出してしまっている今、立ち止まることは出来ないのだ。迷っている暇すらなく、であるが故に進むしかない。己の信じた道を。
     あとふたつ。
     あとふたつ角を曲がれば目的の建物にたどり着ける。怜の暮らす、その場所へ。
     そんな間近なところまで来て、桐嶋は一度車を止めた。気持ちを静めるためと、カメラを警戒してのことだった。
     監視カメラは二人のアパートのそば近く、出入する人間すべてをチェックできるような場所に配置されている。自分の姿は当然そこに捉えられるだろう。あまり悠長に事を構えている余裕はないと思ったほうが良い。
     それにしても、彼らの監視の中から怜を連れ出し、そして駆け込む場所が研究所であるとは、ずいぶんと皮肉なことだと桐嶋は思う。そこは、自分たちとは相いれない者たちのテリトリーの中枢なのだから。
     だが、どこにいても怜の居所が彼らに知れてしまう現状を考えれば、逃げ場など、どこにもなかった。実社会で生活すること自体が怜を窮地に追い込んでしまうとすれば、何度考えたところで結論は同じだ。
     完全な平穏を得られる場所は、研究所、ただひとつ。
     そこが、怜にとって唯一の地上の楽園。
    「行くか」
     吸い終えた煙草を灰皿に押し付けると、サイドブレーキを下ろし、静かにアクセルを踏み込んだ。滑り出す車体。覚悟は決まっている。この角を左に曲がれば、残された曲がり角はひとつ。少し走って最後の角。右へ。
     その瞬間――――――目的の建物が、桐嶋の目に飛び込んできた。
     三階建ての、至って平均的な外観のアパート。あの場所で怜が暮らしている。
     胸が、鳴る。
     どんなふうに言葉をかけようか?
     なんと言ってその腕を引こうか?
     繰り返されるシュミレーション。
     きりがない。
     車を止めた桐嶋はとりとめのない思いを抱きながら何気なくバックミラーを覗き込み―――――その瞬間、息を呑んだ。反射的にシートの影に身を隠す。
     なんというタイミングだろうか。
     ミラー越しでも、見間違えるはずがなかった。
     怜がいる。
     監視カメラの映像の中の彼ではない。実際に動いている怜が、そこにいる。すぐそこに。
     ブランカで暮らしていたころは、こうして戸外に立つ姿を目の当たりにする日が来るとは思ってもいなかった。
     ―――――怜………
     その表情までを正確に読み取ることは出来ないが、少し伸びた髪は、もともと幼かった印象を、より幼く見せている感じがする。軽快な足取りで階段を登っていく怜が手に下げているものは、スーパーかコンビニの買い物袋。その中からのぞくのは、食材やペットボトルの類だろう。同行者はいないようだ。ということは、ひとりであれらすべてのものを購入してきたというのだろうか?
     実社会での日常生活に完全に馴染んだように見受けられる光景にこみ上げる、嬉しさと、戸惑いと。
     複雑な想いが桐嶋の胸を過ぎる。
     怜はこの場所で危なげなくまっすぐに立って歩いている。
     何の囲いもない、外の世界で。
     こうして一見しただけでは、彼が特殊な生活環境で暮らしてきた者だとうかがわせるような要素は何もなかった。
     そしてそれは、これまで長い間かかわってきたS級の因子の存在を、たとえ、一瞬でも全否定したくなった瞬間でもあったかもしれない。もしも研究に携わることがなければ、そんな因子の存在など認めることは出来なかっただろう。けれども、今まで積み重ねてきた知識と経験のすべてが、桐嶋を縛り付ける。
     結局、崎谷とは正反対の位置にいる自分を――――――因子の存在を肯定している自分を桐嶋は自覚している。だからこそ、今、この場所にいるのだ。
     そして、最も危うい立場にありながらも無邪気に笑っている怜は、今はまだ、穢れのない幸せの中に在る。その幸せを壊すようなことは、させない。絶対に。
     怜がS級の因子保有者の逃れられない宿命に絡めとられてしまう前に。
     救い出すのだ。
     怜を実験材料としてしか見ていないような輩の手から。
     何もかもが手遅れになってしまう前に。






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